私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

人の死

2007-11-30 15:53:42 | Weblog
 一昨日、ご近所の63歳の主婦の方が突然にお亡くなりになられました。前日まで、凄くお元気で、お話もしていたのですが、朝、ご主人が起きられた時にはもうお亡くなりになられたということでした。
 ご近所みんな「どうして、こんなことってあるのかしら」と、驚くやら悲しむやらして、人の命のはかなさについて話しています。まだ63歳、これから人生を楽しもうとしておられた矢先の事だったようです、「本当にご愁傷様でございます」と、いうあいさつそのものでした。

 この死について、高尚先生は『松の落葉』で、「人は死にたらん後のためにも神を祭るべき事」として、

 「今生きていて、そのご利益を頂くために、人は神にお祈りをするのですが、本当は、神様にお参りしてお祈りをするのは、人が死んだ後のためにするのがいいのだ。人の命は神のみがお知りになっており、死後も、神の御はからいに従うものである。だから、死後のことは、神に十分にお頼みするのが一番良い。仏では人の総てを救うというわけには行かないから」
 と、書かれています。

 私事(ひとりごと);
 考えてみれば、高尚先生は、吉備津神社の神主でしたから、日本古来からの「神」を中心にして物事を考察されるのは当たり前です。
 先生は、特に、人を恨んだり怒ったりして死んでいったような人に対して、仏さまは、決して、救うては下さらない、神として祭って始めてその御霊は救えるのだ、と説いています。
 現代でも、多くの人を怨んで死んでいく人がいますが、この人たちはあの世では果たして恨みが消え去っているのでしょうか。
 仏教はこれに対していかなる答えを用意しているのでしょうか。そんな他愛もない事を、『松の落葉』から考えてみました。

 なお、先生の「死」に対する記述は、ここ一箇所だけでした。
 
 それにしても、私は、今まで漠然と、人が死んだら仏様として祭られるのが当然のように思っていたのですが、考えてみれば、高尚先生の考え方のように、神式の葬儀も、それなりの深い思想があるのだと思いました。
 「宮参り」「七五三」など、人の成長を祝う行事は大方神社で行います。また、「四二」などの厄落としも神社が主役なのですが、どうして人生の最終着だけは、「仏」が主役になったのでしょうか。
  
 考えてみれば、「死」とは摩訶不思議なことですね。