東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

荷風と写真(6)

2019年07月15日 | 荷風

前回の記事のように、二台目の新しいカメラを手に入れた荷風は、次の日から使い始めている。

昭和12年(1937)
「二月二日。隂。晏起午に近し。晩間空晴る。銀座に飰して後玉の井伊藤方を訪ふ。昨夜購ひたるカメラの撮影を試む。」

この日(2月2日)、曇り、遅く起きると昼近かった。夕方空が晴れた。銀座で夕食をとった後玉の井の伊藤方を訪れ、昨夜購ったカメラの撮影を試みた。

購入した次の日、早速、新しいカメラで試写しているが、夕食後の暗くなってからである。夜間撮影や室内撮影といった暗いところでの撮影で、荷風の意図がわかってくる。

「二月三日。快晴の天気立春の近きを知らしむ。午後銀座に徃き食料品を購ひて帰る。霊南坂を登るに坂上の空地より晩霞の間に富士の山影を望む。余麻布に卜居してより二十年未曾て富士を望み得ることを知らざりき。家に至るに名塩君来りカメラ撮影の方法を教へらる。夜八時W生其情婦を携来る。奇事百出。筆にすること能はざるを惜しむ。此日より当分自炊をなす事とす。一昨日下女去りて後新しきものを雇入るゝには新聞の募集の広告をなすなど煩累に堪へざるを以てなり。W生帰りて後台処の女中部屋を掃除し、夜具敷きのべて臥す。畳の上に寐るも久振りなれば何ともなく旅に出でたるが如き心地なり。」

この日(2月3日)、快晴で立春が近いことを知らせる天気である。午後銀座に行き食料品を買って帰った。霊南坂を登ると坂上の空地より夕焼けの間に富士の山影が望まれた。余は麻布に居を構えてから二十年未これまで富士山を望み得ることを知らなかった。家に帰ると名塩君が来てカメラ撮影の方法を教えてくれた。夜八時W生がその情婦を連れて来た。奇事が百出したが、筆にすることが残念ながらできない。この日より当分自炊をなす事とした。一昨日下女が辞めた後新しい人を雇い入れることには新聞の募集の広告を出すなど煩わしさに堪えられないためである。W生が帰った後台所の女中部屋を掃除し、夜具を敷いて臥した。畳の上に寝るのは久振りなので何となく旅に出たような心地である。

続いてその次の日、夜八時W生とその情婦が来て奇事百出となったが、筆にすること能はざるを惜しむなどと記すのみで、それが何であるか、不明である。

この日の、新しいカメラを斡旋した名塩によるカメラ撮影方法の説明、下女が辞めたことなどは、奇事百出に関連している。帰宅のとき霊南坂上から夕焼けの間に富士の山影が見えたが麻布に住んでから20年以上も経つのに知らなかった、畳の上で寝るのは久しぶりであるなどと記し記述量が増えていることは、なんとなくそれを期待した気分の高まりをあらわすかのようである。

上記の「奇事百出」とはなにかにつき、このちょっと後の2月28日の日乗に次の記述がある。

「二月廿八日。空よく晴れしが風寒し。沈丁花さき初めたり。晡下美代子来る。倶に銀座に行き不二店に茶を喫す。美代子は五時頃富士見町のもみぢといふ待合に客と逢引の約束あればそれをすませ八時頃再びわが家に来るべしとて電車に乗る。余はフイルムを購ひ家にかへり夕飯の仕度をなす程に美代子の情夫W生まづ来たり、ついで美代子来る。写真撮影例のごとし日曜日

この日(2月28日)、フィルムを購入し家に帰り、夕飯の仕度をすると、W生、美代子の夫婦がやってきて、いつもの写真撮影をしたとあるので、2月3日も写真撮影をしたことは確実である。

どんな撮影なのか、秋庭は、偏奇館内においていかなる写真撮影がなされたかは想像に難くない、としているが、要するに、二人の痴態を撮影したのである(川本)。

「偏奇館閨中写影」カバー 世の中にはもっと想像力を逞しくする人がいるようで、たとえば、亀山巌は、その著「偏奇館閨中写影」で、荷風は撮影するだけでなく自らも被写体となって渡辺の亭主(W生)にカメラを持たせたことが想像できるとしている。

W生と美代子について前々年(1935)4月5日の日乗に次の記述があるが、こんなことがその想像の元になっているのかもしれない。

昭和十年(1935)
「四月五日。烈風大雨晡下に至りて霽る。美代子と逢ふべき日なればその刻限に烏森の満佐子屋に徃きて待つほどもなく美津[代]子は其の同棲せる情夫を伴ひて来れり。会社員とも見ゆる小男なり。美津子この男と余とを左右に寐かし五体綿の如くなるまで婬楽に耽らんといふなり。七時頃より九時過ぎまで遊び千疋屋に茶を喫して別れたり。空よく晴れたれど風再び寒し。市兵衛町宮様塀外の桜満開となる。但し昨来の風雨に花の色全く褪せたり。」

W生は、この頃の日乗に渡辺生などとしてもよく登場し、二人で食事をしたり、玉の井に出かけたりしてよく付き合っていた。人を選り好みする荷風が気に入ったことは、私家版「濹東綺譚」を贈呈していることからもわかる(昭和12年10月18日)。一体何者なのか、秋庭は、この夫婦の正体は不明であったとしているが、亀山は、名古屋で古本屋を開いていたが自演自作の艶技写真を密売した廉で捕まってから東京に出てきた者と推理している。これが事実とすれば、「奇事あり」の写真撮影にはW生の経験による提案や助言があったといえそうである。荷風がよく付き合った所以かもしれない。

「二月六日。春隂風静なり。眠よりさむれば日は午なり。晡下浅草散歩。雨に値ふ。地下鉄道にて銀座に至れば道路乾きたるまゝにて雨ふりし様子もなし。不二あいすに夕飯を喫してかへる。写真現像夜半に至る。」

「二月九日。晴れてさむし。困臥日暮に至る。夜銀座さくら屋に徃く。入谷の竹下氏病既に痊えて来るに逢ふ。空庵歌川子と梅輪に一茶してかへる。写真焼付暁四時に及ぶ。」

2月6日に写真現像、続いて、9日に写真焼付けを夜遅くまでやっている。写真焼付は初めて出てきたが、もちろん、奇事の撮影分である。

「私家版「濹東綺譚」の寫眞機」カバー 荷風は、新しいカメラでそんな写真撮影を続けて行っているが、これでは、自家現像・焼付しかできなかったはずである。自家現像は、現像店が当時なかったからと思ったが(以前の記事)、佐々木桔梗の著書によれば戦前にDP店(現像店)があったようである。同時代を生きた人の証言なので、そうなのであろう。ただ、荷風が自家現像・焼付をしたのは、そんな人目をはばかるような写真であったからばかりでなく、現像・焼付に慣れていたからと思われる。亀山も当時カメラを趣味とする人は誰でもやったこととしている。

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)
秋庭太郎「永井荷風傳」(春陽堂書店)
川本三郎「荷風と東京『断腸亭日乗』私註」(都市出版)
佐々木桔梗「私家版「濹東綺譚」の寫眞機」(プレス・ビブリオマーヌ)
亀山巌「偏奇館閨中写影」(有光書房)

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