東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

与楽寺坂

2012年08月30日 | 坂道

富士神社 富士神社前 江戸名所図会 富士浅間社 動坂下 前回の稲荷坂上の突き当たりを右折し、富士神社に向かう。ちょっと歩くと、右手に見えてくるが、この日は縁日であったようで、露店や屋台などが出て賑やかである。一枚目の写真は階段を上ったところにある本殿の前、二枚目は神社前である。

三枚目は江戸名所図会にある富士浅間社(この富士神社)の挿絵であるが、小高い丘の上にある。参道からでた前の道が動坂へと続く道で、手前の広い道は日光街道(現・本郷通り)であろう。高さ約15m、長さ約50mの小丘(古墳)の上に建つという。

神社から引き返し、先ほどの道を東へ向かうと、やがて動坂の坂上の交差点に至る。この途中、ポツポツ来たので、携帯傘をだす。

坂を下り、不忍通りを横断してから、坂上側を撮ったのが四枚目である。この坂を下ると、本郷台地とお別れとなる。動坂は、この近くの狸坂や前回の稲荷坂などと違って、江戸切絵図にのっており、その坂名と位置が江戸時代から明かなところである。

与楽寺坂下 与楽寺坂下 与楽寺坂下 与楽寺坂下 動坂下の交差点を北へ田端方向に向かい、途中、適当に右折すると、小路が延びて、民家がびっしりと立ち並んでいる。昭和の風景とも云うべきところである。曲がりを繰り返していると、かなり狭い小路があったりして迷路に入り込んだようになる。都市のラビリンスに迷い込んだ錯覚に陥ってしまうが、これはよくあることで、知らない街に行くと、こうしたことをわざとやってさまよい歩き、そのうち少し不安になったりする。このときもそういう状態になりかけたと思ったら、突然、ちょっと広めの通りにでた。

ここは、地図を見ると、谷中のよみせ通りから続く道であるので、旧藍染川(谷田川)の上流である。 ここから、北に向かい、二三回曲がると、一枚目の写真のように、与楽寺の手前に出る。遠くに与楽寺坂が見え、坂上は上野台地であるが、このあたりはまだ平坦である。左手一帯は再開発中なのか工事中で、このため、雑然としているが見通しがよくなっている。

ところで、前回の吉本隆明の記事を書いていたときに気がついたが、隆明が自宅を出てはじめて住んだ谷中よみせ通り近くの三和荘から昭和三十一年(1956)10月に引っ越しした先が、この近くであった。北区田端三六五番地(現・田端1-11-20)有楽荘である。六畳一間の新築のアパートであった。このアパートの土地は与楽寺の所有であったという。ここに昭和三十三年(1958)10月まで住み、前年12月28日に長女・多子(漫画家 ハルノ宵子)が生まれている。

与楽寺の門前を右に見て北へ進み、坂下のあたりで撮ったのが二枚目である。三枚目はちょっと上ってから坂上側を撮ったもので、四枚目はそのあたりで振り返って坂下を撮ったものである。このあたりはまだ緩やかである。この坂は、藍染川の流域の低地から北へ上野台地に上る坂である(散策マップ参照)。

与楽寺坂下 与楽寺坂中腹 与楽寺坂中腹 与楽寺坂中腹 さらにちょっと上って坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、その先で右に緩やかに曲がっているが、そこから坂上側を撮ったのが二枚目である。三枚目はそのあたりから坂下側を撮ったものである。四枚目はさらに上ってから坂上側を撮ったもので、ちょっと曲がっていて、このあたりがもっとも勾配があるが、それでも中程度といったところである。

右手に背の高い直立のコンクリート塀が続いているため、坂道が狭く感じられるが、これがこの坂の特徴にもなっている。

北区教育委員会による坂の標識が坂下に立っているが、上二枚目の写真の右端に写っていように、上部に横書きで坂名が表示され、その下に小さめの四角形状の板に説明書きがあるユニークな形状である。その説明は次のとおり。

『与楽寺坂
 坂の名は、坂下にある与楽寺に由来しています。『東京府村誌』に「与楽寺の北西にあり、南に下る、長さ二十五間広さ一間三尺」と記されています。この坂の近くに、画家の岩田専太郎、漆芸家の堆朱楊成、鋳金家の香取秀真、文学者の芥川龍之介などが住んでいました。
 芥川龍之介は、書簡のなかに「田端はどこへ行っても黄白い木の葉ばかりだ。夜とほると秋の匂がする」と書いています。
 平成5年3月
                      東京都北区教育委員会』

与楽寺坂中腹 与楽寺坂中腹 与楽寺坂上 根岸谷中日暮里豊島辺絵図(安政三年(1856)) 一枚目の写真は、坂上側から坂下側を撮ったもので、二枚目は坂上側を撮ったものである。この先がちょうど四差路になっていて、三枚目はそこから坂下側を撮ったものである。

四枚目の根岸谷中日暮里豊島辺絵図(安政三年(1856))の部分図を見ると、中央に與楽寺(与楽寺)が見えるが、かなり広く、道灌山のそばにあり、その周囲を川が流れている。下側が藍染川で、上側が音無川である。中央下端に動坂が見える。かなりデフォルメされているようで、この坂に相当する道がすぐにわからない。動坂から上に進んで、藍染川を渡った先の與楽寺の周りの道と思われる。上記の標識の説明にある『東京府村誌』の「与楽寺の北西にあり、南に下る」にしたがえば、與楽寺の下側の緩くカーブを描いているあたりであろうか。

明治実測地図(明治十一年)を見ると、この坂道と思われる道筋があるが、與楽寺が記されておらず、いまひとつ確かではない。

この坂は、横関にはないが、石川、岡崎、山野、「東京23区の坂道」に紹介されている。

与楽寺坂上 与楽寺坂上 与楽寺坂上 与楽寺坂上 一枚目の写真は、坂上側の四差路から坂上を撮ったもので、ここからちょっと左に曲がっている。ここを左折し、直進すると、芥川龍之介旧宅跡で、その手前を左折すると、上の坂である。二枚目はその四差路のちょっと上から坂下側を撮ったものである。

三枚目は四差路のちょっと上から坂上を撮ったもので、このあたりはかなり緩やかである。四枚目は坂上付近から坂下側を撮ったものである。

この坂は、坂下から上ると、上記の四差路付近が坂上と思ってしまうが、四枚目のあたりまでをいうのであろう。この坂上は、上野台地で、そのすぐ先(東側)はもう崖で、崖下に山手線が走っている。坂上を右折すると、台地の縁を東南へと延びる道が西日暮里駅近くまで続いている。

江戸名所図会 与楽寺 左は、江戸名所図会にある田端八幡宮の挿絵であるが、下側に與楽寺が描かれている。山と森林と田畑が描かれ、その合間に寺と神社が見える。与楽寺は、次のように説明されている。

「田畑村にあり。真言宗にして、本尊地蔵菩薩は仏工春日の作。開山は行基大士なり。」

『江戸名所図会』の註に、この寺は道灌山のすそにあるとあるが、道灌山とは、いまの西日暮里駅近くからさらにこの近くまでの上野台地を云ったのであろう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「江戸名所図会(五)」(角川文庫)
石関善治郎「吉本隆明の東京」(作品社)

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