「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

浅間神社の枝垂れ桜

2008年03月30日 17時49分18秒 | 日記
 春休みだというのに、しかも小学校から中学校に切り替わる、宿題などがない絶好の時期だというのに、みんな何処かしら連れて行って貰っているというのに、渡しだけ何処にも連れて行って貰えないなんて酷いじゃないかああって娘さんが言うので、クッキーのお店にいってしこたま買い込むことを条件に静岡浅間神社の旅ってことで勘弁して貰いました。クッキーの話はまた別の機会ににして、本殿の裏の所で拝観料100円を徴収して枝垂れ桜を見せているようなので、まあせっかくだし、ということになって見てまいりました。今日は昨日とうってかわって寒い雨模様の寒い一日でしたがしっとりと落ち着いていて、ゆっくり桜を見ることができました。というより今日は静岡市全体が静かな感じだったので、何でだろうと思っていると、4月の1日から始まる静岡祭りのためにみんな息を潜めて待っていると言った感じでしたね。









100円取るだけのことはあって見事に枝垂れていますねえ。

石垣イチゴと静岡への入り方8

2008年03月27日 23時01分42秒 | 妄想
 安倍川大橋を渡って右手に安倍川餅の石部屋さんを見ながら車を走らせると、道路が妙にくねっている感じを受けますね。ここから本通と新通に分かれて行くからなんですけど、通りの名前を知らなければ、新通の方が旧道で、本通の方がバイパスのように見えますね。通りの名前を知ると新通って言ってるくらいですから新しいのかなって思うと、そうでもなくて、確かに今川時代には新通は無かったようですね。でも1609(慶長14)年町割の際、本通に平行して東海道沿いに新たに設けられた町。って何処かに出てましたから、家康時代に造られた町であり、通りでも会ったと想像できます。そうすると本通の方の命名もそのときなされたんでしょうね。てことはですよ。どちらの方の通りが東海道なんでしょうね。今みたいに市道、県道、国道で、維持管理費の出所が違うとか、特定財源があったとは思われませんから、大した区別ではないかと思うのですが気にはなります。想像を逞しくすれば、本通の方は大名行列用で新通の方は庶民用の道路だったんじゃないかと思えば思えますね。慶長14年と言えばその前年に消失した駿府城の再建を命じていますから、そこから想像すると、新通ってのは工事用の道路だったんじゃないってのも面白いなと思います。その工事に関わった男たちを慰めるべく、安倍川町の遊郭ができて、その一部が吉原遊郭に発展したと言われてますし、残ったのが二町だったので二丁町遊郭と呼ばれたって言われてますし、道の取り方として、あくまで工事用ですから、合理的に大手門までの最短を採っていると考えても頷けると思うのです。
 しっかしなんだね。遊郭だけで駿府96町のうち7町が遊郭ってのも、凄まじい土地柄だったんだろうなと思います。色っぽさと言う点で、今は全国の平均を大きく下回る淡泊な町だと思いますが、これは僕の勝手な印象です。
 明治以後も残っていて、戦災で跡形もなく焼けてしまったと言われてますから、とても残念です。東京の吉原、岐阜の柳ヶ瀬、大阪のミナミ、北海道のすすきの、川崎堀之内、千葉の栄町などに並び称される歓楽街が展開していたら、静岡人の気質ももう少し違っていてかもしれませんし、少なくとも静岡の歓楽街の代名詞が両替町という銀行街になって無くちゃいけない町の名前にはならなかっただろうと思われます。

湘南の風 黄金魂ってさ

2008年03月21日 23時20分27秒 | 人々
黄金魂
湘南乃風,soundbreakers,RUB-A-DUB MARKET
トイズファクトリー

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 いい年したおじさんが言う事じゃないと思ったりもしますが、詩がさ、いいね。何が良いってさ、こういう風に世の中とか、世間とか相手に突っ張った生き方しててもさ、年を食ってきたり、それなりに正面切ってぶつかり続けているとさ、だんだんと敵って言うのか、ぶつかっている相手のことが分かってきたりして、それは時に同世代だとか、かつて価値観をともにしてた人間よりも理解し合えたりしてね。大人になるってなんだろうって、突っ張って生きるってなんだろうって考えさせられる時期があるのね。だからそういうときのそういう気持ちが出ているとという部分で、おじさんにも聞ける曲だなって思ったりする。

「花は桜 君は美し」という文語調について考える。

2008年03月15日 07時56分41秒 | 妄想
サクラビト(初回限定盤)(DVD付)
Every Little Thing,Kaori Mochida,Yasunari“Nam-Nam”Nakamura,Tomoji Sogawa
エイベックス・エンタテインメント

