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感想:『戦後民主主義と少女漫画』

2010年02月02日 19時51分03秒 | 本と雑誌
戦後民主主義と少女漫画 (PHP新書)戦後民主主義と少女漫画 (PHP新書)
価格:¥ 777(税込)
発売日:2009-05-16


図書館の書架で見掛けて借りた本。著者の飯沢耕太郎は写真評論家だが、その著作を読んだことはない。
章を挙げて取り上げた作品は、大島弓子『バナナブレッドのプティング』、萩尾望都『トーマの心臓』、岡崎京子『ヘルタースケルター』の3冊。残念ながら私はどれも読んだことがない。

本書の冒頭に、著者が高校時代学園闘争で体験した出来事が書かれている。制服廃止を巡り、長時間に及ぶ全学集会で教師たちが廃止を認めるという発言が相次いで出てきたとき、廃止派学生の一人が教師たちの態度に対して、「あなた方の多くは、みんなが開催に合意したこの場の討論でほとんど発言もせず、これまで沈黙を守ってきた。しかし、一人の同僚が勇気をふるって自分の立場を明らかにすると、今度は流れに乗り遅れまいとして、生徒にへつらうようなことを平気で言いはじめた。まるで前からそう思っていたかのような口ぶりだが、少し調子がよすぎやしないか。あなた方はそれでも教師か。俺はそんないい加減な態度はまったく信用できない。いままでどうして黙っていたか説明してほしい……」と発言した。学生たちの盛り上がりに水を差したこの発言を契機に、戦後民主主義とそれに対する「違和」の表出について少女漫画を題材に語っている。

二十四年組によって少女マンガは変革した。しかし、その変革をリアルタイムに体験した読者はほとんどが少女である。そして、その体験を論理的な著述として語られる機会は少ない。当時ごく少数だった男性読者が語ることがほとんどであり、その証言も貴重なものだ。本書はそのひとつと言える。
読書メーターのコメントでは大塚英志の思想が反映されており、そこから逸脱していないと本書を指摘しているが、大塚の著書についてほとんど記憶に残っていないので、その指摘が正しいかどうかは判断できない。

戦後民主主義という言葉について、具体的な定義が本書内でなされていないので曖昧さが残る。
社会の中で個人が疎外される形態は当然昔からあった。それがより問題となったのが個人の確立以降であり、その問題に正面から取り組んだのが文学である。日本において最も代表とされるのが夏目漱石だろう。しかし、それは国民全体に共有された問題ではなく、「インテリ」の問題と呼ぶべきだった。
戦後、下層が中流化していくのと同時に上層も中流化し、戦後民主主義の名の下に社会システムが構築される。そこから疎外された者たちの受け皿として最も完成されたもの、それが少女マンガだと言い切っても過言ではない。日本的な価値感と経済成長を目的としたシステムに最も強く閉塞されたのが「少女」性であり、そこから抜け出す戦いの過程こそが少女マンガの変革だった。

しかし、バブル期頃から様相は変わってしまう。市場経済が全てを飲み込み、金銭的価値が社会を支配するようになる。悩むことは「根暗」だとレッテルが貼られ、悩みも性も疎外も金で解決すべきものとなる。当然ながら、それは幻想だ。古い価値観が叩き壊された果てに、ただ市場経済の自己責任論という頭の悪い思想のみが残り、バブルがはじけると共に疎外はむしろ拡散し浸透することとなった。
岡崎京子が「今」を切り取って10年遅れて綿矢りさといった作家が出て来た印象だが、70年代の少女マンガのような場の形成には至っていない。

ネットやケータイによって繋がることで疎外をなんとか耐えて生きている。しかし、そこは安楽の場ではなく、その「空気」を読み、「空気」に従い、「空気」という束縛の中で成立している。
バブル崩壊後、急速に経済優先の社会システムが築かれた。経済大国でなければならないという幻想の下に。そこでは疎外がますます再生産されている。行き着く未来ははっきりしているのに誰もそれを見ようとしない。
既得権益を持つ者や勝ち組と称される者たち、つまり疎外から最も遠い者たちの社会が生み出された。疎外された者たちはその中だけで足を引っ張り合っている。それを変えようという風が吹かないこともない。しかし、自力で変えていこうという意志はあまり見えない。そうする余力がないとも言えるだろうが。そうする力がないとも言えるだろう。

本書の締めに「優しさ」や「思いやり」を希望として語っている。それは、疎外された者同士が立場や考え方の違いを越えて手を取り合う力である。それが希望としてしか語られない社会。それが今の日本の姿である。(☆☆☆☆☆)