東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

森鴎外と芥川龍之介

2012年09月10日 | 読書

森鷗外(鴎外)は、史伝『細木香以』を次のように書きはじめている。

「細木香以(ほそきこうい)は津藤である。摂津国屋(つのくにや)藤次郎である。わたくしが始めて津藤の名を聞いたのは、香以の事には関していなかった。香以の父竜池(りゅうち)の事に関していた。摂津国屋藤次郎の称(となえ)は二代続いているのである。」

鴎外は、少年の時に読んだ為永春水の人情本に出てくる、情け知りで金持ちで、相愛する二人を困難から救い出す津藤さんと云う人物を憶えていた。仲間から実在の人物と教えられたことも。

京橋南築地鉄炮洲絵図(文久元年(1861)) もともと新橋山城町の酒屋で、竜池の父伊兵衛が山城河岸を代表する富家としたが、竜池の代で酒店を閉じ、二三の諸侯の用達を専業とした。香以は文政五年(1822)生まれの摂津国屋の嗣子で、小字を子之助(ねのすけ)と云った。二代目津藤である。

鴎外が住んだ団子坂の家は、香以に縁故のある家であった。これを見いだしたのは家を捜して歩いていた鷗外の父であったが、これがこの史伝を書くきっかけになっている。

『わたくしが香以の名を聞いたのは、彼の人情本によって津藤の名を聞いたのと、余り遅速は無かったらしい。否あるいは同時であったかも知れない。その後にはこの名のわたくしの耳目に触れたことが幾度であったか知れぬが、わたくしは始終深く心に留めずに、忽ち聞き忽ち忘れていた。そしてその間竜池香以の父子を混同していた。
 それからある時香以と云う名が、わたくしの記憶に常住することになった。それは今住んでいる団子坂の家に入った時からの事である。
 この家は香以に縁故のある家で、それを見出したのは当時存命していたわたくしの父である。父は千住で医業をしていたが、それを廃めてわたくしと同居しようとおもった。そして日々家を捜して歩いた。その時この家は眺望の好い家として父の目に止まった。
 団子坂上から南して根津権現の裏門に出る岨道(そばみち)に似た小径(こみち)がある。これを藪下の道と云う。そして所謂藪下の人家は、当時根津の社に近く、この道の東側のみを占めていた。これに反して団子坂に近い処には、道の東側に人家が無く、道は崖の上を横切っていた。この家の前身は小径を隔ててその崖に臨んだ板葺(いたぶき)の小家であった。
 崖の上は向岡から王子に連る丘陵である。そして崖の下の畠や水田を隔てて、上野の山と相対している。彼小家の前に立って望めば、右手に上野の山の端(はな)が見え、この端と向岡との間が豁然(かつぜん)として開けて、そこは遠く地平線に接する人家の海である。今のわたくしの家の楼上から、浜離宮の木立の上を走る品川沖の白帆の見えるのは、この方角である。
 父はこの小家に目を著けて、度々崖の上へ見に往った。小家には崖に面する窓があって、窓の裡(うち)にはいつも円頂の媼(おうな)がいた。「綺麗な比丘尼」と父は云った。

小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 父は切絵図を調べて、綺麗な比丘尼の家が、本(もと)世尊院の境内であったことを知った。世尊院は今旧境内の過半を失って、西の隅に片寄っている。
 父はわたくしを誘(いざな)って崖の上へ見せに往った。わたくしはこの崖をもこの小家をも兼て知っていたが、まだ父程に心を留めては見なかったのである。眺望は好い。家は市隠の居処とも謂うべき家である。そして窓の竹格子の裡には綺麗な比丘尼がいた。比丘尼はもう五十を越していたであろう。もし媼をも美人と称することが出来るなら、この比丘尼は美人であったと云いたい。
 父はわたくしの同意を得てから、この家を買おうとして、家の持主の誰なるかを問うことにした。団子坂の下に当時千樹園と云う植木屋があった。父は千樹園の主人を識っていたので、比丘尼の家の事を問うた。
 千樹園はこう云った。崖の上の小家は今住んでいる媼の所有である。媼は高木ぎんと云って、小倉と云うものの身寄である。小倉は本(もと)質屋で、隠居してから香以散人の取巻をしていたが、あの家で世を去った。媼は多分あの家を売ることを惜まぬであろうと云った。』

