酔眼独語 

時事問題を中心に、政治、経済、文化、スポーツ、環境問題など今日的なテーマについて語る。
 

野球の神様は確かにいた

2009-08-25 05:45:16 | Weblog
 夏の甲子園、決勝戦は見事な試合だった。「日本文理に勝ってもらう」と書いたが、残念ながらそのその望みは叶わなかった。でも、価値ある準優勝だ。

 高校野球の大きな魅力は「筋書きのないドラマ」性にある。思いかげないことがおき、場面は暗転と歓喜を繰り返す。県岐阜商と日本文理の一戦では、審判さえドラマを競演していた。7回1死二塁で県岐商の痛烈なゴロが三遊間を襲う。サードの中村が飛びつくが、グラブからわずかに球がこぼれる。拾う。投げる。打者走者の足は送球より一瞬早くベースに達していたが、塁審の両手は大きく横に広がった。勝負を分けた判定だ。これも野球の神様のなせる業だ。

 決勝戦の九回表、日本文理の奇跡的な反撃も神様が仕組んだことなのか。

 4-10から2点を返して2死三塁。四番吉田が3球目?を三塁側のファールグラウンドに打ち上げたとき、誰もがこれで試合は終わったと思ったに違いない。でも、三塁手の河合は打球を見失っていた。この直前、テレビに河合のアップが映った。目が潤んでいて泣き出しそうな気配だ。涙でボールを見失ったのだろうか。

 30年前の箕島と星稜の戦いを思い浮かべた。延長16回裏、箕島の打者が打ち上げた一塁側へのファールを星稜の一塁手が落球、延長18回箕島のサヨナラ劇につながる。

 結局吉田は四球、高橋義、伊藤、代打石塚が連打して1点差。8番若林のバットも快音を残した。悲鳴と歓声が甲子園を揺らす。糸を引くような打球は、河合のグラブに吸い込まれた。神様は見放したり救い上げたりする気まぐれでもある。

 お互いにこれまでの試合では見せなかったミスも出た。これも神様のいたずらだろう。

 どきどき、はらはらの演出者・野球の神様の正体とは何だろう。グラウンドに立つ球児と観客の祈りが生み出す何かかもしれない。いい決勝戦を見せてもらった。中京大中京、日本文理ナインの健闘を称えたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする