東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

雑司ケ谷霊園(5)

2011年05月09日 | 荷風

雑司ヶ谷霊園 部分案内地図 夏目漱石の墓 夏目漱石の墓 夏目漱石の墓(裏面) もとの管理事務所正面通りにもどり、次に、夏目漱石の墓に行く。左の写真の案内地図のように、中央通りにある。地図では、一部見えないが、1-14の区域(中央通りを挟んで1-10の反対側)である。1種14号2側の標識が立っているが、ここを入るとすぐである。

漱石は、右の写真のように、大正五年(1916)十二月九日に亡くなっている。俗名夏目金之助とある。

漱石については以前の記事の"漱石公園"や"夏目坂"でちょっと触れた。

この墓は、昭和三十八年(1963)四月十八日に亡くなった夫人の鏡子(裏面に刻んである「キヨ」が本名)の戒名も刻んであり、比較的新しいものであろう。以前もここを訪れているが、いつ来ても大きな墓と思ってしまう。永井荷風の墓はごく質素なもので、荷風の墓からここに来ると、その大きさにいっそう驚いてしまう。

荷風は、森鷗外とは親交があって敬愛していたが、漱石とはほとんど親交がなかったらしい。しかし、先輩の小説家として尊敬していたことは間違いない。

「断腸亭日乗」大正8年(1919)3月26日に次の記述がある。

「三月廿六日。築地に蟄居してより筆意の如くならず、無聊甚し。此日糊を煮て枕屏風に鴎外先生及故人漱石翁の書簡を張りて娯しむ。」

この当時、荷風は、大久保余丁町から築地に移っており、筆を持つ気分になれずに悩んでいたが(以前の記事参照)、わびしさを慰めようと、屏風に鷗外と漱石からの手紙を張り付けて楽しんだ。

同じく昭和2年(1927)9月22日、次のように漱石についてかなり記述しているが、これほど書いているのはこの日だけである。

「九月廿二日 終日雨霏々たり、無聊の余近日発行せし改造十月号を開き見るに、漱石翁に関する夏目未亡人の談話を其女婿松岡某なる者の筆記したる一章あり、漱石翁は追蹤狂とやら称する精神病の患者なりしといふ、又翁が壮時の失恋に関する逸事を録したり、余此の文をよみて不快の念に堪へざるものあり、縦へ其事は真実なるにもせよ、其人亡き後十余年、幸にも世人の知らざりし良人の秘密をば、未亡人の身として今更之を公表するとは何たる心得違ひぞや、見す見す知れたる事にても夫の名にかゝはることは、妻の身としては命にかヘても包み隠すべきが女の道ならずや、然るに真実なれば誰彼の用捨なく何事に係らず之を訏きて差閊へなしと思へるは、実に心得ちがひの甚しきものなり、女婿松岡某の未亡人と事を共になせるが如きに至っては是亦言語道断の至りなり、余漱石先生のことにつきては多く知る所なし、明治四十二年の秋余は朝日新聞掲載小説のことにつき、早稲田南町なる邸宅を訪ひ二時間あまりも談話したることありき、是余の先生を見たりし始めにして、同時に又最後にてありしなり、先生は世の新聞雑誌等にそが身辺及一家の事なぞ兎や角と噂せらるゝことを甚しく厭はれたるが如し、然るに死後に及んで其の夫人たりしもの良人が生前最好まざりし所のものを敢てして憚る所なし、噫何等の大罪、何等の不貞ぞや、余は家に一人の妻妾なきを慶賀せずんばあらざるなり、是夜大雨暁に至るまで少時も歇む間なし、新寒肌を侵して堪えかだき故就眠の時掻巻の上に羽根布団を重ねたり、彼岸の頃かゝる寒さ怪しむ可きことなり、」

雑誌に漱石未亡人の談話を女婿松岡が筆記した文が掲載されたが、これを読んだ荷風は、漱石が追跡症という精神病であったことおよび若いときに失恋したことを発表したことに、怒りを込めて未亡人と女婿を非難している。漱石は、生前、新聞や雑誌に自分や家族のことが載って噂されるのをずいぶんと嫌っていたのに、死後だからといって、夫が好まないことを夫人があえて行うとはなんたる心得違いか、と断じている。そして、こういったことがあると、荷風は、自分には妻子がなくて本当によかった、と結ぶのが常であるが、このときも、その意味のことを書いている。

上記の「日乗」にあるように、荷風は、明治42年(1909)の秋、漱石宅を訪れているが、これが漱石を見た始めで終わりであった。早稲田南町の邸宅とは、現在、漱石公園となっているところである。

参考文献
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする