東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

荒木町~策の池

2010年11月19日 | 散策

津の守坂下から西側の横町に入ると、荒木町の北側をぐるりと半周して階段の上につく。津の守坂の一本上の横町に入ればすぐにここにつけた。

この階段を下り、階段下から撮ったのが右の写真である。 この階段を仲坂というらしい。写真のように階段下の両脇に礎石があり、そこに仲の字が見える。昭和7年(1932)の施工である。この坂は、「東京23区の坂道」や「東京の階段」に紹介されている。

津の守坂の西側一帯は、窪地となっていて、荒木町料亭街がある。明治地図には特にのっていないが、戦前の昭和地図には荒木町に三業地とあり、昭和6年(1931)に芸者屋85軒、芸者数230名で、荒木町の芸者は「津の守芸者」といわれ、気品が高く、新橋、赤坂をさけて通う客も多かったという。

階段下を進み、Y字路を右手に歩いていくと、策の池がある。以前、津の守坂に初めてきたとき、この池を訪ねようとしてこのあたりをぐるぐる回った覚えがある。

左の写真のように池は水がいっぱいであり、湧水がまだかなりあるのであろう。池のそばに弁天を祀る小祠がある。

この池はもと策の井ともいった。

「紫の一本」に策の井について次のようにある。

 「四谷伊賀町の先にあり。いま尾張の摂津守殿屋敷の内にあり。東照宮御鷹野へ成らせられし時、ここに名水あるよし聞し召し、御尋ねなされ、水を召し上げられ、御鷹の策の汚れたるを洗はせなされ候ゆゑえと云ふ。」

家康が鷹狩りに来たとき、ここに名水があることを尋ね、その水で御鷹のむちの汚れたのを洗ったため、この名があるということである。尾張の摂津守とは、尾張徳川家二代光友の次男で、のちに美濃高須藩主となった。

宮島資夫(1886~1951)は「大東京繁昌記」の「四谷・赤坂」で津の守附近として次のように書いている。

「この坂を少し下って行くと、右側に木立が繁っていた。木立の下には名ばかりの茶店があった。茶店の下が崖で、不動尊の像か何かあった下の竹の筒から、細い滝が落ちていた。津の守の滝といった。その辺り一帯は、今も残る通りの凹地であって、底には池があった。周囲の崖には昼も暗い程大木が矗々(ちくちく)と茂っていた。夏は赤く水の濁った池で子供が泳いだ。巡回の巡査が時々廻って来て子供を叱る。『お廻り来い、裸で来い、こっちで罰金とってやる』悪たれ口をついて、子供達は裸で逃げ出した所である。秋になると、崖ぶちの恐ろしく高い木に、藤豆のような大きな平たい莢の実が生った。簪(かんざし)玉位な真紅の美しい実のなる木もあった。クルミもあった。私達はよくそれを拾いに来たが、夕方近くになると恐ろしくなるような所であった。それに荒木町よりの崖のところには、誰かの家で幽閉した気狂の部屋があって、終日鳥のような声を出して怒鳴るのが、崖や木立に気味悪くこだました。余り英語を勉強して気狂になったという話であった。」
「津の守坂の下に水車小舎があった。往来から見える凹みの下で、水車がぎいぎい廻っていた。暗い家だったが、水車の水は、池の水が廻って来るという話だった。水車小舎について左の方、河童坂の下を通って、現在の刑務所に行く。谷町通りにはまだ、水田があった。秋の夕方、家の庭で空を仰いでいると、雁やその他の渡り鳥が、その方面飛んで来るので、子供の私はあの辺に雁や鴨は巣喰っているものと信じていた。
 津の守の坂下、右手の方は昔は蓮池と称えた。私は蓮を見た記憶はないが、恐らく池はあったであろう。」

宮島資夫は明治19年(1886)生まれで、少年の頃を回想しているので、明治三十年代の話であろうか。策の池で昔は泳いで遊んでいたようである。現在からはとても想像できない。その当時、津の守坂の下に水車小舎があり、谷町通りには水田があったとのことで、これもまた想像できない。

池からぶらぶら歩いていくと、先ほどとは別の階段の下につく。池の近くにもあるが、ここは四方に階段がある。階段を上り左折し道なりに歩いていくと、先ほどの津の守坂上にでる。

この横町の入り口の上の方に右の写真のように四谷荒木町の看板がある。ちょっと見上げるような高い位置にある。写真は坂上の道の反対側から撮ったものである。よく見ると、看板の上に上に人力車と車夫をモチーフにした金細工がのっている。

荷風は、大正2年(1913)に妻と別れた後、次の年、八重女(金子ヤイ)と結婚するが(以前の記事参照)、そのころ八重女は四谷荒木町27番地に住むようになった。荷風はここを別宅としていた。余丁町と荒木町とは市ヶ谷谷町の窪地を隔てた近距離にあったので、八重女は日毎に余丁町の荷風邸に来たという。また、荷風も荒木町に出かけ、親友の井上啞々子と三人で唄三味線踊りの稽古などをしたらしい。秋庭太郎の著書に荒木町別宅でくつろぐ荷風、啞々の写真がのっている。

坂をふたたび下る。左の写真は坂下の標柱を撮ったものである。ここを北に直進すると、靖国通りである。

靖国通りを横断し、西に向かうと、合羽坂の坂下である。坂上から曙橋の下に降り、靖国通りを西に進み横断歩道を渡り、南に向かい新坂を上る。坂上から全勝時、西迎寺を通って闇坂の坂上にでる。

階段を下り、横断歩道を渡り、自証院坂を上り、小学校のわきを下ると、禿坂にでる。坂下を右折すると、靖国通りの安保坂で、坂上の信号を左折し、さらに左手に進むと、茗荷坂の坂上である。坂上から靖国通りを進むと、瓶割坂らしいがほぼ平坦でどこが坂かわからない。新宿三丁目駅へ。

今回の携帯による総歩行距離は9.8km

新宿区のHPに今回のコースを含む散策マップ(今回のは市ヶ谷コース)があった。坂名がたくさんのっていて坂好きとしてはうれしい。

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「大東京繁昌記」(毎日新聞社)
秋庭太郎「考證 永井荷風」(岩波書店)

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