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備中干拓史の古地図

2010-01-22 11:09:14 | Weblog
 永忠の備前平野の干拓につい調べて居りますと、こんな古地図に付き当りました。
 江戸時代の備中新田略図です。
 この略図の説明によると、宇喜多氏が高松城の水攻め後、天正12年に早島に潮止め堤防(宇喜多堤)を築いて、福島・中庄・早島の地域が干拓されます。これが岡山平野の干拓の先駆けとなったのです。用水は「8ヶ郷用水」から引水されていました。この宇喜多堤の作られる前には、16世紀以前ですが、既に浜村・子位庄等が含まれていた「万寿の庄」と呼ばれていた新田開発もおこなわれていたのです。
 これ等から考えると、千原九右衛門勝則の築堤の技術は、高松の水攻め以前からの小規模な数々のこれらの干拓事業によって培われていたことは確かです。それが一機に公になったのが、たまたま起こった高松城の水攻めだったのです。
 
 古地図を見てください。地図の一番上の部分が16世紀以前に開発された万寿の庄新田などです。西阿知から東大川(古東高梁川)を挟んで、日吉・浜・西坂・平田・生坂・三田・二子・庄等の地名が見えます。            
 この地図にある「宇喜多開墾」が天正12年に出来た千原勝則が作った「宇喜多堤」です。地図を見ても、この干拓がいかに広大なもだったかがよく分かります。現在の国道2号線の無津・早島中・金田・西田・加須山の信号までの北側に広がる広大な土地が生まれたのです。 更に、その北側に広がる倉敷、福島、中庄、鳥羽(マスカット球場の辺り)徳芳・栗坂などの現JR山陽線の沿線なども、すべて、この時の堤によって生まれた干拓地なのです。

 なお、この地域の干拓は、岡山藩と備中松山藩(高梁)の二つ藩が協力して開発に当った珍しい例です。それは、当時、生坂は岡山藩の支藩の一つになっていて、共同作業によるしか干拓の目的が達成することが出来なかったからです。
 

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