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 タイトルになっている曲は「いきものがかり」が歌っている曲です。娘さんが気に入っています。かみさんも知らないうちに口ずさんでいますから好きなんでしょうね。「桜」をテーマにした曲は毎年くどいほど出ていますが、それなりにやはり需要があるからなんでしょうね。まあ日本で「花」といえばやはり「桜」なのでしょうから、需要はあって当たり前なんですけどね。で、日本古来から愛されてきた花だからというわけではなさそうですが、「いきものがかり」にしても、紹介しているエブリリトルシングの曲にしても文語体なのが気になります。まあ元は松任谷由実の「春よ、来い」あたりから出始めてるんですが、どうも胡散臭くなっていけませんな。今携帯サイトでメール文章を武士言葉に直してくれるところがあって、随分流行っているそうなんですが、どうしてこういうものが今、流行るんでしょうかね。文化が外に向かずに内に向いて充実するときというのは必ず政治的にも文化的にも外国と謝絶しているときと相場は決まっていたんです。ところが今回のはそうじゃない。言い換えれば諸外国にあこがれや羨望が無くなった証拠なのかもしれませんね。

石垣イチゴと静岡への入り方7

2008年03月13日 00時08分16秒 | 妄想
 弥勒という場所は川会所があった所です。大井川と違って川渡し人足に頼まなくても川を渡ってもよかったそうですから、流れとか水量は大井川より優しかったのかもしれません。
 そして駿府城からすれば、ここからお城までは遮ることなき真っ直ぐな道路がのびていたはずですから、ここが最後の関所の役割を果たしていたそうです。これもその風水師おじいちゃんの孫からの受け売りですが、盗みとか拐かしをたくらむような輩を未然に防ぐために河原で処刑したり、さらし首にしたりしたそうですね。僕はそちらのイメージが先行してあったので、弥勒という地名もそういったところから出ているのかなと思うのですが、違ったようです。そういえば由井正雪の墓誌銘もありますね。彼の首もこの場所に晒されたのでしょうか。

 由井正雪って人のことは詳しく知らないんですけれど、どうも時代の流れとずれた感覚を持っていたように思えてならないものですからちょっと調べてみますね。

 それからタイトルの「石垣イチゴ」の件ですが、書こうと思っていた記事から方向がずれていますし、僕ら家族が石垣イチゴに行ってから一月ぐらい経ってますので、どうでもよくなっているのが事実です。

石垣イチゴと静岡への入り方6

2008年03月05日 00時04分59秒 | 妄想



 この古地図を見ると静岡って水の豊かな街だったんだなって思います。街の作りようによっては、倉敷ぐらいの街になれたんではないかと思うほどです。
 今も静岡は水涸れしない街ですし、水道料金も安いですね。掛川や菊川といった町は水源がないので金谷とか島田から購入してますから基本料金が1万円するんです。信じられません、今も昔も水を握ったものが勝ちます。



 で、河川改修がいつ行われたか知りませんが、その風水師のお爺さまにいわせると、今みたいに真っ直ぐ南に降ろして海に最短距離で結ぶ形は風水的には運気を逃しているそうで、よくないらしいんですな。でもまあ当時は、そのままにしておくと洪水ばっかりでよくないから、水を安定させて、尚かつ充分に供給できれば水田も耕地も増えていいのではないかと思ってやっただろうことですし、実際に水田も増えたんだろうと思いますね。
 
 僕は中学生の時に授業で、浜松は国道のバイパス作るのに5年でやったけど、静岡は15年経ってもちっともできやしない。これは静岡と浜松の気質の違いで、浜松は「やらまいか」というポジティブな精神でいるけれども、静岡はどんなに盛り上がっていても誰かが「やめざあや」というと、みんな「そうだなあ」って止めてしまうところにあるんだ、といっていた。

 とても印象に残っていて、その後の双方の町の発展もそういう視点から見ていたような気がする。で、実際浜松の方がどんどんでかくなっていったのにたいして、静岡は北街道の北とか、SBS通りの南側なんかは、ずっと田んぼが残っている状態だった。

 どっちの方が正解だったのは分からない。バブルの時は確実に浜松の方に元気があった。駅前は次々に再開発されて高層ビルに生まれ変わっていった。郊外店も沢山できた。しかしそれによって中心市街地にすむ人はいなくなり、駅前から住人が消えてしまった。
 静岡は、静岡銀行がそうであったように、バブルの余波をより少なく受け、商店街もかろうじて生き残っているといえる。そして今、少子高齢化と住環境に対する見直しから、駅から歩いていける距離に、健康かつ安全な住環境を提供してくれるコンパクトシティへの要請が高まりつつある。その意味では静岡に軍配が上がる。

 だから僕は自分の好みで、言うしかない。

 静岡と浜松を例えるならば、静と動、青と黄、東京文と関西の違いといった印象がある。そして街の作りとして、駅から地下に降りて、呉服町にあがり、伊勢丹で左に折れれば映画館街に着くと言った分かり易さが好きだ。僕の家から言えば東名料金が300円も高いのに静岡に行くのは、きっとそんな理由だからなのではないかと思う。

