私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

あせん 64

2008-06-28 11:08:23 | Weblog
 ゆきが伝えた「お忘れ願いたい」と、最後に口重に呟くよう言われたという老医師直弥のことを聞くと、おせんは「ううううう・・・」と喉の奥から搾り出されるような声と共にその場に倒れこむのでした。その声は、到底、この世のものとは思えない地獄の門からでも響いてくるかのように部屋中にとよもしていました。
 「女も決して損をしない。それを連理の枝になって、必ず、二人で探そう」と、たった10日前に言ってくださったその人が、もう、この世にいないなんて、とても、信じろと言っても信じる事が出来るはずがありません。おせんの目の前が、突然に真っ暗になり、その真っ暗な闇の中に自分の体がぽかっと浮いて、そこら辺りを根無し草のように漂っているのではないかと思われるのです。
 どこかその真っ暗な闇の中から政之輔の差し出す真っ白い手が消えたり現れたりしながら空ろに浮んでいます。懸命にその手をおせんが掴もうとするのですが、今にも届きそうになると瞬間に、その真っ白な手は、どこへともなく、すーと消えてしまいます。それでも、おせんは、なおも、手をいっぱいに伸ばし掴もうとします。が、そこにはもはや政之輔の手も何もありせん。うつろな虚しさだけが漂い、何もないただの一面が真っ黒なものの中に一人ぽつんと取り残されるようでもありました。一生懸命に「政之輔さま」と呼ぶのですが、その自分の声もその真っ黒の中に吸い込まれて掻き散らされる様に何処かに消えていきます。それでも一人で、その自分の声が消えて行った方へと、ふらふらとなおも真っ暗な闇の中を漂いながら追いかけていきます。
 そのうちに、真っ黒な闇も、それまであったなにもかも総てのものが心の中からきれいに消え去り、と同時に、自分自身さへもが、また、一緒に消えていきいき、何もかもが一切空っぽになっていきました。
 ゆきは、ぐったりとして力なく身を沈めるようにその場に崩れるようにして倒れていったおせんを抱き起こします。どのように介抱してよいのやら分らず、ただ 
 「おせんさん、しかりして」
 と、懸命に背の辺りをさするだけでした。


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