私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

おせん 5

2008-04-03 09:57:32 | Weblog
 2、3日後と、立見屋に告げて出て行った平蔵でしたが、今年は遅霜やいわしの不漁などによって綿の買い付けの交渉などに平年に比べ随分と手間取ります。やっと宿に立ち戻ったのは、宮内の桜も殆どが散ってしまい、歩いていても薄らと汗が額に浮き出る初夏の香りをほのかに匂わせ出した10日も後の夕方でした。
 偶然に出迎えたお園さんも、平蔵の顔があまりにも黒くなっているのを見て驚いた様子でした。
 「遅くなりました。ご心配をお掛けしました。あ、山桜ですか。まだ、こんなにきれいに咲いているのもあるのですね。・・・・そう言えば、今年の桜もゆっくりと見る暇もなく、あっという間に風が私の春を持って行ってしまったようです」
 と、足濯ぎを済ませて部屋に入り、床に活けてある青色の花瓶の桜に目をやりながら独り言のように呟きます。
 「今日、向山にある祖母のお墓にお参りしてきました。其処にあった桜が、他の木の花はもうとっくに散ってしまっているのに、ここの桜だけがまだ咲いているのです。その花が、あまりにも愛しく、つい心なしか折ってまいりました。これしかない桜を折ったりして私の心には悪い心が住み付いているのでしょうかね。・・・ごめんなさい。つい変なことお話して。さそく食事の用意をしてまいります。その間に、お風呂でお入りになって旅の汗でもゆっくりとお流しくださいな」
 と、部屋を出て行きます。
 
 平蔵は、活けてある桜の花を見ながら、春のさくら待ちわびて、花見にうつつを抜かして騒いでいる人たちのように、今までに桜見学をしたことが何回あっただろうかと思いました。
 物心が付いた時分から家が貧乏ということもあったのですが、それよりも、この時期は、苗代の準備や綿を始め畑作物の種物の植え付けなどの仕事が忙しくて百姓にとっては花見どころではないというのが本音だと思いますが、世間並みの花見をするなどという習慣すらあるということも知らないように過ごしてきました。

 床に活けてある逡巡とした山桜を、今更のように眺めていました。桜を折るということが、お園さんが言うように、いいことか悪いことかは知りませんが、自分みたいなあまり桜を知らない者にとっては「なんと美しく初々しいのだろう」と、ある種の恐ろしさのような、えも言われない心の疼きのようなものが、その桜の中から自然に移り伝わってくるように思えました。
 源氏とか何かと言うものをお読みのお店のご隠居さんがよくお口にされる「なまめかしく、ろうたげ」とか言われているのは、こんな心持ちかなとも思ったりもしました。
 風呂から出ると食事の用意が整っていています。
 「吉備津様のお祭りもようやく終わりが近づいています。やっとお客さんから解放され、みんなやれやれ、今年も春が終わったと心のうちで安堵しているようでございます。江戸歌舞伎も10日間の興行で、嵐門三郎もみんな江戸へお帰りでした。後は富くじやらなにやらが残っているだけのようですよ」
 「それにしても、今頃桜とは遅いですよね」
 「はい、一本だけ祖母のお墓の上に咲いているのです。毎年、遅そ桜遅そ桜とこの辺の人も咲くのを楽しみにしています。他にない1本だけの特別な桜ですから、この時期に吹く風を『桜風』と呼んで、この風が何時吹くんじゃろうかと、いつも心を痛めているようです」
 「そんな特別な桜ですか。そんなことを聞いて、何かよう分らんのですが、こうしてつくづくと眺めていると、きれいだというより心がぎゅっと締め付けられるようなうら悲しいような不思議な気分にしてくるようじゃなあ」
「まあ、うら悲しいなんて藤井の先生様みたいなことを言われますこと。・・・そうですね。よく考えてみたら、さくらは、お客さんがいわれるように寂しい心にもさせてくれます。どうしてでしょう」

 今まで、こんな一つことについて深く考え、人と、それも女の人と、話したことはなかったのです。
 たった25年しか生きてはいないのですが、平蔵には、今という時が、これまで過ごしてきた時の中で、「自分は、今、生きている」ということを実感としてひしひしと感じていました。こんな自分もここにいたのかと、活けられた折られた桜の中から思えるのでした。青い花瓶と山桜の花びら一枚一枚が部屋の行灯の薄暗い光のなかで光っています。お園さんの顔も桜の中に解け込んでしまったように思えました。
 「桜って本当に不思議な花ですね。お客さんとこうして話していて初めてさくらが愛おしく思われました、でも、もう桜もおしまいです。お人たちの話の中から桜という言葉は来年の春まで消えてしまいます。この山桜を最後にして。偉そうですが、そう考えると人が生きるということは何でしょうかね」
 こんなに話しながらゆっくりと食事を取ったことは、平蔵にとって初めてのように思われました。
 
 お園さんが言ったように祭りの客もすくなくなったのでしょう。来た時早々のあの喧騒はもう何処にも残ってないようです。でも、時々往来の方で大声で騒ぐ一団の声々も部屋に伝わってきて、祭りの後のわびしさがここかしこに感じられます。
 「一日明日は、ここでお店への報告を書きますのでよろしくお願いします」
 と、旅の疲れもあるのでしょう早々と床に入ります。
 障子には晩春の朧月が松の影を黒々と写し出しています。その影を見ながら、さくらの木を折るのは人の心が悪いからだと言った先ほどのお園さんのことが気になって仕方ありませんでした。
 
 


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