「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

JAROに言っちゃうぞ お茶のCMと格式について考える

2006年05月31日 23時59分50秒 | 妄想
 「一(はじめ)」だの「おーいお茶」だののCMを見てるとどうも違和感を感じる。緒方拳さんが昔ながらの茶畑で大きく深呼吸して、見たことあるようなお茶農家で健康そうな娘さんとお茶を揉む。

 ん?なんで昔ながらのお茶畑なんて言い方になったかというと、風景に近代を感じないからだが、その昔さはこの間も言った防霜ファンの存在にあるといえる。

 あれがなくちゃ茶産地とは言えないんじゃないのかなというのは、牧ノ原の偏見?

 あんなに広くて防霜ファンなしでどうやってやっていけるんだろう。まさか古タイヤ燃やしてんじゃないだろうな、と下衆の勘繰り。

 実際はコンピューターグラフィックで消しているんだろうなと思っていたら、この間テレビに出てた清水のお茶畑にはファンがありませんでしたよ。

 牧ノ原という霧とかが発生しやすいところにのみファンが必要とするならば、彼らはなんと過酷な条件下でお茶を作っているのだろうと思うのです。

 で、その手の画像が欲しくて探していたら

 こんなのを発見しましたよ。

 大学のミスコン優勝者(いわゆるミスキャンパス)で色々リサーチをしてるらしくて、ペットボトルのお茶についても一般大学生との価値観の違いを鮮明にしようとしてるらしい。

 で、その結果、

一般大学生 一位 おーいお茶 二位 生茶 三位 伊右衛門
ミスキャン 一位 伊右衛門 二位 生茶 三位 おーいお茶

だそうです。

 だから どないせいちゅうんじゃ!

ではなくて、何の意味があるというのでしょうか?

 伊右衛門はボトルが細身でミスキャンパスも持ちやすい…のだそうで(怒りで手が震えております)

 みんなも伊右衛門をもってセレブになろう!

 間違っても量が多そうな寸胴フォルムの「おーいお茶」なんか選んじゃダメだよ!っていうことを読み取らなくてはいけないらしい。

 

 疲れたので寝ます。

 おやすみなさい

出席番号哀歌  一番後ろはだーれだ?について考える

2006年05月30日 23時13分11秒 | 文化論
 うちの娘は明日、稲の当番なのでそうである。
ヒマワリだとか、朝顔とか、ウサギだとか色々当番があるが、そういう当番は今まで苦にしていない。
 でも今度の当番は気が進まないらしい。

 作業内容はともかく、メンバー4人のうち女の子は自分一人なのだそうで、それが嫌らしい。

 ウチの娘の後ろにはずらずらと女の子の名前が連なっているのに、娘の前後だけは女の子がいないらしい。

 ちなみにウチの娘の小学校の出席番号は苗字の五十音順ですね。

 ウチの名字はタ行なので僕もそうだったけど出席番号では中盤を占めてしまう。

 で、実に中途半端でつまらないのだが、そういうのは贅沢な悩みで、小学校から高等学校まで常に出席番号番号が1番の人や、最後の人もいるかと思う。

 例えば、全国の「あいかわ」さんはかなり1番の確率が高い。これより前に来る名字って何があるのだろう。

 「ああ~」となる名字なんてあるのだろうかと思う。

 気になるのは一番最後の人で、これはかなり種類があるのではないかと思う。

 「ワタナベ」姓は全国に名だたる大姓であるが、この字には異なる漢字が多くワタナベさんに確たるプライドがあるようで、違う漢字を書かれることを好まない。

 「そのナベじゃありません!」と強い調子で言われることが多い。

 しかし実際のところは苗字を登録する際に誤字で登録してそれがそのままになっているケースが多く、歴史的いわれは余り期待できない方も多いと聞く。

 しかしながら、こと出席番号となると「ワタナベ」さんは分が悪い。

 クラスのメンバーが発表される際にも半ばあきらめの感情が醸し出されている。

 だから例えば「綿貫(わたぬき)」さんと言う人がいると、なぜか「ワタナベ」さんは機嫌が良い。

 それに加え、静岡には藁科(わらしな)さんという「ワタナベ」さんにとっては女神のような存在が意外と沢山ある。

 じゃあその藁科さんはだれが救うのさ?

 そういわれてもねえ~。

 誰か後から入ってくる転校生以外で、藁科さんを救ってくれる人いませんか?

