![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/0c/35a47afc143dbeb5ef1e65350a7de902.jpg)
写真1 麦畑①に女性、Aさん-白円の中-
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/f0/a402b1ef750341d7423b015a035ded34.jpg)
写真2 引抜いた草を後ろ手に持つAさん(仮称)。写真1・②の麦畑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/a9/87ad6760398477433a708a65da269042.jpg)
写真3 引抜いた草が並ぶ、写真1・①の麦畑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/7b/9b6f357c2ce8459b1412f03ea436646a.jpg)
写真4 2015年01月25日の麦畑。①は写真1の①、②は写真1の②
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麦間裸地のユウガオ植付け予定地を撮っていると、隣り麦畑に女性(写真1)
現場に着き、なに、なさってんですか、次のよう
草を抜いている
勤務休日に農作業する長男に少しでも役立ちたい
“やってやんないと倅がかわいそう”
長男は同居し、イエ・家と農業を継いでいる
農家のなかには売れる田畑は売り、売れない田畑は草茫々にして迷惑かけている
先祖が一生懸命残してくれた田畑なのに
草を抜いている麦はビール麦
畑の砂埃、作土嵐(弊ブログ2013年03月12日)を防ぐため
今年は雨が多く、埃・作土嵐は少なかった
麦は販売せず、トラクターで作土の中に混ぜ込む(弊ブログ2013年06月06日)
草抜きの女性Aさん(仮称)は1933年(昭和08)生まれ82歳
80歳を超えたとは思えない、身も心もお元気
当地に暮らして82年
“こんなになるなんて夢にも思わなかった”
まず、ヤマ・平地の開発、宅地化
ヤマの中には、低くていつもベチャベチャの所があった
そのヤッチャベも住宅地になった
ヤマではキノハサライをやり、草を刈った
草は牛の餌にもした
次に、麦はカネにならない、手間賃も出ない
反って赤字、収入無いのに固定資産税を払わねばならない
さらに、働きは楽になった
若い頃の農具は鍬と万能、犂、大変だった
次第に耕耘機とカルチベーターが入り、今はトラクター
かつて、当地の60~70戸の農家はすべてユウガオを栽培し干瓢を造っていた
ヒゼニ・日銭が入り、その日のオカズを買えた、農家は息をつけた
子どもがいっぱいいて、親はヒゼニ確保に、暮らしに大変だった
天気の良い日、商売人が買いに来て、その場で現金払い
5貫目、10貫目と小分けして売った
まとめて大量に売る際はガンガン・ブリキ製容器に入れた
今、ユウガオ栽培・干瓢農家は1戸だけ
20~30年前まで、とーちゃんたちは、今80歳代の男性は、冬場、東京へ出稼ぎ
朝1番電車に乗り、夜8時頃帰宅
かーちゃんたちは5時起きで弁当作った
製袋工場ができて冬の俵編み、筵造りが無くなったので出稼ぎ
夏は干瓢造りで出稼ぎどころではなかった
当時の作物は米、ユウガオ・干瓢、ビール麦・小麦、甘藷、サトイモなど
当地にも開発の波が押し寄せ、出稼ぎは無くなった
“大きい百姓”はイチゴ栽培に転換
開発は小金井電車区開設、宇都宮大学総合農場・平地林⇒日本住宅公団等による住宅団地造成
県蚕糸試験場・畜産試験場⇒自治医大開校など
左官、大工、土木の仕事で働けた
宇大農場がある頃、学生さんがカランコロン、カランコロン、下駄で実習に来た
子ども世代は学校を卒業すると、多くは会社勤め、出稼ぎはない
自分の長男・後継者(1957年生まれ)は、2~3年後に定年を迎える
執筆・文責・撮影者:有馬洋太郎 撮影日:写真1~写真3;2015年04月18日
撮影地:栃木県下野市