『千樹園が世話をして、崖の上の小家を買う相談は、意外に容易く纏まった。高木ぎんの地所は本やや広い角地面であったのを、角だけ先ず売ったので、跡は崖に面した小家のある方から、団子坂上の街に面した方へ鉤形に残っている。その街に面した処に小さい町家が二軒ある。一つは地所も家も高木のもので、貸店になって居り、一つは高木の地所に鳶頭の石田が家を建てて住んでいる。ぎんは取引が済んでこの貸店に移った。』

鴎外一家が団子坂の崖の上の家(後の観潮楼)に住むことになるまでの顛末がよくわかる。観潮楼跡が後に、いまの鴎外記念図書館となったが、その土地の角が民家となっていることの理由もわかる。あまり関係ないことだが、鴎外も、その父も、その円頂の比丘尼にかなり強い印象が残ったようである。鷗外の美人好みは父親譲りか、などと思ってしまう。

『香以は明治三年九月十日に歿した。翌四年の一周忌を九月十日に親戚がした。後に取巻の人々は十月十日を期して、小倉是阿弥の家に集まって仏事を営み、それから駒込願行寺(がんぎょうじ)の香以が墓に詣でた。この法要の場所は即崖の上の小家であったのである。』

小倉(是阿弥)は香以の取り巻きの一人で、香以は明治三年(1870)9月10日に亡くなっているが、その一周忌の法要を他の取り巻きの人たちと行ったのがこの家であった。是阿弥は高木氏で団子坂上の質商で、小倉は屋号であるという。その妻がぎん、すなわち、きれいな比丘尼である。

 『この話を自分は母から聞いた。母はそれを自分の大叔父から聞いたと云つている。話の真偽は知らない。唯大叔父自身の性行から推して、かう云ふ事も随分ありさうだと思ふだけである。
 大叔父は所謂大通(だいつう)の一人で、幕末の芸人や文人の間に知己の数が多かつた。河竹黙阿弥、柳下亭種員、善哉庵永機、同冬映、九代目団十郎、宇治紫文、都千中、乾坤坊良斎などの人々である。中でも黙阿弥は、「江戸桜清水清玄」で紀国屋文左衛門を書くのに、この大叔父を粉本にした。物故してから、もう彼是五十年になるが、生前一時は今紀文と綽号された事があるから、今でも名だけは聞いている人があるかも知れない。――姓は細木、名は藤次郎、俳名は香以、俗称は山城河岸の津藤と云つた男である。』 (大通とは、遊芸に通じた大趣味人。)

芥川龍之介「孤独地獄」(大正五年二月)の冒頭である。これから龍之介の母は細木香以の姪であったことがわかるが、その「母」は正確には「養母」である。

龍之介は、明治二十五年(1892)3月1日生まれで、その10月末生母ふくが突然発狂したため、ふくの兄である伯父芥川道章の家(本所小泉町)に預けられた。その後、明治三十七年(1904)12歳のとき芥川家と養子縁組がなったので、道章が養父、その妻儔(とも)が養母である。

鴎外は、「細木香以 十四」の最後に芥川龍之介のことを次のように書いている。

『わたくしはその後願行寺の住職を訪はうともせずにいて、遂に香以の裔の事を詳にせぬままに、この稿を終ってしまった。頃日高橋邦太郎さんに聞けば、文士芥川龍之介さんは香以の親戚だそうである。もし芥川氏の手に藉(よ)ってこの稿の謬(あやまり)を匡(ただ)すことを得ば幸であろう。』