秋本康の逆襲! AKB48はモー娘。を踏みつぶせるか2 石橋貴明の存在

2006年05月29日 23時25分50秒 | 人々
 モーニング娘。は光に満ちていた。彼女たちには影がない。使われる色は常に強い照明の下でこそ映える色であり、性格も明るくて元気であることが要求されていたように思う。
 その半ばマニュアル化され、浮世離れした存在に対し、ファンは一種の疑いの目をもっても当然のことといえる。

 そしてその「疑」を代弁してくれたのが石橋貴明であり、中居正広であったはずなのだ。

 「うたばん」で、石橋貴明とモー娘。の関係は、つんくが強制的に光の国に存在させているモー娘。たちを、現実の生々しさの中に引きずり出そうとして闘った歴史であり、そういう石橋の態度に憤慨しつつも、ファンは鉄板の強さでそれを跳ね返すモー娘。たちに自分の抱いた「疑」の愚かさを知ることで、更に深くモー娘。の世界に引きずり込まれることになる。
 
 石橋貴明の手法は、メンバーの差別化である。

 贔屓という年頃の女の子が最も嫌がる方法で攻め抜き、彼女たちを光の世界から外に連れ出そうとする振りをした。

 秋本氏と石橋貴明がタッグを組むことは間違いないところであろうが、どういういじり方をして、その存在感を知らしめようとするのだろうか。

 AKB48は光の国ではなく、秋葉原の歩行者天国に出没する存在であり、メイドの、萌えの、エロゲーの延長線沿いに展開されるべき存在なのであるから、辛み方にも工夫が欲しいところではないだろうか。

 さて石橋貴明は、AKB48を、おにゃんこのように、モー娘。のように、オールナイトフジの女子大生のように、扱うのであろうか、はたまた完全オリジナルでいくのか。

 秋本氏の戦略とともに、その動向が気になるところである。

エマ終わっちゃいましたねえ ネタバレ注意!

2006年05月28日 23時50分42秒 | 書評
エマ7巻

エンターブレイン

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終わってしまいましたねえ。カミさんなんか読み終わった後、ため息ついてこの後どうなってしまうのだろうって言ってましたので、僕が横からこれで最後なんだよと教えてあげると、「え~!ほんとにいい!」と声上げてましたな。

 それくらい消化しきれていない結末でしたね。

 本屋さんで手に取ったときに、やけに分厚いのでこれが最終巻かなと思ったので僕はそんなに驚かなかったのですが、皆さんはどうでしょう。

 なんと言ったって前回でアメリカに連れ去れたんですから、そう簡単に裁可できないでしょうと思っていたのですが、実にあっさり逢わせましたね。

 どうも人気が落ちて、やや強引に最終回にもっていった節が見られるのですが、間違いでしょうかね。

 もともとメイドでメガネっ娘が主人公ですからキャラクターに無理な行動をさせるわけに行かず、アイデアが底をつき始めたのではないかともいます。

 でーも歴史大河ドラマのごとく、戦争なりなんなりを絡めていけばそれなりに継続できたんじゃないかと思うのですが、それをしなかった所に逆に潔さを感じています。

秋本康の逆襲! AKB48はモー娘。を超えられるかについて考える

2006年05月28日 14時20分18秒 | 人々
スカート、ひらり
AKB48
インディペンデントレーベル

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 秋本康と言えば僕らの少し下の世代にとっては忘れられない人だと思う。とんねるずと組んで素人とアイドルの中間の存在を作り上げ、アイドルに生活感と生々しさを盛り込んで時の青少年の心を刺激し続けた人だ。

 モー娘。のハロープロジェクトは最近すっかりなりを潜め、卒業したメンバーも目立たない存在になりつつある。

 かつてのモー娘。が、おじさんも引っくるめた国民的アイドルだったの新陳代謝を優先させたがために、記憶が追いつかずに高齢層のファンを離れさせてしまった。
 
 そして今、アイドルはオーディションではなく、秋葉原から生まれつつある。自分だけのアイドルを求める、自分が直接に係わってあげないと成立しないアイドルこそが今の時代に求められているのだ。

 自分だけが認めるアイドルが、メジャーになりすぎると遠く手の届かない存在になったとして身をひく。

 アイドルという存在と矛盾する価値観をどう克服するか。

 秋本康の戦略はかなり念が入っている。

 彼は秋葉原にAKB48の専用劇場を設け、一律1000円で公演を行っている。公演は午後7時開始。

 券は当日券のみ、午前11時からの販売になっている。

 小劇場で数をこなす。

 メンバーは総勢37名という多さ。

 その37名がAチーム、Kチーム、Bチームに分かれて公演を行うわけだから、自分だけの…と錯覚させることの出来る舞台が用意されていると言える。

 そしてメンバーのほとんどがブログを開設しており、コメント通して間接的ではあるがコミュニケーションが可能であり、しかも彼女たちの私生活に近い情報が手にはいるかたちになっている。

