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晩年は流刑に処さる世阿彌の忌

2023年09月08日 12時39分05秒 | 日記
晩年は流刑に処さる世阿彌の忌  白兎

ばんねんはるけいにしよさるぜあみのき

世阿弥忌(ぜあみき)は仲秋の季語。

世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛) 嘉吉3年8月8日は、日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。
足利義満の庇護のもと、父、観阿弥の猿楽を幽玄美の芸術に高め、能楽を大成した。「老松」「高砂」「実盛」などの多くの能を作り、「風姿花伝」「花鏡」などの著作がある。
静岡浅間神社(静岡市葵区)の楼門の傍らに「観阿弥の碑」が建てられている。世阿弥の記した『風姿花伝 第一 年来稽古条々』に「亡父にて候ひし者は、五十二と申しし五月十九日に死去せしが、その月の四日の日、駿河の国浅間の御前にて法楽仕る。その日の申楽ことに花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり。」とあり、浅間神社は観阿弥終焉の地とされている。

義満の死後、将軍が足利義持の代になり、義持は猿楽よりも田楽好みであったため、義満のころほどは恩恵を受けられなくなる。義持が没し足利義教の代になると、弾圧が加えられるようになる。1422年、観世大夫の座を長男の観世元雅に譲り、自身は出家した。しかし将軍足利義教は、元雅の従兄弟にあたる観世三郎元重(音阿弥)を重用する。一方、仙洞御所への出入り禁止(1429年)、醍醐清滝宮の楽頭職罷免(1430年)など、世阿弥・元雅親子は地位と興行地盤を着実に奪われていった。
1432年、長男の観世元雅は伊勢安濃津にて客死した。失意の中、世阿弥も1434年に佐渡国に流刑される。1436年(永享8年)には『金島書』を著す。後に帰洛したとも伝えられるが、幼少時に参学した補巌寺に帰依し、世阿弥夫妻は至翁禅門・寿椿禅尼と呼ばれ、田地各一段を寄進したことが能帳に残っている。写真はFBフレンド伊藤彰さん撮影。

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