備前と備中の堺が、吉備津彦命のお墓であるとされている吉備の中山の御陵を二分して付けられているいうことをお話しました。
「それだけこの御陵のある吉備の中山は神聖な場所なのです。」
こんな坂田さんの説明に対して、このお山に登られてきた人から、
「その堺がここに決まったのはいつですか」
という問いに対して、坂田さんは
「大昔は吉備国が一つでした。それが三つに分れたのははっきりした事は歴史には書かれてはいないのですが、中には、仁徳天皇の時だ、欽明天皇の時だと言う記録もあるが、いずれも正確ではない。天武天皇の記録には「吉備国」と名前が歴史の記録に見え、まだ、その頃は吉備の国が3つにわかれていたとは思われない」
と説明がありました。
「松の落葉」には
記録的に見ると、美作が出来たのは続日本紀によると、元明天皇の和銅年間だとされています。だから、その前の持統天皇の御代に分れていた」
と書かれています。
このことについては、七月十日にも書いたのですが、坂田さんの回答があまりにも、ずばりでしたので、ここに再述します。
「それだけこの御陵のある吉備の中山は神聖な場所なのです。」
こんな坂田さんの説明に対して、このお山に登られてきた人から、
「その堺がここに決まったのはいつですか」
という問いに対して、坂田さんは
「大昔は吉備国が一つでした。それが三つに分れたのははっきりした事は歴史には書かれてはいないのですが、中には、仁徳天皇の時だ、欽明天皇の時だと言う記録もあるが、いずれも正確ではない。天武天皇の記録には「吉備国」と名前が歴史の記録に見え、まだ、その頃は吉備の国が3つにわかれていたとは思われない」
と説明がありました。
「松の落葉」には
記録的に見ると、美作が出来たのは続日本紀によると、元明天皇の和銅年間だとされています。だから、その前の持統天皇の御代に分れていた」
と書かれています。
このことについては、七月十日にも書いたのですが、坂田さんの回答があまりにも、ずばりでしたので、ここに再述します。