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環境問題スペシャリスト 小澤徳太郎のブログ

「経済」 「社会」(福祉) 「環境」、不安の根っこは同じだ!

「将来不安」の解消こそ、政治の最大のターゲットだ

2006年9月29日の所信表明演説が示す安倍首相の「環境認識」

2007-01-07 12:21:40 | 政治/行政/地方分権


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小泉政権を引き継いだ安倍新内閣が昨年9月26日に発足し、安倍首相が9月29日に所信表明演説を行いました。 「所信表明演説」というのは首相の理念を端的に語るもので、同日の朝日新聞夕刊にその全文が掲載されています。

この所信表明演説は「はじめに」(117行)、「活力に満ちたオープンな経済社会の構築」(147行)、「財政再建と行政改革の断行」(111行)、「健全で安心できる社会の実現」(117行)、「教育再生」(48行)、「主張する外交への転換」(147行)、「むすび」(102行)、つまり全文789行、1行11字ですから、およそ8700字の分量ということになります。

ここに述べられていることのほとんどすべては、スウェーデンが、すでに、20世紀の経済成長期につくりあげ、維持してきた「福祉国家」で実現されてきたことです:誰もが再チャレンジ可能な社会、プライマリーバランスの黒字化など・・・・・。

ですから、安倍首相が掲げる「美しい国、日本」というのは“「20世紀の福祉国家」スウェーデンの日本版”と言ってもよいのかもしれません。つまり、スウェーデンが20世紀の「福祉国家(人間を大切にする社会)」から21世紀の「緑の福祉国家(人間と環境を大切にする社会)」へ大転換しようとしているときに、日本は「20世紀のスウェーデンのような人間を大切にする社会」を高福祉高負担ではなく、日本独自の別の方法で実現しようとしているかのようです。

およそ8700字の所信表明演説で“持続可能な”という21世紀のキーワードは「持続可能な日本型の社会保障制度」という表現で一度出てくるだけです(図の青の部分)。

環境分野に関わる記述は全文789行中16行にすぎません(図の赤の部分)。

平成14年版環境白書は「日本の温室効果ガス排出量の約9割は二酸化炭素によるもので、その9割以上がエネルギーの使用に伴って発生しています」と述べていることからも明らかなように、化石燃料の削減を伴わないエネルギー体系のもとで太陽光発電を導入したり、緑化を進めても、またバイオマスの利用を加速しても効果が得られないことは明らかです。太陽光発電も緑化もバイオマスの利用も基本的には二酸化炭素排出量の少ない利用技術ではありますが(それについても、判断基準によって、いろいろな議論があります)、決して二酸化炭素削減技術ではないからです。

このように、この所信表明演説を見る限り、安倍政権(安倍首相およびこの所信表明演説の草案に関わった側近や官僚)の環境問題に対する基本認識は“小泉政権と同程度あるいはそれ以下”と考えざるを得ません。

環境問題は20世紀の国づくりでは想定されていなかった問題ですが、21世紀には避けてとおれない大問題です。日本のような市場経済社会にとって、環境問題は21世紀最大の問題であるはずです。現政権にはこの認識がまったく欠落しているようです。

 <安倍首相の施政方針演説(2007年1月26日) 

環境対策:過去、現在 そして未来

2007-01-07 10:10:29 | 市民連続講座:環境問題


これまでの環境対策は、上の図のように、「環境への人為的負荷の低減」と「汚染された環境の修復」でしたが、これからの対策は「環境変化によって生ずるさまざまな社会的な事象への対応」となるでしょうから、これらの対応に要する社会的コストはこれまでの対策コストをはるかにしのぐものとなるでしょう。

これまで企業も政府の関連行政機関(経産省および環境省)も上の図の「環境への人為的負荷の低減」と「汚染された環境の修復」を環境ビジネスと称して、その拡大を図っていますが、このような環境問題に対する認識ではいま私たちが直面している環境問題には対応できないでしょう。このような発想は20世紀の「公害」の域を出ていないからです。

企業は現在の環境問題の重要性を十分に理解し、環境問題の解決に向けた方法で先行投資を行なわなければなりません。環境問題解決への努力は、企業活動を阻むものではなく、 「21世紀の生態学的に持続可能な社会」「21世紀の新しい社会にふさわしい企業活動」の基礎をつくることと軌を一にするものです。企業は環境問題の本質を理解し、正面から取り組めば、明るい将来を約束されるはずです。 

 90年代の市場経済のグローバル化にともなって、日本のマスコミに頻繁に登場するようになった「メガ・コンペティション(大競争)」という言葉は、20世紀型の経済活動を温存したままで個々の企業の生き残りのために行なう大競争ではなく、21世紀の「持続可能な社会」をめざした、人類の生存をかけた大競争でなければなりません。


