東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

芥川龍之介と忠臣蔵(1)

2011年09月22日 | 文学散歩

築地川跡公園 浅野内匠頭邸跡 浅野内匠頭邸跡説明板 元禄江戸図(一部) 前回の築地三丁目から本願寺横を南に七丁目方面へ進むと、途中、公園風のところを横断するが、ここは一枚目の写真のように築地川を埋め立てたあとの公園らしい。位置的にはこのあたりに築地川にかかっていた備前橋があったと思われる。

橋の跡を越えてから左折し、次の信号を越えてちょっと歩くと、右手の歩道わきに樹々が茂った狭く細長い公園のような所がある。ちょうど聖路加看護大学の裏手のあたりである。ここに、浅野内匠頭邸跡と刻まれた石柱が建っている。

石柱のわきの説明板には、ここから南西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯八千九百余坪の地は、忠臣蔵で有名な赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、西南二面は築地川に面していたとある。浅野内匠頭長矩は、元禄十四年(1701)三月十四日、江戸城内松の廊下で、高家の吉良上野介に斬りつけ、傷を負わせ、その咎で即日、切腹を命ぜられ、この上屋敷などは没収され、赤穂藩主浅野家は断絶となった。

四枚目は、元禄六年(1693)作の元禄江戸図(江戸図正方鑑)の部分拡大図(下が東)である。西本願寺の川を挟んで右斜め下に、「ハリマ アカシ アサノ □□」とあるが、ここが赤穂藩主浅野家の上屋敷であろう。西本願寺側の橋が、尾張屋板江戸切絵図にある備前橋で、そこから横に離れたところの橋が、同じく軽子橋と思われる。

現在の湊、明石町あたりの地は、鉄砲洲と呼ばれていた。寛永(1624~44)のころ、井上、稲富の両家が大筒(大砲)の試射をしたためこの名がついたという。出洲の形が鉄砲に似ているからとの説もある。

浅野家の鉄砲洲邸の立退きのときに、屋敷の後ろにたくさんの船を用意し、主家の重宝什器を始め、思い思いに立ち退き行く家中の財産家具を積み載せ、一々番号の札を付けて運搬させたので、さほどの混雑もなくその夜のうちに方付いたという伝説がある。

浅野内匠頭邸跡と芥川龍之介生誕の地芥川龍之介生誕の地芥川龍之介生誕の地の説明板 一枚目の写真のように、浅野内匠頭邸跡の石柱の右方十数m程度のところに、二、三枚目の写真の芥川龍之介生誕の地の説明板が立っている。

芥川龍之介は、明治25年(1892)3月1日京橋区入舟町八丁目一番地に父新原敏三、母フクの長男として生まれた。上記のように、現在、聖路加看護大学があるところである(下のgoo地図参照)。父は渋沢栄一経営の牛乳販売業耕牧舎の支配人で、このあたりに乳牛の牧場があった。ハツ、ヒサの姉がいたが、ハツは龍之介が生まれる前年に病没した。

辰年辰月辰日の辰の刻に生まれたので、龍之介と命名されたという。これは、師の夏目漱石が誕生日と生まれた時刻によると大泥棒となるという迷信から、それを避けるには金の字や金偏のつく字がよいとのことで、金之助と命名されたことと似ている。もっとも、当時は、一般的に誕生日の干支やその迷信などから命名することも多かったと思われる。

父42歳、母33歳の大厄の年の子であったため、旧来の迷信により形だけの捨て子にされたという。拾い親は、父敏三の友で耕牧舎の松村浅二郎であった。

芥川龍之介の生誕の地は、上記のように、かつて赤穂藩主浅野家の鉄砲洲の上屋敷があったところと重なる。といっても、赤穂藩主浅野家断絶の後、他家の屋敷となり、しかもかなりの時を経ているが。文久元年(1861)の尾張屋板江戸切絵図(京橋南築地鉄炮洲絵図)では、南西端が田沼玄蕃頭邸、そのとなりが松平周防守邸である。
 

誕生八ヶ月後、生母フクが発狂したため、龍之介は本所区小泉町十五番地(現、墨田区両国3-22-11)の母方の伯父(生母フクの実兄)である芥川道章に引き取られた。道章には妻トモとの間に子がなく、また、同家には道章の妹フキ(フクの直姉で生涯独身だった)がいて子育ての人手には困らず、龍之介は、主にこの伯母フキの手で育てられ教育されたという。姉ヒサも同家に引き取られたと思われる。

龍之介は、本所の芥川家で育ち、江東尋常小学校、江東小学校高等科、東京府立第三中学校(現、両国高校)を経て、明治43年(1910)9月、18歳のとき、第一高等学校第一部乙類に推薦入学した。同年、秋、芥川家は、本所小泉町から内藤新宿二丁目七十一番地に移った。その後、大正3年(1914)10月末、北豊島郡滝野川町字田端四百三十五番地に新築した家に転居した。ここが龍之介終生の住まいとなる。

この間、明治37年(1904)8月、12歳の時、龍之介は、芥川家と正式に養子縁組を結んだ。前々年12月に実母フクが亡くなっている。実父新原敏三は、耕牧舎の事業もきわめて順調で、龍之介を愛し手元で育てることを願っていたが、種々の理由からそれを断念したらしい。芥川家の上記の内藤新宿の転居先は、耕牧舎牧場の一隅にあった新原敏三の持家であったというから、両家は普通以上のつき合いがあったと思われる。

芥川家のあった本所小泉町は隅田川に近く、隅田川では明治43年8月に豪雨のため堤防が決壊し大水害が起きたので(以前の記事参照)、この年の秋の上記の転居は、これが理由であったかもしれない。
(続く)

参考文献
福本日南「元禄快挙録(上)」(岩波文庫)
朝日新聞社会部「東京地名考 上」(朝日文庫)
新潮日本文学アルバム「芥川龍之介」(新潮社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)

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