私の町 吉備津

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吉備津神社秋の大祭「七十五膳据」神事

2012-10-15 16:22:11 | Weblog

 今年も吉備津神社の秋の大祭が13,14日の2日間ありました。十四日に行われる「七十五膳据」の祭り行事は、全国のお祭の中でも、ちょっと変わった優雅な出し物です。この「七十五」とは、一体なんだろうかといぶかる人が多く、その由来を正しく説明できる人は、地元宮内にもそんない多くはいないのだそうです。由来をたどって見ると、このお祭は昔は、毎年、九月の未日、勿論、旧暦での話ですが、行われたのだそうです。この日は、かの吉備津彦命が四道将軍としてこの吉備の国に来て、反乱軍を平らげ此の吉備の中山の麓(現在の吉備津神社がある所です)に凱旋された祥日のが申の日で、その前日をお祭の日と定めたのだそうです。
 太陽暦が日本の暦に正式に採用された明治以降も、暫くは、其の風習は残っていたのですが、太平洋戦争後、なんでもかんでも、それが民主主義だといって、新暦に従った風習と参加者の関係で、日曜日が選ばれて、いつとはなしに、昔の言い伝えなどは全く無視されて現在に至っているのです。
 現在では、そんな四道将軍の凱旋なんて人々の頭の片隅にもないような、単なるそこらに転がっている平凡なお祭になり下がっていますが、其の形だけは昔のままに残っています。

 では、この七十五とは、一体どんな数字だと思いますか。これも、古老からの言い伝えなのですが、次のような理由が存在しているのだそうです。
 昔から、その時代は分からないのですが、室町以前からあったのではと考えられているようですが、この吉備津神社の秋の大祭には、秋の収穫を感謝して 備中の国々の村々からその年にとれた農作物や魚類を奉納されていたのだそうです。備中国の新嘗祭的なお祭だったようです。それが、この七十五と言う数字に現われています。と言うのは、当時から、この備中の国の中には村の数が七十五あったのだそうです。要するに、此の備中の国の各一村から何処の村からも一品が奉納されたので、その数が七十五膳に上ったのです。そして、その奉納の為の行列がお祭の形として現代に伝わたものではないだろうかとも言われています。

 なお、此の吉備津神社のお祭が備中の新嘗祭tだと仮定するならば、その起源は遠く奈良以前からあったのではとも考えられますが、ご批判ください。


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