初めてのトラックバック-その2:家畜の飼養

2007-01-06 22:26:39 | 農業/林業/漁業/食品
このトラックバックには、EU加盟の是非についての世論調査の結果のほかに、つぎのような興味深いテーマも含まれていました。

------------------------------------
例えばBelgian Blueという肉牛種。

スウェーデンでは、牛を筋肉モリモリにする
やり方が非人道的であるとして、この肉牛の輸入が禁止されていたのだが、
EU加入の3年後、1998年にこの禁止を撤廃するよう命令されている。
例えば鶏の飼育小屋。スウェーデンの鶏は、他のEU諸国の鶏に比べると
かなり優雅な住まいに暮らしているらしい。
しかし、EU全体にスウェーデン方式が導入されるのは早くても2012年。 
今のところ、非人道的な飼育を理由に、他国からの鶏肉輸入を禁止すること
はできない。
--------------------------------ーーーー

この件について、関連情報を提供しておきましょう。

私の本「スウェーデンに学ぶ持続可能な社会 安心と安全の国づくりとは何か」(朝日選書792 2006年2月)のp257からの抜粋です。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1986年からは、成長促進用に飼料に添加する抗生物質の使用を禁止しました。これは、EUの「成長促進の目的での抗生物質使用禁止」を先導することになりました。88年7月1日から施行された「動物保護法」は、ペットの保護という観点だけでなく、家畜の飼養管理という観点からも興味深いものなので、簡単に紹介しておきましょう。

動物保護法は1944年の「動物愛護法」を現状に合うように全面的に見直したものです。この法律の基本的な考え方は、「動物は本来持っている自然行動を考慮した環境で飼育されなければならない」というものです。動物の飼育で大切なことは、「動物が健康で安心して生きていけるような環境を整えること」です。さらに、この法律では、家畜の飼養管理にも、つぎのような点で注意が払われています。

①牛は放牧すること
②ケージ内の採卵鶏の羽数を減ずること
③繁殖用の母豚が自由に歩き回れるような十分なスペースを与え、寝床、餌場、排泄場所を別々にすること
④動物の飼育に要するさまざまな技術は動物の必要に適合するものであって、その逆であってはならないこと
⑤と畜は可能なかぎり動物に苦痛を与えないように行なうこと
⑥将来、家畜に異変を起こさせるおそれがある遺伝子工学の応用、成長ホルモンの使用を禁止することができる権限を政府に与えること


初めてのトラックバック-その1:スウェーデンのEU加盟

2007-01-06 21:54:47 | 政治/行政/地方分権
新年を期して始めた1月2日の私のブログに、初めての「トラックバック:スウェーデンの憂鬱」(1月4日)が来ました。先方は環境コンサルタント@ワシントンDCとあるので海を渡って(空を飛んで?)届いたようです。

1月4日のブログは次のような書き出しで始まっています。

         スウェーデンの憂鬱
   先月行われた調査で「EUに加盟して得したと思うか?」という問いに
   Yesと答えたスウェーデン人はわずか41%だったそうだ。
   これは、EU全体の平均、54%に比べるとだいぶ低いし、
   スウェーデンより下にいるのは、従来EUに懐疑的なイギリスだけ。

   スウェーデンのプライドでもあった厳しい環境法や倫理基準を、
   他の加盟国が付いてこられるようなレベルまで下げざるを
   得なかったことがイライラに繫がっている模様。

このブログの最後には 元記事: Swedes find EU membership a drag on environment, food safety and animal rightsが明示してありますので、内容のフォローアップができ私にとって大変有益でした。

この記事が伝える現状は「7年前の99年の状況とあまり変わっていないな」(トップの新聞記事を参照)というのが私の感想です。

スウェーデンは1995年1月1日にEUに加盟したので、加盟後のスウェーデンの環境政策や福祉政策をはじめとする様々な政策や制度は、EUの影響を直接的に、あるいは間接的に受けることになりました。この機会に、日本のマスコミが報じたEU加盟直前のスウェーデンの状況を当時の朝日新聞を参照しながらまとめておきます。

朝日新聞 94-03-11

最近の各種世論調査によると、EU加盟をめぐる世論はつぎのとおり。

         賛成     反対  未定
スウェーデン  35%   42%  23%
フィンランド   39     30   31
オーストリア   42      25  33
ノルウェー    28       42  30

朝日新聞 94-11-14                     

EU加盟の是非を問うスウェーデンの国民投票は94年11月13日に実施され、即日開票の結果、賛成52.2%で反対の46.9%を上回った。投票率は82.4%であった。

