東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

禅林寺(太宰治の墓)~三鷹駅西の跨線橋

2011年12月16日 | 文学散歩

太宰治墓 太宰治墓 前回の森鷗外(森林太郎)の墓の斜め向かいに太宰治の墓がある(二枚の写真)。

以前、はじめてきたとき、その近さにびっくりしたものである。太宰も鷗外を尊敬していたというが、その墓が鷗外の墓とこんなに近くで、泉下の太宰も喜んでいるかもなどと思ってしまう程である。そのはずで、ここにしたのは生前の太宰の願いを容れたからであるという。

太宰の遺体が発見された6月19日が命日となっていて、翌年(1949)の一周忌のとき、今官一により「桜桃忌」と命名され、以来毎年、ここで偲ぶ会などの追悼行事が行われているとのこと。その年の11月3日、作家の田中英光が太宰の墓前で自殺した。

桜桃忌にはかなり多数の老若男女の太宰ファンが集まるというが、一度も来たことがない。そういったたくさんの人が集まるところは、はじめから避けてしまうからである。ただ、そういうふうなファンの心理はわかるような気がする。思い入れが強いほどそうなる。

五、六年前に、はじめてここを訪れたとき、たぶん、その桜桃忌の前後、梅雨明け前のころだったと思うが、なにかその余韻(前触れ)らしきものが感じられたような記憶がある。そのような特別な日ではなく、なにもないときに来た方が静かで、ひっそりとし、落ち着いた感じでかえってよいというのが私の感想である。

三鷹駅西の跨線橋 跨線橋説明パネル 三鷹駅西の跨線橋 三鷹駅西の跨線橋 禅林寺から出て、連雀通りで左折し、次を左折して北へ進み三鷹駅に向かう。きょうはだいぶ歩いたので、かなりつかれてきた。そのまま駅に行き、帰ろうと思ったが、やはり、太宰が好んで行ったという三鷹駅の西にある跨線橋(陸橋)に行ってみることにする。ちょうど暮れかかってきたので夕日が見られるかもしれない。そういえば、以前も最後に訪れたのがそこである。

駅の出入口の手前から階段を下りて、線路沿いの歩道を西へ歩くと、やがて正面に、一枚目の写真のように、跨線橋の階段が見えてくる。階段下のフェンスの壁の前に、二枚目の写真の陸橋(跨線橋)の説明パネルが立っている(一枚目の写真の右端にも写っている)。この説明パネルは、前回の野川家跡や伊勢元酒店跡などと同じシリーズで、太宰ゆかりの場所を示すものである。以前来たときはなかったように思う。太宰が階段を下りてくる写真がのっている。これ以外にもここで撮った写真があるようで、このため有名になったのであろう。

この跨線橋は、三鷹駅近くで、引込線などもある場所に南北に跨ぐように架かっている(四枚目の写真)。このためかなり長い。

太宰が生きた時代から残っているところはもうほとんどない中で、ここは唯一といってよい例外的な所という。当時の建物などは建て替えられて当時を偲ぶことができるものは何も残っていないのが現実で、かろうじて説明パネルなどでそういった場所であったことを知ることができるだけである。そういった時の流れからすると貴重な場所である。

跨線橋から西側 跨線橋から北東側 跨線橋から富士山 跨線橋 跨線橋の上に行くと、ちょうど日の入りの直前であった。一枚目の写真は跨線橋の西側、二枚目は北東側を撮ったもので、夕日に照らされた光景が印象的である。太宰もこういった風景を眺めたのだろうか。たぶんそうだろうと思い込んでしまう。

正面からやや左の方に夕日に映える富士山の上部が見え、そのシルエットの左わきから陽がまさに沈もうとしている。しばらく眺めてから、跨線橋を渡りその北の端で、陽が見えなくなったころに撮ったのが三枚目の写真である(若干トリミングしている)。ここから富士山が見えるとは知らず、思いかけず富士を背景にした落日の光景を楽しむことができた。期待していなかったからなおさらである。回りを見わたすと、夕暮れの富士山を見に来たと思われる人たちが集まっている。

上った階段を下り来た道を引き返し三鷹駅へ。

携帯による総歩行距離は18.1km(ただし、午前中に歩いた2km程度が含まれている)。

参考文献
東京人「三鷹に生きた太宰治」12月増刊2008 no.262(都市出版)
「新潮日本文学アルバム 太宰治」(新潮社)

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