先日、慶応を代表する強打者の1人として、堀場秀孝さんを取り上げました。
過去記事へのリンク
慶応で、右の強打者である堀場選手を取り上げたからには、左の強打者として高橋由伸選手の名前も挙げなければなりません。
中学生時代に全国制覇を経験した高橋由伸選手は、神奈川の桐蔭学園から1994年に慶応義塾大学に進学。
1年生からレギュラー選手となりましたが、少し中弛み。
二年生の秋が終わった時、当時の後藤監督から喝を入れられたら、いきなり効果が出て、3年生の春に打率5割1分2厘を記録して三冠王を獲得しました。
四年生では主将を務め、春にリーグ優勝。
そして、学生最後となる秋のリーグで、それまで法政の田淵幸一選手が持っていたリーグ最多本塁打記録を更新する、通算23本塁打を放ちました。
リーグ通算102試合出場し366打数119安打、62打点、打率.325。
歴代1位となる通算219塁打が、高橋選手の素晴らしさを示しています。
※200塁打以上は、過去3人しかいません。
二位:岡田彰布(早)214
三位:谷沢健一(早)203
高橋選手が放った23本の本塁打のうち、半分ぐらいを私は神宮で目撃しているのですが、彼の本塁打は、他の強打者たちのものとは少し異なる質の打球であったと記憶しています。
例えば、当時の早稲田の強打者であった中村壽や矢口選手の場合には、パワーで球を叩き込むようなイメージ。
漫画チックにいえば、ボールが『痛いっ!』という表情をしながら外野スタンドに叩きつけられるという感じでしょうか。
一方、高橋選手の打球は、すうーっと柔らかく外野席に運ばれていくイメージ。
ボールがニコニコしながら空中を飛んでいくような、異次元のしなやかさを感じました。
技術的には、ボールを芯で捉える技術が天才的であり、なおかつバットの振りがとてもスムーズだったということなのだと思います。
熱烈な大学野球ファンであった、故・鈴木ヒロミツさん(芝高校出身で、若い頃から六大学野球に親しむ。かつてのモップスのリードボーカル)が、この当時の高橋選手の打撃を絶賛していました。
『長嶋茂雄選手や田淵幸一選手の時代と投手力が違うと、高橋選手の打撃の実力を評価しない声がある。しかし、長年にわたって六大学を見てきた私が保証する。高橋由伸選手は、プロ入りしても、常に30本塁打以上を放つような、そして打撃タイトルを獲得するような強打者に、必ずなる。』
私も全く同感でした。
新記録となる23本目の本塁打は、リーグ戦後半の慶法戦で飛び出しました。
おりしも、ヤクルトスワローズのリーグ優勝の懸かったナイト・ゲームとの併用日。
神宮球場周辺に溢れたヤクルト・ファンの外野席への入場が、慶法戦の途中から始まりました。
試合の途中から、外野席にヤクルト・ファンが続々と入ってきて、ちょっと球場内がざわついて落ち着かない雰囲気に。
しかし、入場が一段落すると、さすがは熱心な野球ファンの皆さんです。
慶応と法政の熱戦を、ヤクルト・ファンも外野からじっと見守る状況となりました。
当時の法政には、後にプロ入りする伊達、真木、矢野、安藤という実力派の投手が揃い、球場のスピードガンでも140キロ後半が次々と表示されました。
『おおっ。大学の投手の球って、けっこう速いね』というような声がヤクルト・ファンの間からも聞こえてきて、私は、ちょっと誇らしげな気持ちにもなったり。
そんな場面で、安藤優也投手(後に阪神)が投じたボールを高橋選手が打つと、打球は美しい放物線を描いて右翼席上段に飛んでいきました。
リーグ新記録の23本目の本塁打です。
内野席の大学野球ファンが、総立ちで拍手を送りました。
続いて、場内アナウンスで新記録を知ったヤクルト・ファンからも、温かい拍手が巻き起こりました。
そして、慶応の攻撃が終わって右翼守備につく際にも、外野席のファンの方々から大きな拍手が起こり、高橋選手は帽子をとって外野席に向かって挨拶を。
大学四年生にして、すでに千両役者という雰囲気を漂わせる、天才打者・高橋選手でした。
プロ入りしてからも、高橋選手は期待通り打ちまくりました。
外野フェンスに激突して鎖骨骨折してしまったシーズンは、その負傷をするまで、40本以上の本塁打を打つ勢いでした。
その故障さえなければ、高橋選手は、これまでに何度も打撃タイトルを獲得するような大打者になっていたことでしょう。
今でも、体調さえ良ければ、東京ドームの最上段まで楽々届くような大ホームランを打つ高橋選手。
かえすがえすも、あのフェンス激突が悔やまれてなりません。
過去記事へのリンク
慶応で、右の強打者である堀場選手を取り上げたからには、左の強打者として高橋由伸選手の名前も挙げなければなりません。
中学生時代に全国制覇を経験した高橋由伸選手は、神奈川の桐蔭学園から1994年に慶応義塾大学に進学。