朝日新聞 94年11月14日                       

EU加盟をめぐるスウェーデンの論議は、「加盟しなければ、来世紀に向けて高 度福祉社会と生活水準の基礎となる経済を維持することは望めない」とする賛成 派と、「伝統的な中立政策の放棄につながり、環境や平等、民主政治、失業問題 について自分たちで決められなくなる」と主張する反対派に二分された。
 
平和主義の下、福祉、環境、情報公開などの分野で先進的な政策を実現してきたスウェーデンは、EUにとっては数少ない加盟歓迎国の一つだ。「賛否の差は1%で十分」という、なりふり構わぬ“ラブコール”が欧州委員会の本音った。
 
EU議長国ドイツのキンケル外相は早速、「スウェーデンの安定した政治、平和外交、産業力がEUの獲得物になった」と歓迎の声明を出した。また、1995年1月に退任するドロール欧州委員長は、記者団に「投票結果を欧州統合への信任と受け止めたい。この国と入れ替わりに欧州委を去ることに悔いが残る」と述べた。

朝日新聞 94年11月30日

EUの共通政策のうち、拡大の影響を最も受けそうなのが「環境」だ。環境保護で先行する北欧二国(スウェーデンとフィンランド)が加わることで、EUの政策基準は徐々にきびしくなろう。
      
また、北欧の弱者保護の伝統はEUの福祉や労働条件にも反映され、共通社会政策の外で「小さな政府」路線を貫く英国は孤立を深めよう。消費者保護、情報公開などでも、特にスウェーデンの先進的な政策が影響を与えそうだ。
     
朝日新聞 2000年5月9日

EU支持率 低い大国・北欧 ユーロで上向く

トップの記事を参照

異業種交流:あの鮮烈な映像は忘れられない!

2007-01-06 13:43:14 | 経済
これまでの古い話からも容易に想像できますように、スウェーデンの考え方の中にはものごとを総合的に関連づけて考える、言い換えれば「エコロジー的な(生態学的な)考え」があります。エコロジー的な考え方に基づく問題の解決方法は好むと好まざるとにかかわらず、解決すべき問題のプロジェクトに分野の異なる有識者や研究者の参加を要求し、彼等の協力を生みます。

これに対して、日本では環境問題を考える際にエコロジー的な考えはほとんどなく、いまなお、技術を非常に重要視する考え方、つまり「工学的あるいは技術的対応」が優先しているように思います。もう少し正確に言えば、エコロジー的な考え方は単に「教科書的な知識」としては日本にも存在するが、問題解決のための手段や行動のための原理として環境関連の法体系の中に組み込まれていないので、その知識が全く機能していないといった方がよいでしょう。

このあたりが地球環境問題を含めた環境問題に対するスウェーデンと日本の大きな考え方の相違だと思いますし、特に、「環境問題」とか私たちの「健康」という問題になりますと、この考え方の相違は大いに問題とすべき点であろうと思います。 

日本の産業界では、この20数年間に「異業種交流」と称して、新製品を開発するために全く異なる業種の企業が協力するという試みが活発になってきました。今なお、私の記憶に鮮明に残っている映像があります。80年代後半に栃木県のある食品会社(?)と化学会社が共同で新製品「七色の醤油」を開発したというTVニュースがありました。

食品会社が通常の醤油を作り、化学会社が醤油をわざわざ化学的に脱色して“透明な醤油液”を作り、それに今度は七種の食用色素で着色して「七色の醤油」とするのだそうです。この開発に携わった会社の担当者は開発したばかりの新製品「七色の醤油」の市場性を、「その日の気分で、醤油を使い分ける」などと真面目に説明している映像を目にした時、私は複雑な思いに駆られました。

日本では、「新製品の開発」には異業種交流が進み、目新しい商品が次々と市場に投入され、その結果として製品の製造工程やその製品が廃棄物となった時点で「環境への負荷」を増大させているのとは対称的に、「環境問題」やその他の国民に共通の様々な重要な社会問題の解決に“もう一つの異業種交流”、すなわち、「社会の構成員である政治家、行政、学者、企業、一般国民などの交流」による合意の形成とその合意に基づく協力が進まないこと、あるいは「省庁間」、「省庁内部」の合意と協力さえ進まないところにわが国の問題があるのです。
 

「自然史博物館」と「環境問題」

2007-01-06 13:18:00 | 環境問題総論/経済的手法
この話も先ほどの話とおなじように、1973年12月のスウェーデン訪問の時の話です。

「自然史博物館というのはなんとなく薄暗い感じがして、そこには、ほこりをかぶったワシなどの鳥類の剥製が整然と並んでいる」というのが、当時、私が漠然といだいていた自然史博物館のイメージでしたし、そこで研究している科学者に対しても「あまり派手なところがなく、社会の動きにはあまり関心がなく、黙々と自分の研究に打ち込んでいる」というような感じを持っていました。

