日々是好舌

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体罰の 無能教師は 馘首せよ

2013年01月24日 12時51分42秒 | 日記
 大阪市立桜宮高校をはじめとして各地の学校で体罰が問題になっている。私も小学校・中学校ではかなり激しい体罰を受けた経験者である。

 小学校2年生のときの担任は木部春子という中年の女教師だったが、勉強がほとんど解らなかった私はまるで目の敵にされていた感じで学校へ行くのが辛かったほどであった。このどちらかといえば婆さんの女教師の嫌らしいところは、金持ちの家の子供には妙にやさしいことであった。つまり、同じように遊んでいても酷く叱られるのはいつも私だったのである。私の家は貧しくて両親も教育などにはほとんど関心がなかったのである。一方の金持ちの同級生は村で一軒の酒屋の息子とか製茶問屋の息子とか農家でも大百姓の裕福な家の子供たちで、確かに礼儀正しく勉強もよくできたのである。だが、礼儀正しいから勉強ができたから彼らが優しくされたのではなくて、親が盆暮れの付け届けをしたり、家庭訪問のときに気の効いたお土産を持たせたりする所為であることぐらいは子供心にもすぐに解った。所謂「えこひいき」ということである。

 この女教師は私に対する体罰を自分ではせずに、吉川という背の高い教頭に針小棒大に誇張して言いつけるのである。その結果私は女教師からの報告を鵜呑みにした吉川教頭から問答無用で痛い拳骨をいただく羽目になるのであった。この吉川という教頭には4年生のときにローマ字の授業を受けたのだが、私がAkiyama(あきやま)と書くべきところAkyamaと書いたのをみつけるとアキャマ君などと鬼の首でもとったように同級生の前で読み上げて私に恥をかかせたのである。まったく教育者などと呼ぶのにはおよそ程遠い教師たちであったが戦前や戦時中に教師になった人たちであったからそんな程度だったのだろう。

 小学校2年生にしてすでに落ちこぼれだった私は昭和22年3月7日生まれで前年の21年4月に生まれた同学年の深沢清君とはほとんど1歳の年齢差があった。しかも、悪いことに当時の田舎には保育園も幼稚園もなくて、いきなり小学校へ入学したのであるから、親が無学で教育に関心がなかった私の場合は国語も算数もほとんど理解できなかったのである。

 女教師は自分の教え方が下手なのは棚に上げて、足し算引き算が出来ないからと私の首っ玉を掴んで一年生の教室へ連れて行って一緒に教えてもらいなさいというのであった。私が65歳になった今日でもこの女教師を憎たらしく思うのは私のことを「浮浪児」と呼んで蔑んだからである。「浮浪児」というあだ名は気に食わないが、当時の私は青洟を垂らした汚い子供であったことも事実である。

 こんな私が人並みに成れたのは小学校3年生のときの担任だった望月けい先生が分け隔てなく熱心に指導して下さったお蔭である。望月先生は静岡大学教育学部を卒業したばかりの新任の先生で鼻つまみ小僧の私のことも実に丁寧に面倒をみてくれた。解りやすく教えてさえくれれば私も根っからの馬鹿ではないから人並みに出来るようになったのである。私の母親も望月先生こそが本当の先生だったと85歳で亡くなる直前まで感謝していた。

 中学2年生のときの担任は水永文夫という小柄な教師で数学などを教えていた。あるとき同級生の松永君と廊下で遊んでいて、松永君が前から体を押してきたので、後ろに倒れるときに受身のように背中を丸めたら、ちょうど巴投げのような感じになって松永君の体がふわっと宙に浮いた。そのとき松永君の足が廊下のガラス窓に入ってしまい出血する怪我を負わせてしまったのである。松永君は冷静に自分が秋山君を突き倒した結果だからと担任に事情を説明してくれたのであるが、逆上した水永担任は私の胸ぐらを掴むなり有無も言わさず20発くらいの往復ビンタを張った。そのとき私は小便をちびってしまった。ビンタの痛さよりも人前で小便を漏らした恥ずかしさが今でも心に残る出来事である。

 その後しばらくは無事に過ぎたのであるが、今度は中学校の周りの草刈のときに私が持っていた鎌に同級生の海野君が触って指を切るという事件が起きた。この事故も私が何かのアクションをした結果の出来事ではなくて相手の海野君の不注意によるものであった。このときも海野君が自分の不注意で少し切れただけだからと言って取り成してくれたのであるが、水永担任は、またお前がやったのかというなり、胸ぐらをつかんで往復ビンタの連発だった。今にして思うとチビの水永担任は血を見ると逆上する性質(たち)だったのかもしれない。

 高校へ通うようになってから、村の入り口の長い橋の上で水永と会うことが何度かあった。私が”なんだこの野郎”という闘志満々の敵意に満ちた眼で睨みつけると、水永は眼を逸らせていたが、そのうちに会わなくなった。たぶん、水永が橋を渡る時間を少しずらしたのだと思う。

 後年、50歳を過ぎたころだったが、市内の料理屋で中学校の同級会があったので出席したら来賓席に水永担任がちゃっかり座っていた。幹事役の同級生に誰が水永を呼んだのかと訊ねたら、恩師だから自分が呼んだというので、お前には恩師かもしらんが、俺には憎い仇(かたき)でしかないといったら、35年以上も前のことをよく憶えているなと気楽にいうから、同じ人間に40発も50発も一方的に殴られて忘れる奴がいたとしたらそいつは馬鹿だといってやった。
 その後二度ほど同級会があったが水永担任は呼んでも出て来ないそうである。

 さて、桜宮高校の暴力教師もそうだが、なんで暴力をふるうのかという理由である。それは教師自らが範を垂れることが出来ず、言葉では説得力のある指導が出来ないからである。私の周囲にいる鳶・土工の職人の中にも”喧嘩っぱやくて直ぐに手を出す”という輩(やから)もいるが、総じて小心者で口下手で・・・分かり易く言えば頭の悪い野郎が多い。
つまり、暴力教師は教育者として無能なのだ。無能な教師に高給を与える必要はない。暴力は犯罪であるのだから犯罪者は速やかに罷免するべきである。
 
 大津のいじめ問題のときもそうだったが、教育委員会には自浄能力がない。彼らの組織は事なかれ主義の相互扶助集団に過ぎない。

 橋下大阪市長の方針にはなにかと批判もあるようだが、暴力教師の罷免、見て見ぬ振りをしてきた校長以下全教職員の配転など、思い切った方策を取らない限り問題は根絶しないだろう。コントロールのできない組織は一度リセットするのがよい。

 桜宮高校の生徒の代表が体罰を是認するような発言をしたというが、彼らは自分が体罰を受けていないから暴力教師を庇うような発言になるのではないか?もっと自殺した仲間の気持ちに近づいてやることは出来ないものか。己さえよければという利己主義は鼻持ちならない。

 体罰すなわち暴力の是認などは私のように何十発も殴られたことのある人間にはとても考えられないことである。
コメント (2)
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