1年生からレギュラー選手となりましたが、少し中弛み。
二年生の秋が終わった時、当時の後藤監督から喝を入れられたら、いきなり効果が出て、3年生の春に打率5割1分2厘を記録して三冠王を獲得しました。
四年生では主将を務め、春にリーグ優勝。
そして、学生最後となる秋のリーグで、それまで法政の田淵幸一選手が持っていたリーグ最多本塁打記録を更新する、通算23本塁打を放ちました。
リーグ通算102試合出場し366打数119安打、62打点、打率.325。
歴代1位となる通算219塁打が、高橋選手の素晴らしさを示しています。
※200塁打以上は、過去3人しかいません。
二位:岡田彰布(早)214
三位:谷沢健一(早)203
高橋選手が放った23本の本塁打のうち、半分ぐらいを私は神宮で目撃しているのですが、彼の本塁打は、他の強打者たちのものとは少し異なる質の打球であったと記憶しています。
例えば、当時の早稲田の強打者であった中村壽や矢口選手の場合には、パワーで球を叩き込むようなイメージ。
漫画チックにいえば、ボールが『痛いっ!』という表情をしながら外野スタンドに叩きつけられるという感じでしょうか。
一方、高橋選手の打球は、すうーっと柔らかく外野席に運ばれていくイメージ。
ボールがニコニコしながら空中を飛んでいくような、異次元のしなやかさを感じました。
技術的には、ボールを芯で捉える技術が天才的であり、なおかつバットの振りがとてもスムーズだったということなのだと思います。
熱烈な大学野球ファンであった、故・鈴木ヒロミツさん(芝高校出身で、若い頃から六大学野球に親しむ。かつてのモップスのリードボーカル)が、この当時の高橋選手の打撃を絶賛していました。
『長嶋茂雄選手や田淵幸一選手の時代と投手力が違うと、高橋選手の打撃の実力を評価しない声がある。しかし、長年にわたって六大学を見てきた私が保証する。高橋由伸選手は、プロ入りしても、常に30本塁打以上を放つような、そして打撃タイトルを獲得するような強打者に、必ずなる。』
私も全く同感でした。
新記録となる23本目の本塁打は、リーグ戦後半の慶法戦で飛び出しました。
おりしも、ヤクルトスワローズのリーグ優勝の懸かったナイト・ゲームとの併用日。
神宮球場周辺に溢れたヤクルト・ファンの外野席への入場が、慶法戦の途中から始まりました。
試合の途中から、外野席にヤクルト・ファンが続々と入ってきて、ちょっと球場内がざわついて落ち着かない雰囲気に。
しかし、入場が一段落すると、さすがは熱心な野球ファンの皆さんです。
慶応と法政の熱戦を、ヤクルト・ファンも外野からじっと見守る状況となりました。
当時の法政には、後にプロ入りする伊達、真木、矢野、安藤という実力派の投手が揃い、球場のスピードガンでも140キロ後半が次々と表示されました。
『おおっ。大学の投手の球って、けっこう速いね』というような声がヤクルト・ファンの間からも聞こえてきて、私は、ちょっと誇らしげな気持ちにもなったり。
そんな場面で、安藤優也投手(後に阪神)が投じたボールを高橋選手が打つと、打球は美しい放物線を描いて右翼席上段に飛んでいきました。
リーグ新記録の23本目の本塁打です。
内野席の大学野球ファンが、総立ちで拍手を送りました。
続いて、場内アナウンスで新記録を知ったヤクルト・ファンからも、温かい拍手が巻き起こりました。
そして、慶応の攻撃が終わって右翼守備につく際にも、外野席のファンの方々から大きな拍手が起こり、高橋選手は帽子をとって外野席に向かって挨拶を。
大学四年生にして、すでに千両役者という雰囲気を漂わせる、天才打者・高橋選手でした。
プロ入りしてからも、高橋選手は期待通り打ちまくりました。
外野フェンスに激突して鎖骨骨折してしまったシーズンは、その負傷をするまで、40本以上の本塁打を打つ勢いでした。
その故障さえなければ、高橋選手は、これまでに何度も打撃タイトルを獲得するような大打者になっていたことでしょう。
今でも、体調さえ良ければ、東京ドームの最上段まで楽々届くような大ホームランを打つ高橋選手。
かえすがえすも、あのフェンス激突が悔やまれてなりません。
あいつぐ故障で最近輝きを失いつつあるのがちょっと寂しい気もします。
二人の対決は見応えがありました。
大学時代は憲伸に分があったようですが、それは憲伸がミーティングで指示された攻め方でなく、力勝負にこだわったためだと当時の明治の部員から聞いたことがあります。
プロ入り1年目、憲伸は由伸をほぼ完璧に抑えました。ミーティングでの指示を守らないなんてありえなかったでしょうね。監督が、星野仙一さんなんですから(笑)。
ではまた、拝読するのを楽しみにしてます。