ところが、このようなイメージのところで研究していた科学者がスウェーデンの環境分野の最前線で活躍していたのです。なぜかと申しますと、先ほどの食品の話とおなじように、自然史博物館に保存されているワシなどの猛禽類はいつ、どこで捕獲されたかがはっきりしており、ラベルに明記されています。

スウェーデンの自然史博物館の科学者はそれらを年代順に並べ、放射性炭素の性質を利用して年代を測定する技術を持つ原子物理学の研究者と協力して、それぞれのワシの羽の中に含まれている水銀の濃度が時代と共にどのように変化してきたかを調べたのです。その結果、ワシの羽の中に含まれていた水銀の濃度は世界の工業化の時間経過と実にみごとなまでに相関しているということを見つけ出したのです。

スウェーデンの科学者が環境中に放出されたPCBによる環境汚染を世界に先駆けて警告したのも同様の考え方でした。ワシなどの猛禽類は自然の中で「食物連鎖」の頂点に立っている動物です。それらの動物の体内に蓄積された水銀とかPCBに関する知見から、「私たちの健康に悪影響をおよぼしそうな化学物質がどのようにして私たちの体に入ってきたか」を最初に警告したのが自然史博物館の科学者だったのです。



「冷蔵庫」と「環境問題」

2007-01-06 12:55:34 | 環境問題総論/経済的手法
環境問題に強い関心をお持ちの方なら、「冷蔵庫と環境問題」というタイトルを見た瞬間に、「冷蔵庫(フロンガス)→ 環境問題(オゾン層の破壊)→ 紫外線による皮膚がんの増加」という連想が直ちに働いて、「なるほど、スウェーデンは高緯度に位置するし、スウェーデン人は白人が多いから、われわれ日本人よりも皮膚がんになる危険性が高い。だから、環境問題に熱心なのだ」と考える方がおられるかも知れません。

この連想はあながち間違っているとは言えないかも知れませんが、私がここでお話したいことはそういうことではなく、1973年12月に環境問題の勉強のために初めてスウェーデンに行き、王立カロリンスカ研究所を訪問した時の話です。

X X X X X
この研究所はノーベル生理学・医学賞を選考することで有名なところですが、私はこの研究所の環境衛生部門の地下室に案内されました。そこには大変大きな冷凍庫があって、冷凍庫のドアーを開くと、真っ白な冷気の向こうに食品の缶詰や瓶詰が整然と並べられ、それぞれにラベルが貼られており、それらがいつ頃どこで製造されたのかが一目でわかるように整理されていました。

「なぜ、私たちがここでこのような古い食品を保存しているのだと思いますか?」と問われて、当時の私は即座には答えられませんでした。私が返事に窮していると、私を案内してくれた研究者は次のように説明してくれました。

「将来、何か新たな環境汚染物質が問題になった時、いつ頃どこで製造された食 品から問題の物質が検出されるかを調べる目的で保存しているのです。水銀やP CBによる環境汚染を科学者が警告し始めた早い時期に、スウェーデンの新聞、 ラジオ、テレビなどのマスメディアを通じて国民に広く呼びかけ、家庭の倉庫に ほこりをかぶって放置されていた古い缶詰、瓶詰などの食品を提供してもらい、 それらを集めて、このように整理したのです」
X X X X X

環境問題に多少の関心はあったもの漠然とした断片的な知識しか持ち合わせていなかった当時の私は、この説明を聞いた時、すばらしい着想だと思いました。

みなさんもご承知のように、日本の水俣病は有機水銀を含んだ魚を長いこと食べ続けた結果とされていますし、イタイイタイ病(カドミウム)、喘息(大気汚染物質)なども低レベルの特定の汚染物質に長期間暴露されたことによるとされています。

このことは、大気、水、食物を通じて、低濃度の有害物質が、たえず、私たちの体内に入り、それらの有害物質が総合的に私たちの健康に障害を与える可能性があることを意味しています。ですから、問題の有害物質がいつ頃から私たちの食べ物の中に入ってきたのかを知ろうという試みは、私には非常にわかり易い考えでしたし、当時の日本にはない考えだろうと思いました。


なぜ混ざらない「下水汚泥」と「台所の生ゴミ」

2007-01-06 12:26:15 | 環境問題総論/経済的手法
昨日のブログ:政治が決める「これからの50年」で、1993年5月の「環境基本法案などに関する衆議院環境委員会中央公聴会」での私の発言要旨をご紹介しました。

その①で「このような新法をつくるよりも行政の縦割り構造にメスを入れることだ」と述べましたが、このことは13年経った今でも適切な発言だったと思います。以下の記述は、私が1992年に書いた本「いま、環境・エネルギー問題を考える」(ダイヤモンド社)に収録されています。当時の状況は現在も変わらないのでしょうか。

