吉備津神社にも、その昔には、神楽を専門とする社家が20戸もあり、「神楽座」が組織されていましたが、惜しい事に、明治以降この組織は経済的な理由から廃れてしまい長い伝統が絶えてしまったということです。だが、戦後一時期に一度復興しており、その当時の写真も残ってはいますが、今では全く残念ながら見ることができません。
この「神遊」について、高尚先生は、次のように書かれています。
『かみあそびを中世の頃からは「かぐら」と、舞手を「かんなぎ」(祝女)と呼び、巫と言う字を使っていた。この神楽舞には、ひと手に小さな榊の枝、あるいは竹のはをもち、ひと手には鈴を持って踊った。これは天岩戸の前で踊った天鈿女命の真似をしたものである。中世以来何処の巫(かんなぎ)の舞も大体同じ形であった』
と。
私事(ひとりごと);
神の御前では、音楽を演奏するのは忌み嫌って為されなかったようですが、かんなぎは何処の神社でも見られていたと言う事です。昔のしきたりをそのままずっと続いていくと言うのもなかなか大変な事であるようです。
でも、かんなぎ、巫女の舞が見られないと言うのも少々寂しい感じもしますが、これも時勢でしょうか。
現代と言う時は何でしょうね。こんな事考えるのも、これって私の昨日今日の時差ボケのために生まれ出た思いかもしれませんね。
この「神遊」について、高尚先生は、次のように書かれています。
『かみあそびを中世の頃からは「かぐら」と、舞手を「かんなぎ」(祝女)と呼び、巫と言う字を使っていた。この神楽舞には、ひと手に小さな榊の枝、あるいは竹のはをもち、ひと手には鈴を持って踊った。これは天岩戸の前で踊った天鈿女命の真似をしたものである。中世以来何処の巫(かんなぎ)の舞も大体同じ形であった』
と。
私事(ひとりごと);
神の御前では、音楽を演奏するのは忌み嫌って為されなかったようですが、かんなぎは何処の神社でも見られていたと言う事です。昔のしきたりをそのままずっと続いていくと言うのもなかなか大変な事であるようです。
でも、かんなぎ、巫女の舞が見られないと言うのも少々寂しい感じもしますが、これも時勢でしょうか。
現代と言う時は何でしょうね。こんな事考えるのも、これって私の昨日今日の時差ボケのために生まれ出た思いかもしれませんね。
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