左の部分案内地図(前回の記事と同じ地図)のように、永井荷風の墓の反対側に岩瀬忠震(ただなり)の墓がある。永井荷風「断腸亭日乗」昭和8年(1933)正月元旦に次の記述がある(以前の記事に全文あり)。
「正月元日。晴れて暖なり。午後雑司谷墓地に徃き先考の墓を掃ふ。墓前の蠟梅馥郁たり。先考の墓と相対する処に巌瀬鷗所の墓あればこれにも香華を手向け、又柳北先生の墓をも拝して、来路を歩み、護国寺門前より電車に乗り、伝通院に至り、大黒天に賽す。・・・」
鷗所とは忠震の号である。幕末、老中阿部正弘は思い切った人物登用を行ったが、そのときの抜擢組の一人であり、他に勝麟太郎(海舟)・永井尚志・筒井政憲・松平近直・川路聖謨・堀利熙・井上清直・江川太郎左衛門(英龍)などがいた。忠震は、目付に出世してから下田奉行井上清直とともに全権委員として、通商貿易を求めてきた米国のハリスと条約締結交渉に当たった。岩瀬、井上ともに当時の幕府の役人中では、もっとも俊才で、開明的であり、外国通であったが、さすがに外交交渉には慣れていないため、ハリスの話を聞くだけであったという。
荷風は、次の年(昭和9年)にも正月元旦に墓参りにきたが、そのとき記録した岩瀬家の墓石の墓碑銘を「断腸亭日乗」にのせている。長いが以下引用する。 「正月元日 旧暦十一月十六日 晴れて風なし。朝の中臥蓐に在りて鷗外全集補遺をよむ。午後雑司ケ谷墓地に抵り先考の墓を拝す。墓畔の蠟梅古幹既に枯れ新しき若枝あまた根より生じたれば今は花無し。先考の墓と相対して幕臣岩瀬鷗所の墓あり。刻する所の文左の如し。 ② 淡順院殿正日寧大居士 ③ 従五位下肥後守爽恢岩瀬府君之墓 ①が岩瀬氏代々の墓、②が忠震の養父忠正の墓、③が忠震の墓(右の写真)である。(丸付き数字は、原文では、漢数字である。) 府君:尊者や亡祖父・亡父の尊称 幕末に将軍家定の継嗣を誰にするかで一橋派(前水戸藩主徳川斉昭の第七子で、一橋家を継いだ一橋慶喜を推す)と南紀派(紀州藩主徳川慶福を推す)との争いがあったが、南紀派の井伊直弼が安政五年(1858)4月に大老に就任し、徳川慶福が継嗣に決まった。その後、直弼は一橋派の幕府役人の左遷を始め、忠震も一橋派であったが、米国との外交交渉のために残されていた。同年6月に日米修好通商条約がハリスと井上清直・岩瀬忠震との間で調印された後、忠震は、永井尚志や川路聖謨とともに隠居・慎とされた。 荷風の墓碑銘の記録によると、その3年後の文久元年(1861)岩瀬家は次々と悲劇に見舞われたようである。忠震の跡継ぎの忠斌が夏に病で亡くなり、忠震が七月十一日に病で亡くなり、忠震の養父忠正が九月廿八日に亡くなっている。忠正は、享年六十八、六男九女の子供がいたが、男はみな若死にし、忠震を養子にし長女を娶せ、この養子が養父よりも出世し目付・外国奉行になった。忠震は、享年四十四、三男六女の子供がいたが、これもまた男はみな若死にした。一族からきた忠升が継いだが、子がなく、岩瀬家は断絶したようである。 この日の「日乗」は上記で終わりではなく、さらに、次のように続いている。 「墓地を出で音羽の町を歩み、江戸川橋に至り、関口の公園に入る。公園の水に沿ふ処一帯の岸は草木を取払ひセメントにて水際をかためむとするものの如く、其工事中なり。滝の上の橋をわたり塵芥の渦を巻きて流れもせず一所に漂ふさまを見る。汚き人家の間を過ぎ関口町停留塲より電車に乗り、銀座に徃けば日は既に暮れたり。オリンピク洋食店休業なれば歩みて芝口の金兵衛に至り夕飯を命ず。主婦来りて屠蘇をすゝむ。余三番町のお歌と別れてより正月になりても屠蘇を飲むべき家なし。此夕偶然椒酒の盃を挙げ得たり。実に意外の喜なり。食後直に家にかへる。
〔原本丸・漢数字朱書、以下同ジ〕
① 岩瀬氏奕世之墓
岩瀬氏本姓藤原。高祖諱氏忠。始仕江戸幕府。経氏盛、忠兼、忠香、忠英、忠福至忠正。無子。養設楽氏。配以其女。以為嗣。是為爽恢府君。府君諱忠震。通称修理。号蟾洲(所)。又鷗所。歴徒頭目付擢為外国奉行。叙従五位下任肥後守。文久元年七月十一日病卒。享年四十有四。有三男六女。男皆殤。族子忠升承後。又無子。岩瀬氏竟絶。歴世墳墓在小石川蓮華寺。会官拓市区。塋域当毀。漸与知旧謀ト地于雑司谷村。以改葬。因勒石誌其事由云。
明治四十二年十一月 甥本山漸謹記
〔欄外朱書〕鷗所実父ハ設楽市左衛門也実母ハ林述斎ノ次女某也
淡順岩瀬府君墓表
余以与君之義子諱忠震為友于之交也。有知君之平生焉。君性恬淡温順。与義子忠震相親睦。而令孫忠斌為□□□愛。辛酉之夏忠斌病歾。忠震亦尋歾。君痛悼不□□病顚綿。自知不起。乃養岩瀬氏善第三子忠升為嗣。未幾而瞑焉。可哀也。君諱忠正。岩瀬氏。称市兵衛。考市兵衛諱忠福第二子。母石津氏。文化九年承家。十二年為書院番士。嘉永五年為書院番組頭。叙布衣。安政三年転先手。以文久元年九月廿八日卒。距生寛政六年十一月十一日。享年六十有八。諡曰淡順。葬於小石川蓮華寺。室神尾氏女。有六男九女。男皆夭。長女配義子忠震。先歾。一女適榊原政陳。余皆夭。
文久二年壬戌五月図書頭林晃撰
関研拝書
文久元年辛酉七月十一日卒」
殤:わかじに(二十歳前に死ぬこと)
歾:死ぬ
夭:わかじにする
余年年の正月雑司ケ谷墓参の途すがら音羽の町を過るとき、必思出す事あり。そは八九歳のころ、たしか小石川竹早町なる尋常師範学校附属小学校にて交りし友の家なり。音羽の四丁目か五丁目辺の東側に在りき。鳩山一郎が門前に近きあたりのやうに思へど明ならず。表通にさゝやかなる潜門あり。それより入れば三四間ばかり(即表通の人家一軒ほどのあいだ)細き路地の如くになりし処を歩み行きて、池を前にしたる平家の住宅の縁先に出るなり。玄関も格子戸口もなかりき。縁先に噴井戸ありて井戸側より竹の樋をつたひて池に落入る水の音常にさゝやかなる響を立てたり。此井戸の水は神田上水の流なりといへり。夏には西瓜麦湯心天などを井の中に浮べたるを其の家の母なる人余が遊びに行く折取り出して馳走しくれたり。余が金冨町の家にはかくの如き噴井戸なく、また西瓜心天の如きものは害ありとて余は口にすることを禁じられ居たれば、殊に珍らしき心地して、此の家を訪ふごとに世間の親達は何故にかくはやさしきぞと、余は幼心に深く我家の厳格なるに引きかへて、人の家の気儘なるを羨しく思ひたりき。或日いつもの如く学校のかへり遊びに行きたるに、噴井戸の側に全身刺青したる男手拭にて其身をぬぐひゐたるを見たり。これは後に聞けば此家の主人にて、即余が学友の父なりしなり。思ふに顔役ならずば火消の頭か何かなるべし。されど唯一度遇ひしのみにて其後はいつもの如く留守なりしかば、いかなる人なるや其名も知らずに打過ぎたり。此家には噴井戸の水を受くる池のみならず、垣の後より崖の麓に至る空地にも池ありて、蓮生茂りたり。又崖は赤土にて巌のごとくに見ゆる処より清水湧出でたり 崖の上は高台なれど下より仰けば樹ばかり見えて人家は見えざるなり 余は友と共にこの池にて鮒を釣りたる事を記憶す。明治廿四年の春三条公爵葬儀の行列音羽を過ぎて豊嶋ケ岡の墓地に到りしことあり。余はその比既に小石川を去りて麹町永田町なる父の家に在りしが、葬式の行列を見んとて音羽なる友の家を訪ひ、其門前に佇立みゐたることあり。其後は学校も各異りゐたれば年と共にいつか交も絶え果て、唯幼き時の記憶のみ残ることゝはなれるなり。今は其人の姓名さへ思ひ出し得ざるなり。」
荷風は、毎年雑司ケ谷への墓参りの途すがら音羽の町を過ぎるとき必ず思い出す、子供時代の友達との思い出を記している。その友の家は、荷風の実家などと違って、下町の気儘な家であったようである。子供時代の思い出に浸っているが、これは子供時代の実家のことを描いた小作品「狐」と通底するような気がする。友の家は、音羽通りの東側にあり、家の前には神田上水の流という噴井戸で池ができていた。そのあたりは音羽谷と小日向台地との崖の下で、そこから流れ出る湧き水と思ったが、そうではないようである。現在、今宮神社近くでその名残のような湧き水が左の写真のようにわずかに流れている(以前の記事参照)。
その池には、夏にすいかや麦茶やところてんなどを冷やし、荷風が遊びに行くと、それらを友の母がご馳走してくれた。荷風の家では、すいかやところてんなどは食べさせてもらえなかった。害があるということで禁じられていた。こういったことを書いているのは、上記のように記録した岩瀬家の墓碑銘から読みとられる悲劇と無関係ではないであろう。当時は、いまよりもずっと子供の死亡率が高く、跡継ぎの男児を無事に育てあげることが困難な時代で、荷風の家でも、そのため、子供に危険と考えられていた食物を制限していたのではないだろうか。しかし、それは大人の理屈で、荷風は、そのことを承知の上で、上記の「日乗」を書いている。そんなことは知らない壯吉少年にとって友の家はなんと自由で、うらやましかったことであろう。
(続く)
参考文献
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
小西四郎「日本の歴史19 開国と攘夷」(中公文庫)