X X X X X
下水を処理すると「汚泥」というヘドロのようなものがかならず出てきます。当然のことですが、下水は私たちが生活している限り、毎日毎日、水の使用に伴って排出されるものです。処理しなければならない下水の量が多ければ多いほど、つまり、水の使用量が増え、下水処理施設が整備されればされるほど、相対的に汚泥の量は増え、その増えた汚泥の処理に必要な経費、エネルギー、処分施設、処分場、その他様々なことが増大することになります。

私たちが健康で快適な生活を維持していくためには、必要な水を消費することになりますが、水の消費量が増大すれば、汚水の処理・処分が必要になり、水の処理・処分が不十分であればあるほど、長期的に見ればきれいで安全な水を得るためにコストがかかることがすでに現実問題として誰の目にもわかるような段階に入ってきました。

1970年代の初めにスウェーデンでは、下水の処理施設から出る「汚泥」と家庭の台所から出る「生ゴミ」を混ぜて、コンポスト化する研究を環境保護庁が中心になって熱心に進めていました。コンポスト化したものを農地などに戻し、土壌改良剤として利用しようという考えだったのです。「下水汚泥」や「台所の生ゴミ」には植物の生長に必要な栄養源が豊富に含まれていますが、同時に環境への危険物も混ざっています。ですから、危険物をきちんと除去し、安全性を確かめた上で、農地に返そうと考えたのです。

私はこれを良いアイデアだと思い、早速、日本の状況を調べてみました。「ゴミの話だから」ということで、まず厚生省に行きました。当時の厚生省の担当官は「日本ではそんなものは混ざらない」と言いました。「どうして混ざらないのですか? スウェーデンではそれらを混ぜて利用しようとしていますよ」と尋ねました。

その担当官の答えは実に明快でした。「台所から出る生ゴミは確かに厚生省の所管だが、下水処理施設関連のことは建設省の所管だから、この両者は原則的には混ざらない。『下水汚泥』と『生ゴミ』ではなくて、『生ゴミ』と『し尿』なら混ざることはあるだろう」と言うのです。国がだめなら、自治体はどうかと思い、都庁に行き、同じ質問をしました。「東京都には下水道局があり、下水関係はこの局の所管だが、ゴミは清掃局の所管である」ということで、国の考え方と全く同じ回答をもらって帰ってきたわけです。

X X X X X

この話は30年以上も昔の話です。つまり、当時の日本の状況からすると、「下水汚泥」と「生ゴミ」は行政上の制約により混ざらないというわけです。しかし、一般論で言えば、この混ぜたものが肥料としての価値があり、しかも毎日大量に排出されるものであれば、十分な処理をして安全性を確認した上で、土に返すという考えのほうが現在の知識で考えても私には合理的に思えますし、当たり前のことのように思われます。

地球環境問題が日常の話題に上るようになり、廃棄物問題が極めて重要な問題として、産業界のみならず、国全体の問題として認識され、「循環型社会」の必要性がわが国の各省庁の白書や報告書の中に将来の望ましい姿として描かれるようになった現在、はたして、毎日排出され続けているわが国の台所からのと下水処理場から出る「汚泥」と「生ゴミ」は、相変わらず、すんなりとは混ざらないものなのでしょうか?


「予防志向の国」(政策の国)と「治療志向の国」(対策の国)

2007-01-05 20:37:07 | 社会/合意形成/アクター
1972年6月の第一回国連人間環境会議でのスウェーデンにとっての最も重要な論点は、「環境の酸性化」(日本でいう「酸性雨問題」。化石燃料の燃焼によって生じた硫黄や窒素の酸化物が、国内のみならず国境を越えて、他国の環境に与える影響のこと)でした。

この会議からの教訓の一つとして、スウェーデン環境保護庁は、翌年の73年からワシントンと東京のスウェーデン大使館に「環境問題専門の担当官」を置くことを決めました。そして、私がその任に就くことになったのです。73年2月から私の新しい仕事が始まりました。

この決定に、スウェーデンの環境問題に対する基本認識の一端を垣間見ることができます。その理由はつぎに述べるように単純明快です。大使館での私の職務内容を記した書類には、つぎのように書かれていました。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 
近年、世界の先進工業国は技術導入、技術移転などを通じて製品を生産しており、 途上国も先進工業国からの技術移転による生産活動をしているので、生産工程や そこで使用される原材料やエネルギーは基本的には似たようなものになってきて いる。

  そうだとすれば、スウェーデン国内で公害が起これば、類似の生産工程を持つ他 の先進工業国や途上国でも類似の公害が起こる可能性があるし、逆に、他国で 起こった公害はスウェーデンでも起こる可能性がある。したがって、不幸にして スウェーデン国内で先に公害が起これば、その原因を分析し、他国の政府にスウ ェーデンの経験を提供することにより、その国の公害を未然に防ぐことができる はずである。

また、どこかの国でなんらかの公害が先に起こった場合には、その原因を分析し、 その結果に基づいて行政が早めに対策をとれば、スウェーデン国内で同種の公害 が起こることを未然に防ぐことが可能になる。そのためには、情報を早めに交換 するために常駐の「環境問題専門の担当官」が必要である
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

自国の体験と他国の体験を交換することにより、行政が早めに対応すれば「公害は未然に防げる」、あるいは「防げないまでも、被害を最小限にとどめることができるはずである」というわけです。さらにいうと、「公害」に対しては「治療よりも予防のほうが社会的コストは安くなる」という考え方です。

第一回国連人間環境会議と並行してストックホルムの環境広場で開かれた、民間の「ダイドン(大同)会議」に日本から出席した、水俣病やカネミ油症などの被害者を目の当たりにして、スウェーデンの政府や国民は、この「予防対策を重視した環境問題に対する基本的な考え方」の正しさを確信することになったのです。これは33年前のスウェーデン政府の決定です。

スウェーデンと日本の違いは、「予防志向の国」「治療志向の国」 、言い換えれば、「政策の国」「対策の国」といえるでしょう。スウェーデンは公的な力で「福祉国家」をつくりあげた国ですから、社会全体のコストをいかに低く抑えるかがつねに政治の重要課題でした。そこで、政策の力点は「予防」に重点が置かれ、「教育」に力が入ることになります。

一方、これまでの日本は目先のコストはたいへん気にするが、社会全体のコストにはあまり関心がなかったようです。90年代後半になって社会制度からつぎつぎに発生する膨大な社会コストの「治療」に、日本はいま、追い立てられているのです。


政治が決める「これからの50年」

2007-01-05 18:45:30 | 政治/行政/地方分権
環境の危機的な状況に対して、日本の政治はどのような対策を講じているのでしょうか。

日本で「環境基本法」が制定されたのは、「世界環境報告 1972-92」がUNEP(国連環境計画)から発表された1992年の翌年の1993年。それから10年後の2003年9月12日付の朝日新聞は、「鈴木環境相は12日の閣議後記者会見で、公害対策を中心とした環境基本法を、積極的な環境の再生と改善のための枠組みに転換することを視野に入れた検討を開始する考えを明らかにした」と報じています。

このことは13年前、私がスウェーデンの環境政策の専門家として、衆議院環境委員会中央公聴会に公述人として招かれたときに指摘したとおり、環境基本法が現実の変化に対応できない不十分な法律であったことを示唆するものだと思います。
 

1993年5月13日、「環境基本法案等に関する衆議院環境委員会中央公聴会」に出席を求められた私は、この法案について、上記のような趣旨の意見を述べました。

詳細はhttp://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/126/0379/12605130379001c.htmlを参照。

あれからおよそ13年経った今年2007年、「環境問題」に対する日本とスウェーデンの考え方の相違は、当時よりもさらにはっきりしてきました。両国の間には、環境問題に対する認識や行動に20年以上の開きがあるといっても過言ではないでしょう。

この相違を明らかにし、皆さんの議論の材料を提供することがこのブログの主な目的の一つです。

環境危機の現状をよく知る

2007-01-05 16:40:09 | 市民連続講座:環境問題
私たち人間のみならずすべての生き物にとって、環境問題がどれほど切羽詰まった事態にあるのか、それを知ることから始めましょう。その現状と今後50年の展望は、これまでに発表された報告書から見て取ることができます。
権威ある国際機関が90年代以降に発表した主な報告書には、上記のようなものがあります。

なかでも、国連環境計画(UNEP)の「地球環境概況 2000」は、21世紀に人類が直面するであろう環境問題についての最も権威ある評価報告書といわれています。この報告書のポイントを挙げておきましょう。 

①地上の淡水資源は、今後数十年間の需要増には対応できそうにない。
②温室効果ガス排出増による地球温暖化の防止はおそらく手遅れ。「京都議定書」 (1994年3月に発効した、地球温暖化防止のための「気候変動枠組み条約」 を具体的な実施に移すために作成され、1997年12月に京都で開かれた第三 回締約国会議(COP3で採択された議定書)の目標も達成が難しい。
③熱帯林の破壊は既に取り返しがつかない状態。失われた森林の回復には多くの時 間が必要で、森林とともに失われた文化は永久に回復できない。
④ほ乳類の四分の一が絶滅の危機にあるなど、かつて地球上に存在した生物多様性 を保つことは既に手遅れの状態。
⑤2050年には、20億人が極度の水不足に悩むことになり、世界の二酸化炭素 の排出は2.4倍になる。有害物質の排出は地球全体では現在の3倍、途上国で は5倍近くになると予測される。
⑥天然漁業資源は乱獲,かくの影響で、現在年間8800万トンで頭打ちだが、20 50年の需要は1億7000万トンに達すると予測される。
⑦目先の経済的な利益のためにしばしば無視されてきた環境問題を、財政、貿易、 農業、投資、研究開発などに関する意思決定の中心に置くことが重要。
                  (東京新聞 1999年9月20日付)