 と、まあ、こんなことを言っても知ってる人は今更なんだよと言う批判を受けそうだが、今度発売されるセカンドシングル「スカートひらり」がかなりおニャンコ風で、これは秋本さん中高生狙いじゃなくて、30代後半から40代のおニャンコ世代をターゲットにアキバ系の独身金余りの連中を夢中にさせようっていう魂胆じゃないかと思ったりするのです。

 今の中高生はもう少し現実的で、むしろバブリーな大人の方がメルヘン的現実逃避を望んでいるんじゃないかと思うのですね。

 で、「スカートひらり」はパソコンテレビGyaoの音楽ページに行くと「これでもか!」っていうくらい、プロモーションビデオが聞けますので、宜しかったらどうぞ。

 ちなみにAKB48の公式HPはこちらです。

 えーっと、すみません、スカートひらりっていうタイトルフレーズだけで、売れるんじゃないかと勝手に想像してますんで悪しからず。
 
 

名古屋的発想について考える

2006年05月27日 11時35分10秒 | 人々


 これはカミさんが職場でもらってきた御菓子なんですが、名古屋のお土産だそうです。

 で、エビフライの形をしてますね。

 ユニークですね。

 てんむす、みそかつ、小倉トースト

 一般の会社じゃ絶対企画として通らないものが名古屋から全国に発信させられる。

 名古屋の発想にはいつもビックリさせられますね。

 で、そのどれもが決してお洒落じゃない。

 どちらかというと言い方は悪いんですが泥臭いというか実に生活臭のする発想なんですね。

 名古屋に長い間住んでいた同僚の一人が「名古屋は巨大な田舎である」と表現してました。

 「安い」、「重い」、「大きい」

 結婚式の引き出物の三大条件なのだそうですが、何ともミエを強調した物質的豊かさを追求する価値観が見え隠れします。

 僕は数年前、よく日曜日に鈍行で名古屋付近に遊びに行きました。

 そうして沿線の街を眺めながら旅をするのが好きでした。

 そうすると気付くのが、昭和のままの街が結構多いと言うことで、言い換えればバブルの影響を最も少なく受けている感じがします。

 静岡はいわゆる自治省(現在は総務省)的な価値観で言うと優等生であって、駅前や都市整備計画も順調に行われて行きまして、現在それなりのバブル崩壊的ツケを払わされているわけですが、愛知の街にはそういう嘘っぽさが少ないような気がします。

 安い、重い、大きいを標榜としながら、逆にそれだからこそバブルのような実体の見えないもの乗っからなかったのではないか。

 そんな風に愛知の人の人間性を密かに尊敬したりしてます。

 

人の「手」について考える3 赤ちゃんの手の記憶

2006年05月25日 23時25分57秒 | 文化論
人類の発生の地は、アフリカの東部と言う説が有力です。
 赤道沿いに位置するアフリカ大陸は、古代から気候に恵まれていたため、多くの植物が繁茂し、それにつれ動物も多く繁殖していました。
今から1500万年まえには、下等なサル族から類人猿までの霊長類が住む森、森林がアフリカ大陸の東西に大きく広がっていました。まあジャングルみたいなものですね。
 が、その後の数百万年の間、大規模な地殻変動が持続的に起こり、紅海から現在のエチオピア、ケニア、タンザニア、モザンビークを結ぶ地下で地殻が分裂してゆきました。

ここを、大地溝帯といいます、大きな断層で、深い谷と川、湖が繋がっています。
また、一方、エチオピア、ケニアでは大規模な地殻隆起が生じ、形成された山地のため、西から東へ流れている気流が、山地の西側で雨を降らしてしまい、東側では、雨が少なくなり森林が疎となってきました。



大地溝帯の周囲には、壮大な山地や樹木の茂る涼しい高原、急峻な傾斜地、そして熱く乾燥した低地などが、新たに生じたのです。その結果、これまでの湿度の高い森林地だけでなく、多様な生息地が生まれ、そのことが生物の進化を強く促したのです。そこに適応する集団と消滅する集団とに分かれてきます。
さらに、人類の発生に、大地溝帯は、もう一つの重大な役割を果たしました。すなわち、共通の祖先からの子孫たちは、この大地溝帯によって、東西に分断されたのです。
大地溝帯の西側の子孫たちは、以後も湿度の高い森林地での生活を続け、類人猿として、とどまったのに対し、東側の子孫たちは、樹木の少ない新環境の中で適応する生活をするうちに新しい能力、すなわち、二足歩行をした最初の類人猿、人類の祖先となってゆきました。

