岡山藩主池田光政候の言行録としての「有斐録」の記事から、蕃山の私策を書いたのですが、光政侯の言行録には、その他に「仰止録」と言う本もあります。
その本を見てみますと、前の「有斐録」には記されてないことも2,3箇所見えます。
これによると、この承応三年の秋に起こった備前の大洪水を光政侯は、参勤交代で岡山へ帰る途中の岡崎駅でお聞きになります。早速、情報収集の為に、津田半十郎を、急ぎ帰国させたそうです。
此の津田半十郎と言う人は、どうも永忠の兄らしい人物です?
「諸士の内には、粮米の乏しきものもあるべし、此段第一に心を付け、城辺の破損箇所は委細絵図になし置くべし」
と仰せられとのです。
岡山にご帰国遊ばされてからも、非番の重役たちに命じて情報収集にあたらせたのだそうです。そして、被害の甚大なるをお知りになり
「・・借銀仕るも、我に於て栄耀は可耻之、斯様の時、少しも不可恥事に候事・・」
と、直ちに、農民たちの救助を命じます。
その為には、いくら借財しても、そのことは決して藩としての恥じにはならない、栄耀、即ち、贅沢することによって借金する方が、もっと恥じるべきことだと、言われたと云う事です。
どうです。何事にも、こんな藩主だったのです。光政候と言うお人は。
なお、この「仰止録」と「有斐録」に記載されている内容で違うのは、借財を申し込むために江戸に派遣した人物だけです。有斐録では蕃山その人が出向いたと書かれていますが、仰止録では「梶田清衛門」という名前が書き込まれています。
まあこうして、天樹院様のお陰で幕府より金四万両を借料しています。この天樹院様とは、岡山藩はいかなる関係があったのでしょうか?
其の辺りのことを詳しく明日にでも!!!
その本を見てみますと、前の「有斐録」には記されてないことも2,3箇所見えます。
これによると、この承応三年の秋に起こった備前の大洪水を光政侯は、参勤交代で岡山へ帰る途中の岡崎駅でお聞きになります。早速、情報収集の為に、津田半十郎を、急ぎ帰国させたそうです。
此の津田半十郎と言う人は、どうも永忠の兄らしい人物です?
「諸士の内には、粮米の乏しきものもあるべし、此段第一に心を付け、城辺の破損箇所は委細絵図になし置くべし」
と仰せられとのです。
岡山にご帰国遊ばされてからも、非番の重役たちに命じて情報収集にあたらせたのだそうです。そして、被害の甚大なるをお知りになり
「・・借銀仕るも、我に於て栄耀は可耻之、斯様の時、少しも不可恥事に候事・・」
と、直ちに、農民たちの救助を命じます。
その為には、いくら借財しても、そのことは決して藩としての恥じにはならない、栄耀、即ち、贅沢することによって借金する方が、もっと恥じるべきことだと、言われたと云う事です。
どうです。何事にも、こんな藩主だったのです。光政候と言うお人は。
なお、この「仰止録」と「有斐録」に記載されている内容で違うのは、借財を申し込むために江戸に派遣した人物だけです。有斐録では蕃山その人が出向いたと書かれていますが、仰止録では「梶田清衛門」という名前が書き込まれています。
まあこうして、天樹院様のお陰で幕府より金四万両を借料しています。この天樹院様とは、岡山藩はいかなる関係があったのでしょうか?
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