また、2002年7月に公表された世界自然保護基金(WWF)の「生きている惑星の報告」では、「いまの勢いで天然資源の消費が続けば、2030年までに人類の発展は下降に転ずる。資源節約やエネルギー転換など緊急の対策をとらなければ、発展を続けてきた人類の福祉や経済は2030年までに下降に転ずる」と予測し、警告を発しています。



「明日の方向」を決めるのは私たちだけだ

2007-01-04 20:36:28 | 政治/行政/地方分権


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この図は、これから50年の「将来を決めるのは誰か」を考える重要な図です。2000年に生まれた赤ん坊は生きているかぎり、2050年には50歳になります。同じように、20歳の人は70歳に、50歳の人は100歳になります。

とくに日本では、いま、60歳以上の人たちが社会のさまざまな問題に対して政治的、行政的、企業的な将来の決定を行なっている現状を思い起こす必要があります。

政治の分野では、先の長くない政治家が、およそ60年前につくられた法的枠組みのなかで、「経済の拡大志向の考え」をほとんど変えることなく、21世紀前半社会の方向づけをしているのが現状です。そして、これまでの日本の制度では、政策をリードしてきた官僚は数年で別の部署に移動し、政策決定の責任を追及されないのです。

2006年9月26日発足の安倍連立内閣の閣僚を見てみましょう。18人の閣僚のうち男性は16人、女性は2人。年齢は60代以上が10人(70代:4人、60代:6人)50代が7人、40代が1人で、平均年齢は66歳です。もちろん、年齢の高低がここでの問題ではありません。閣僚の「現状認識」と「将来展望」が問題なのです。
 
2000年に20歳の人が100年後の2100年まで生きられる可能性はあまり高くないと思いますが、50年後の2050年であれば、その可能性はきわめて高いはずです。つまり、いま生きている私たちだけが、今後50年間の「少子高齢化」や「環境問題」などに代表される行き詰まった現在の日本社会を改善させるか、あるいは、さらに悪化させるかを決定する、すべての責任を有しているのです。

その意味で、日本の21世紀前半社会の行方は、今年(2007年)から定年が始まる、約700万人と推定される団塊の世代の「環境問題に対する意識と行動」と、その子どもたちの行動にかかっています。重要なことは前進であって、後退ではありません。環境問題や資源の保全を考えるとき、過去を振り返るのではなく、新しい考え方で将来を展望しなければならないのです。


人類史上初めて直面する2つの大問題

2007-01-03 11:20:14 | 市民連続講座:環境問題
これからの50年、先進工業国に住む私たちは、否応なしに、人類史上初めて直面する二つの大問題を経験することになるでしょう。どちらも、私たちの社会をこれからも持続させることができるかどうか、つぎの世代に引き渡すことができるかどうかに、深くかかわっています。

その一つは、日本でも関心の高い「少子・高齢化問題」です。少子化も高齢化も、人類にとって初めての経験ではありません。しかし、少子化と高齢化が手を携えてやってきたことは、これまでにはありませんでした。これは「人間社会の安心」を保障する年金、医療保険、介護保険、雇用保険などで構成される「社会保障制度の持続性」にかかわる問題です。つまり、人間社会の安心と安全が保障されるかどうか、という意味において「社会の持続性」にかかわる大問題なのです。

もう一つはいうまでもなく、「環境問題」です。これは「人類を含めた生態系全体の安全」を保障する「環境の持続性」にかかわる人類史上最大の問題です。環境問題の根本には人間の経済活動が原因として横たわっているわけですから、この問題を解決するための具体的な行動は、経済的に見れば「経済規模の拡大から適正化」への大転換であり、社会的に見れば20世紀の「持続不可能な社会(大量生産・大量消費・大量廃棄の社会)」から21世紀の「持続可能な社会(資源・エネルギーの量をできるだけ抑えた社会)」への大転換を意味します。

先進工業国がさらなる経済規模の拡大を追求し、途上国がそれに追従するという20世紀型の経済活動の延長では、経済規模は全体としてさらに拡大し、地球規模で環境が悪化するにとどまらず、これからの50年間に人類の生存基盤さえ危うくすることになるでしょう。