そして、鴎外は龍之介から手紙をもらい、また来訪を受けた。香以伝には補記があるが、そこに龍之介について次の記述がある。

『香以伝の末にわたくしは芥川龍之介さんが、香以の族人だと云うことを附記した。幸に芥川氏はわたくしに書を寄せ、またわたくしを来訪してくれた。これは本初対面の客ではない。打絶えていただけの事である。
 芥川氏のいわく。香以には姉があった。その婿が山王町の書肆伊三郎である。そして香以は晩年をこの夫婦の家に送った。
 伊三郎の女を儔(とも)と云った。儔は芥川氏に適いた。龍之介さんは儔の生んだ子である。龍之介さんの著した小説集「羅生門」中に「孤独地獄」の一篇がある。その材料は龍之介さんが母に聞いたものだそうである。この事は龍之介さんがわたくしを訪ふに先だって小島政二郎さんがわたくしに報じてくれた。
 わたくしはまた香以伝に願行寺の香以の墓に詣もうでる老女のあることを書いた。そしてその老女が新原元三郎という人の妻だと云った。芥川氏に聞けば、老女は名をえいと云う。香以の嫡子が慶三郎で、慶三郎の女がこのえいである。えいの夫の名は誤っていなかった。』

香以には姉がいて、その婿伊三郎の娘が儔(とも)で、龍之介の養母である。ところが、上記のように鷗外は香以伝の補記で「龍之介さんは儔の生んだ子である。」と書いていることにちょっと驚いてしまう。これは、龍之介が鴎外に語ったことなのか、小島政二郎が鴎外に報じたことなのか、あるいは鴎外の誤解によることなのか、色々と疑問が出てくるが、どうしてそうなったのかわからない。龍之介自身は、自分を生んだのは儔(とも)でなかったことは、当然に知っていたと思われるので、龍之介が語ったことではないような気がする。ただ、儔(とも)が養母であることは云わなかった(それを語っていれば、鴎外も上記一文は書かなかったはずである)。

龍之介の短篇小説集「羅生門」が出版されたのが、大正六年(1917)5月で、鷗外の香以伝は同年9月19日から10月13日まで「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」に掲載され、その補記は大正七年1月1日「帝国文学」二十四ノ一に載った。これらから推定すると、龍之介が鴎外に手紙を出し、訪れたのは、大正六年の秋であろう。

龍之介によれば、細木は、正しくは「さいき」と訓むが、「ほそき」とよぶ人も多いので、細木氏自身も「ほそき」と称したこともあったという。 

ところで、鷗外の香以伝の補記から、もう一つわかったことがある。香以の嫡子(跡つぎ)が慶三郎で、その娘がえいで、そのえいは新原元三郎の妻となった。「新原」は龍之介の実家の姓であるので、ちょっと調べたらすぐに判明したが、元三郎は龍之介の叔父であった。すなわち、実父敏三の弟である。二人の結び付きは、儔(とも)の仲介によるという。「新潮日本文学アルバム」に、幼いころの龍之介が実父敏三、叔父元三郎と一緒に写った写真が載っている。別の写真にはえいが小学生くらいの龍之介などと写っている。

龍之介と香以との間には、香以が養母の叔父というだけでなく、実父方の叔父の妻が香以の孫であったという関係もあった。

以上、たまたま読んだ鴎外の「細木香以」から龍之介の母や龍之介と香以との関係に至った。ちょっと重箱の隅的なことで、すでに常識化したことかもしれず、また、このような親族関係は、別に取り立てて珍しいことではなく、世間にはよくあることかもしれないが、気に留まったのであえてブログの記事にした。

参考文献
「鷗外選集 第六巻」(岩波書店)
「芥川龍之介全集 1」(ちくま文庫)
「新潮日本文学アルバム 芥川龍之介」(新潮社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
森啓祐「芥川龍之介の父」(桜楓社)

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