 木から降りざるを得なかったサルが人類の祖先であったようです。

 では逆に木に登った動物がサルになったわけで、その動物はきっと前足が異常に発達して木につかまったのではないかと思うのです。

 動物は4本足でありまして、走るには後ろ足が力強く蹴ることが出来ればいいわけですね。いわゆるFR車だったんですね。

 で、肉食獣は獲物を捕まえなくちゃいけませんから、牙とかと一緒に前足も器用になってえいや!って掴んじゃうのが良かったんじゃないでしょうか。
 で、やたらに器用なのが、安全だし獲物も捕りやすい木の上にすんでしまおうかって考えたんでしょうね。

 人間の赤ちゃんを棒につかまらせるといとも簡単に自分の体重を支えてしまいますね。(よい子のお父さんは真似しないでね)

 それって樹上生活してたときの体の記憶なんでしょ。違うのかな。

 で、そうすると移動は木から木へって具合になりますから、どうしても微妙な握り方が必要になってくる。

 そういう連中が木からおりたら、危険がいっぱいじゃんかって、深い草に身を潜めながら、時々伸びをして周りを警戒してたら、2本足で立ってたほうが都合が良いってんで、立って暮らすようになったのかもしれませんね。

 そしたら枝を掴んでいた繊細な前足が、空いてるから棒でも掴んでいようかっておもって、振り回していたら何かの拍子に、他のサルに当たって、そいつがのびてしまったんじゃないでしょうか。

 あらら!これはすごくないかい?っていうんで他の動物にも応用して、道具(武器)手に入れたんじゃないでしょうか。

 そうすると同じ棒を握っていても、殺意を持って臨む狩りの場合と、殺意を伴わないものとか、色んな場面での使い分けが、更に繊細さを生み出したのではないかと勝手に想像して悦に入っている、そーです、僕が変なおじさんです。


人の「手」について考える2 際だつ感覚

2006年05月24日 22時34分40秒 | 文化論
 指先だけでなく、「手」そのものの感覚って非常に繊細なものではないかと考えています。

 焼津には世界に誇ることの出来る職人さんが嘗ていました。名前を法月惣次郎さんといいました。

 町の鉄工所の人なのに世界の名だたる天文台の望遠鏡や、パラボナアンテナを制作した人なんですね。

 法月惣次郎

 平成7年になくなってしまったんですけど、僕はその最晩年のドキュメント見た覚えがあります。レンズを磨く話で少しでも歪むとレンズが大きい分だけ画像がぶれるんだそうです。そのブレをコンピューターで制御して研磨しても限界があるそうで、最後はやっぱり職人さんの手の感覚なのだそうです。

 ナノ単位のブレを触って感じるのだそうで、鍛冶屋さんで丁稚奉公したときに刃物をうつ感覚と通じるものを手に入れたんでしょうか。

 これも他のテレビで見たんですが、新型新幹線の先頭車両の突き出た鼻の部分を作るのも職人さんだそうで、手仕事で実に滑らかな曲線を作り出していますね。

 人間にとって「手」ってすごいなあと思うわけですけど、意外に重さの目盛りは大雑把に刻んであるようで、例えば僕らが10キロの荷物を両手で持っていて、その上に1キロの荷物を上乗せしても人間はその重さが加わったことを感知しないのだそうです。
 つまり自分の持っている重量の十分の一の重さは関係ないように感じているわけですね。

 お寿司屋さんはシャリを握ってお寿司を作りますけど、いちいち計っちゃいませんよね。

 あれは重さでシャリの量を把握してるのかというと、そうではないような気がします。
 握ったときの感覚じゃないでしょうか。
 このブログを読んでいる方でお寿司屋さんがいらっしゃったら教えて頂きたいです。
 
 計ると言えば、お肉屋さんも昔は量り売りでしたね。

 お肉屋さんの重さの感覚も触感に近いものがあるのではないでしょうか。

 はかりに載せてくれますが、今も昔もどちらかというとお客さんにちゃんとありますよ~、ずるしてないですよ~とアピールしているようなものでしょ。

 だってベテランの人はほとんど一発で決めてくることが多かったような気がしてるんですが、それは思いでを美化しすぎているのでしょうか。

 今では計って売ってくれるお肉屋さんも見かけなくなりましたねえ。

 デパートの地下の食品売り場で言うと、潰れてしまった西武にあったのは覚えているのですが、松坂屋や伊勢丹にもあったかなあ。

 本格的なのは駒形通に一軒見かけましたが、なんというお店か分かりません。

 SBSの近くに住んでいたときは、花城さんというお店がありましたが今はどうなったか分かりません。

 じゃあ次はどうして手の感覚がそこまで優れてしまったのか想像してみます。

人の「手」について考える1 トイレ掃除は手でやろう

2006年05月23日 23時48分54秒 | 人々
 タレントの松居一代さんがテレビの中でトイレの掃除の仕方を語ったことがあって、「トイレ掃除は直接手で触ってやるのが一番良い!」って言っていた。

