不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

小篠坂(小笹坂)

2011年05月16日 | 坂道

雑司ヶ谷霊園近く小篠坂上(高速下)小篠坂上小篠坂中腹 雑司ヶ谷霊園の夏目漱石の墓から中央通りを南東へ進み、霊園を出た突き当たりを左折し、ちょっとすると、左手に花屋が見えてきて、その前を過ぎると、まもなく首都高速道路の下の大きな通りにでる。このあたりが小篠坂の坂上と思われる。

この通りは、首都高の下が上り専用、反対側が下り専用となっていて、広く、もとの都電通りである。坂下で不忍通りと交わる。

坂上に行ってから、首都高の下の歩道を下る。中程度の勾配でほぼまっすぐに下ってかなり長い。首都高の下で薄暗く、情緒などまったくない。坂下で横断歩道を渡り反対側に行くと、首都高の下から離れるのでちょっと開放感がある。

この坂は、今回がはじめてである。以前、護国寺から雑司ヶ谷霊園に行ったことがあるが、そのときは、護国寺の中を通り抜けた。

小篠坂下小篠坂下小篠坂下側小篠坂下側 首都高の反対側の坂を上るが、すぐのところに文京区教育委員会の坂の説明板が立っており、次の説明がある。

『小篠坂(こざさざか) 小笹坂
 豊島区と境を接する坂である。この坂道は、江戸のころ、護国寺の北西に隣りあってあった。"幕府の御鷹部屋御用屋敷"から、坂下の本浄寺(豊島区雑司が谷)に下る坂として新しく開かれた。往時は笹が生い繁っていたことから、この名がついたものであろう。
 坂下一帯は、文京の区域を含めて、住居表示改正まで、雑司が谷町とよばれていた。近くの目白台に長く住んだ「窪田空穂」は、次のようによんでいる。
       雑司が谷 繁き木立に降る雨の
                降りつのりきて 音の重しも』

上記のように、説明板の立っている首都高の反対側の歩道は、文京区のようである。首都高側は豊島区で、本浄寺はそちら側にある。

尾張屋板江戸切絵図(雑司ヶ谷音羽絵図)を見ると、護国寺の西側に護国寺と本浄寺との間に道があるが、ここが小篠坂と思われる。この西側に御鷹部屋御用屋敷が見える。近江屋板も同様であるが、いずれにも坂名も坂マークもない。

小篠坂標識小篠坂下側小篠坂上側小篠坂上 横関は、もとは田圃の畦道のような狭い坂であった、とする。畦道(あぜみち)のような狭い坂とあるが、現在の通りはかなり広く長いから、この中のごく一部であったのであろう。確かにいまも坂であるが、往時とはまったく違った坂となっている。

『江戸名所図会』に本浄寺が次のようにある。

「大野山本浄寺 護国寺の西、小篠坂にあり、日蓮宗にして甲斐の延嶺に属せり。・・・」

本浄寺境内東北隅に小屋があったので、明治時代には乞食坂とよんだというが、横関によれば、乞食坂というのは、かならず寺院の多い場所で、その横町とか裏道にあるという(以前の記事参照)。

他の坂でも見られる金属板の大きな坂の標識が立っており、小篠坂と刻まれているが、左の写真のように傾いている。

歩道を上り、信号のあるところまで行き、そこから坂下にもどる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「江戸名所図会(四)」(角川文庫)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする