東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

茗荷坂近くの二つの無名坂

2011年05月27日 | 坂道

茗荷坂周囲の地図 第1の無名坂上 第1の無名坂上 前回の付属横坂上を直進すると、やがて、右手に公園が見えてくる。新大塚公園である。ここで、一休みする。きょうの予定は雑司ヶ谷霊園から付属横坂までだったので、このまま帰ってもよいが時間はまだある、と思いながら、地図を見ると、近くに茗荷坂がある。この坂は、二月に行って記事にもしたが、そのとき、近くの無名坂を訪れなかったので、そこに行くことにする。ここからそこに行くには、もう1つ別の無名坂を通ることになる。

左の写真は、公園近くに立っていた街角の案内地図(左が南、下が東)を撮ったものであるが、この地図で公園角を左(南)に進み、一本目を左折し、下(東)へ進む。小日向三丁目と大塚一丁目との間である。

やがて、右手に拓殖大学の入口が見え、坂上につく。ここが第1の無名坂である。(次に行くのが第2の無名坂であるが、この順には意味がなく、今回訪れた単なる順番を示すに過ぎない。)

上記地図にも示されているが、坂上がクランク状に曲がっている。かなりみごとに曲がりながら下っている。

第1の無名坂上 第1の無名坂上 第1の無名坂下 第1の無名坂下 クランク状の曲がりを下ると、そこからは、ほぼまっすぐに下っている。坂下に向かって右側が拓殖大学で、坂下は茗荷坂である。坂下正面がしばられ地蔵のある林泉寺で、左折すると、茗荷坂の坂上で茗荷谷駅方面に至り、右折すると、茗荷坂の緩やかな下りで、大学正門、深光寺前に至る。この位置関係は、上の地図を見るとよくわかる。

尾張屋板江戸切絵図(東都小石川絵図)を見ると、深光寺の西隣が林泉寺で、茗荷坂とされる(と思われる)道との間に小日向茗荷谷林泉寺門前の町屋があり、道を挟んだ反対側に戸田淡路守の屋敷がある。そして、その道の途中から、戸田屋敷と佐竹左近将監の屋敷との間を西へ上る坂道があり、坂上がクランク状に曲がっている。坂上の先の道筋に、コノ先五ケン丁ヘ出ル、とあるが、五軒町というのは、雑司ヶ谷音羽絵図を見ると、鼠坂を東へ進んだところにある。近江屋板も同様で、坂名はないが、坂マーク△がある。ということで、第1の無名坂は江戸から続く坂である。

戦前の昭和地図と昭和31年の23区地図を見ると、この坂のクランク状の曲がり部分があるが、特に前者ではみごとに折れ曲がっている。ただし、明治地図にはない。

『御府内備考』の林泉寺門前の書上に、上記の第1の無名坂は記されていないが、次のようなことが書かれている。「門前西北の方林泉寺境内の戸田淡路守様御下屋敷往来の所を清水谷と相唱え近来迄清水涌出し・・・」。これによれば、門前と戸田屋敷との間(いまの茗荷坂に相当する道筋)を(茗荷谷ではなく)清水谷と云ったというのである。もっとも、続けて、道の普請で平地となり、往来に清水が湧き出す場所がなくなった、のような意味のことが書かれているので、清水谷とよばれた期間は短かったのかもしれない。

第2の無名坂下 第2の無名坂下 第2の無名坂途中 坂下の林泉寺前を右折し、緩やかな茗荷坂を下り、左に深光寺のある大学前を右折すると、次の第2の無名坂の坂下である。はじめ勾配はほとんどないが、ちょっと歩き右に少し曲がってからまっすぐに中程度の勾配で上っている。坂の途中、上りに向かって左側が荒れた感じの傾斜面で、樹木と草の中に、地肌の出た細い坂道が山道のように延びているのが見える。立ち入り禁止となっている。この坂は、よくもわるくもこの樹木で鬱蒼とした雰囲気が特徴となっている。

尾張屋板江戸切絵図(東都小石川絵図)に、戸田屋敷の東側に南西へ上る道があるが、ここが第2の無名坂と思われる。近江屋板も同様で、坂上の方に坂マーク△がある。明治地図、戦前の昭和地図、昭和31年の23区地図のいずれにもある。ここも江戸から続く坂である。明治地図に、第1と第2の無名坂の間に台湾協会学校というのがあるが、地図の注によれば、拓殖大学の前身とのこと。

以前の記事で引用した茗荷坂の説明板の説明文を再掲する。

『「茗荷坂は、茗荷谷より小日向の台へのぼる坂なり云々。」と改撰江戸志にはある。これによると拓殖大学正門前から南西に上る坂をさすことになるが、今日では地下鉄茗荷谷駅方面へ上る坂をもいっている。
 茗荷谷をはさんでのことであるので両者とも共通して理解してよいであろう。
 さて、茗荷谷の地名については御府内備考に「・・・・・・むかし、この所へ多く茗荷を作りしゆえの名なり云々。」とある。
 自然景観と生活環境にちなんだ坂名の一つといえよう。 文京区 昭和51年3月』

第2の無名坂上 第2の無名坂上 第2の無名坂上 上記の改撰江戸志は、『御府内備考』の小日向之一、総説に茗荷坂の説明として引用されており、全文は次のとおり。「茗荷坂は茗荷谷より小日向の臺(台)へのぼる坂なり、左の方は戸田家の下屋敷なり、」

これによれば、茗荷坂は、①茗荷谷より小日向の台へのぼる坂で、②左の方は戸田家の下屋敷であるが、第2の無名坂ではなく、むしろ第1の無名坂がこの2つの条件に当てはまることは、以前の記事(茗荷坂)に書いたとおりである。第1も第2の無名坂も坂上は小日向台に続くが、第2の無名坂は、上りに向かって左でなく右の方に戸田屋敷があるが、第1の無名坂は左の方に戸田屋敷があるからである。

改選江戸志の記述を上記のように解釈すると、第1の無名坂が茗荷坂であるか、または、深光寺前と大学正門前との間を北側へ林泉寺前まで上りそこで左折し第1の無名坂を上る道筋が茗荷坂といえそうであるが、残念ながらここだけの説である。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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