 普通の人なら「え~!」とか言いそうな所だが、実は僕はかなり共感できるところがあるのである。

 僕は2階のトイレを担当して掃除をしている。

 僕の家は築7年になるけど、自慢じゃないが2階のトイレはかなり綺麗である。

 便器が綺麗なのだと言うことではない。

 トイレが綺麗なのだ。

 と言っても格別なことをしているわけではない。

 1週間か2週間に1回。トイレクイックルで掃除をするだけなのだ。

 そういう意味で花王トイレクイックルは最高なのである。

 一時僕はもう少し安めのものを使ったことがあるのだが、その手の品物だと紙の質が弱く、厚みもないので1枚だけではトイレ全体を拭ききることが出来ず、2枚3枚と使ううちに結局高く付くのである。

 その点、トイレクイックルは、1枚で床から便器から換気扇まで全て拭けてしまう。そういつも僕は水の管から換気扇から窓枠まで順番を決めて全部に手を付ける。

 近頃は洗剤の口の部分が曲がっていて、トイレの水が流れ出す部分、ブラシが届きにくい部分にも薬液が届くなどと言っているが、そんなものは全く必要なくトイレクイックルを手でもってその部分に手を突っ込んで拭けば宜しいのである。

 そうすると綺麗になった感触が実感できる。

 手で直接感触を確かめること。トイレに限らず、そういったことは実はとても大事なことなんではないかと思う。

 それは人間関係においてもそうだと思うのだがそれはまた別のお話。

KIRIN 円熟  

2006年05月21日 23時42分33秒 | 
 今日、やっと地域の役員を一つ終わることが出来てホッとしてます。

 長かったし、重かったし、結構面白かった面もあった。

 田舎だろうと、都会だろうと関係なしに子供が殺されている(秋田の事件の舞台は僕らの地域と符合するところがある。)世の中で、それでも統計的には子供が対象になる殺人は減ってると言われても、自分の子供は守りたいわけで、新興住宅地やアパートがどんどん増えて、外国籍の人達も増えて、知っている人達の中に明らかに、素性の分からない、そして隣人とのかかわりが出来ない、もしくはする気のない人達を、僕達は脅威に感じているのは正直なところな訳で、そういう環境が拡大していく中で子どもたちを守る術を考えて、地域に提案してきたのです。で、それなりに結果は出せたんじゃないかと思うわけで、僕は今日、総会を終えて、新年度の役員の方に引き継いでお役御免なのです。

 家に帰ってきて、お風呂に入って、冷凍のきしめん(日清食品)



 を自分で作って食べた。

 半分近く娘に食べられちゃったんだけど、おいしかった。

 最近僕は冷凍麺の魅力に取り憑かれていて、そんなに種類はないのだけれど食べ比べていたりする。

 値段は定価で150円ぐらいだね。

 でもセブンイレブンで売っている信州そばは100円ぐらいで買えるし、この日清の冷凍麺シリーズも、スーパーで買えば大抵100円を上回ることはない。

 それで、今日行った大須賀(現掛川市)の古田屋さんで買い込んだビールは円熟というやつで、これが6本で780円なんだな。

だから一本換算で言うと130円になるんで、僕の今日の夜食はしめて230円でできあがったという計算になる。

 なんともまあ安上がりにできあがっている亭主なのだが、この古田屋さんのすごいところは、まとめて買うと隣で経営しているガソリンスタンドで割引が利くことで前回1万円以上買ったので、1リッターあたり5円の割引があって、今日は普通に入れたら1リッター133円(これも安いけど)のところを1リッター128円で入れることが出来た。

 これが明治9年創業の精米所の戦略だから恐れ入る。

 で、今日は伊藤園のおーいお茶315㎜㍑一本139円(定価)が何と24本入り1ケース980円で売っていた。

 一本の単価は39円というからすごいね。

 昨日はshop99掛川店でエビアンを99円(実は税込104円)を見つけてカミさんがウホウホ言ってたんだけど今日の極匠にはまいってしまったのでした。


 すげえまとまりのない記事だね今日は、


 お休みなさい。