 この二つの大問題は、私たちがいままさに、「人類史上初めての大転換期」に立たされていることを示しています。



戦後62年 立ち止まって考えてみよう

2007-01-03 11:00:55 | 環境問題総論/経済的手法
さて、2005年、日本は戦後60年を迎えました。そして、今年2007年には、戦後の混乱が終息した1947~1949に生まれた「団塊の世代」(約700万人)が60歳の定年を迎えることになります。

この時代の大きな転換期にちょっと立ち止まって、混乱する日本を、そして、激動する世界を考えてみてください。

日本のあちこちで地震、台風、火山の噴火など自然災害が相次いで発生しています。国際社会に目を転ずると、2004年12月26日のスマトラ沖地震によるインド洋大津波や2005年8月29日に米国南部を襲ったハリケーン「カトリーナ」など、自然災害の報道が多くなっています。戦争やテロ活動はやむきざしがなく、貧困の原因の一つとも指摘されている経済のグローバル化は、さらに急速に進展しています。

しかし将来、自然災害の発生をとめることが技術的に可能になったとしても、また、戦争やテロ活動がなくなり世界に真の平和が訪れたとしても、私たちがいま直面している環境問題に終わりはありません。私たちの「経済のあり方」「社会のあり方」が、環境問題の直接の原因だからです。

あらためていうまでもありませんが、工業化社会では資源やエネルギーが大量に使用されます。その結果、必然的に生ずるのが、汚染物質の大気圏、水圏、土壌などの「環境への人為的負荷」です。そして、その環境への人為的負荷が蓄積し、「環境の許容限度」と「人間の許容限度」に近づくと「環境問題」として表面化し、広く社会に認識されることになります。

つまり、環境問題が示唆する本質的な問題は、「それほど遠くない将来、私たちが日常の経済活動から生ずる環境負荷の蓄積に耐えられるかどうか」ということ、つまり「私たち人類の存続危機」にかかわることなのです。
 
それだけではありません。20世紀の後半になって顕在化してきた地球規模での環境の悪化は、拡大しつづける市場経済社会の行く手を阻むことになります。なぜなら、環境をこれ以上悪化させないために、また、できれば環境を改善するために、エネルギーや資源をできるだけ使わない経済のあり方が求められるようになるからです。

「化石燃料の使用により大気中のCO2濃度が増えると、地球が温暖化する」という仮説を最初に唱えたのは、スウェーデンの科学者スバンテ・アレニウスで、1896年のことでした。
この110年間に「世界の経済状況」と「私たちの生存基盤である地球の環境状況」は大きく変わりました。110年前にスウェーデンの科学者が唱えた仮説がいま、現実の問題となって、私たちに「経済活動の転換」の必要を強く迫っています。

今日の製品は明日の廃棄物

2007-01-02 11:43:44 | 廃棄物


岡野守也さん、大井玄さん、それに私の3人が呼びかけ人となって昨年11月19日に鎌倉のお寺で開催したシンポジウム「日本も<緑の福祉国家>にしたい! スウェーデンに学びつつ」を基礎にして、いよいよ「持続可能な緑と福祉の国・日本をつくる会(仮称)」が活動を開始しました。

旗揚げしたばかりの新しいブログで、事務局幹事を務める斉藤さんが新年のご挨拶とともに、家庭ごみの扱いについてご自身の面白いアイデアを披露しています。

斉藤さんのアイデアを読んで、2004年6月8日付の朝日新聞の投書欄に掲載された「家庭ごみ削減 源を断たねば」と題するご意見を思い出しました。このご意見は、廃棄物問題の本質をみごとにとらえていると思います。投稿されたのは当時66歳の無職の方です。



今日の製品は明日の廃棄物(スウェーデン)、「分ければ資源、混ぜればごみ」(日本)という表現に、「経済活動の必然的な結果である廃棄物問題」に対する両国の基本認識と、その認識に基づいた廃棄物政策の違いが端的にあらわれています。

スウェーデンの「今日の製品は、明日の廃棄物」というのは、いくら環境にやさしい製品をつくっても、環境にやさしいからといってその製品を大量に生産し、消費すれば、大量の廃棄物を発生させることになることを意味しています。大量の資源と大量のエネルギーを消費する結果、全体として環境悪化を促進することを示唆しています。
日本では、「分ければ資源、混ぜればごみ」。大量に製品をつくり、消費しても、分別して排出すれば資源となるので、「問題はない」ということになりがちです。

大量生産・大量消費という20世紀型の産業構造を転換させようとしているスウェーデンと、大量生産・大量消費をしても大量リサイクルをすればよいと考えている日本、この二つの国の考え方には大きな違いがあります。

前者は1994年に始まる一連の「廃棄物に対する製造者責任制度」の構築・運用を経て、国際的な考え方である「持続可能な社会の実現」へと向かい、後者は国際的な考え方とは似て非なる「持続的な経済成長」をめざす日本独自の「循環型社会の実現へ」と向かいます。