秀吉の袖に、高松城からの鉄砲が、2発あったたのかどうかは、兎も角として、水攻めの準備は確実に進められていました。
その様子を常円は
「堤を築く前に、秀吉は、まず、塀数数百間と井楼・櫓を夜中に作らせます。五十間に一つづつ櫓をあけて、その櫓には白土すら塗っていたのです。でも、実際は白土はあらず、白い紙を張った障子を立て懸けていたのです。遠くから見ると、その白い障子が白壁のように見えたと云うのです。出来上がった櫓から弓矢鉄砲を打ち続け、その白壁の後ろで堤防を築いていたのです。そんな有様であったから、その間、高松城に籠っていた城兵は一人も城の外には出ることはできませんでした。」
と云うのです。
実際、堤はどのように出来たか詳しいことは伝えられてはいませんが、この常円の語りから、初めは簡単な塀を作り、その陰で、上は六間、下は十二間の堤三里を、僅か、十二、三日で完成させます。
ここに書かれているように、秀吉は語家来衆を七,八人連れて馬を走らせますが、これはもしかすると城中から鉄砲の届く範囲をご自分で確認するためのご乗馬ではなかったのでしょうか。また、この堤の長さも三里とありますが、これは一里の誤りで有ることは確かですす。
太閤期等の記述とも、少々の違いがありますが、常円の話もまんざらの作り話でもないと思いますので、引き続いて、最後まで書いていきたいものだと思います。
なお、作られた壁を白い壁と思わすために襖を使うなんて、いかにも秀吉好みの話のようにも思われますが。
その様子を常円は
「堤を築く前に、秀吉は、まず、塀数数百間と井楼・櫓を夜中に作らせます。五十間に一つづつ櫓をあけて、その櫓には白土すら塗っていたのです。でも、実際は白土はあらず、白い紙を張った障子を立て懸けていたのです。遠くから見ると、その白い障子が白壁のように見えたと云うのです。出来上がった櫓から弓矢鉄砲を打ち続け、その白壁の後ろで堤防を築いていたのです。そんな有様であったから、その間、高松城に籠っていた城兵は一人も城の外には出ることはできませんでした。」
と云うのです。
実際、堤はどのように出来たか詳しいことは伝えられてはいませんが、この常円の語りから、初めは簡単な塀を作り、その陰で、上は六間、下は十二間の堤三里を、僅か、十二、三日で完成させます。
ここに書かれているように、秀吉は語家来衆を七,八人連れて馬を走らせますが、これはもしかすると城中から鉄砲の届く範囲をご自分で確認するためのご乗馬ではなかったのでしょうか。また、この堤の長さも三里とありますが、これは一里の誤りで有ることは確かですす。
太閤期等の記述とも、少々の違いがありますが、常円の話もまんざらの作り話でもないと思いますので、引き続いて、最後まで書いていきたいものだと思います。
なお、作られた壁を白い壁と思わすために襖を使うなんて、いかにも秀吉好みの話のようにも思われますが。
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