石垣イチゴと静岡への入り方5 

2008年03月04日 00時05分08秒 | 妄想
 安倍川橋を渡ると右手に安倍川餅のお店が見えます。弥勒という場所ですね。弥勒というのはやっぱり弥勒菩薩の事なんだろうなって思いますよね。56億7千万年後に人類を救済するために今は天上世界で修行に励んでいるという方です。光瀬龍原作、萩尾望都絵の「百億の昼と千億の夜」という作品の中で、阿修羅王が「あやつは人類の滅びる理由を知っているのだ、でなければ救えるはずがない!」と扱きおろしていますね。確かに56億7千万年後だと人類はかなりの確率で滅びていますでしょうし、仏教もへったくれもないような気がします。神も仏も人間あっての存在でしょうからね。
 で、そうするとこの静岡の弥勒ってなんだろうと想像したくなりますね。ぼくの職場の同僚で、静岡出身の方がいるんですが、その人のおじいさんが弥勒の辺りで風水師をしてたんだそうです。そのおじいさんに言わせれば静岡の街がイマイチぱっとしないのは安倍川の流れを河川改修で今の位置に固定してしまったからだそうで、本来は駿府城を囲むように一旦、東進して流れていたんだそうです。確かに大きな川っていうのは今よりずっと水量が多く、気ままに流れを変えていたみたいですね。大井川流域の地名には、そういうのを想像させるものが多くあって、島田自体が、川の中の「島」でしょうし、藤枝市に残る「前島」「大洲」「高洲」等も河川流域が変化しても水害の影響を受けない高燥の地を示しているように思えます。
 静岡にも「中島」という地名がありますから、今の駅南地域はかなりの割合で河川敷が拡がり、登呂遺跡を含めて氾濫地域にあったのだろうと想像できます。そういう意味では駿府のお城は、安倍川が懐に抱くようにしていた土地にあったわけで、龍が守る街の姿を想像すれば風水的にも良いんだろうなと思います。
 

あやぱんのけっこん

2008年03月02日 22時49分25秒 | 人々
え~!!!!てな具合で驚きましたね。また相手がゆずの北川っての微妙なところだね。うちにはあやぱんの声で起こしてくれる目覚まし時計があるのよ。かわいいとか何とかよりもアナウンサーとして凄いなって思ってた人だから、やめちゃうとなると(まだわからないけど)さびしいなあと思うよ。めざましは、というかフジテレビはあやぱんが出てくるまで何でもかんでも小島奈津子だったでしょ。それに変わる安定感をだせたのって大きいと思うのよ。

 まあとにかくしばらく騒がしいんだろうな。さいきん芸能ネタが朝青龍だけじゃ、気分が悪いまんまで、マスコミのあおり方が見苦しくてさ。嫌だったところだからね。

石垣イチゴと静岡への入り方4

2008年03月02日 18時14分08秒 | 妄想
 よこち鳥獣店を過ぎると安倍川橋に出ますね。安倍川橋の向かって左手の部分に妙に空いているスペースがあるのはご存じでしょうか。なんだろうな?って気になります。でもまあそこから見る富士山は鉄橋との構図で結構良い写真が撮れそうに思われます。だいたい鉄橋っていつからかかっているんだろうと思いますが、近所に車を停めて橋のたもとを見てるほど余裕のない時でしたので知らずじまいです。

 で、



とか



とか



いうのを見つけましたので参考までに載せておきます。

 戦前の土木絵はがきライブラリーという所にあったので戦前なのでしょうね。よくまあ壊されもせずに残りましたね。

 それにしてもこういう建築物が絵はがきとして残るってのがいいですね。いまなら東京タワーとか横浜のみなとみらいとか六本木ヒルズとかの絵はがきになるんでしょうか。

 話は飛ぶんですが橋は明治になってから架けられているんですね。江戸時代は首都防衛上の問題から大きな川に橋は無かったですね。そこには川渡し人足がいて有料で肩に担いだり輿に載せたりして川を渡ります。家が西部のせいか大井川の川渡しのほうが印象が鮮明でして安倍川の川渡しはイマイチピンとこない。「箱根は八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」という歌のせいですかね。

 でも東海道五十三次の府中の図は城を中心とした駿府城下の風景ではなく安倍川の渡しの風景なんですね。広重がそれを選んだのはやはり橋のたもとにあった茶店で「安倍川餅」を食べたせいだとしたら面白いですね。

 安倍川橋は明治になって政府から架橋命令が出たときに、川渡し人足の元締めが雇用対策のために作ったと言われています。民間の事業だったんですね。そのときに400名の人足の雇用を…って書いてますから、どの位の交代制を採っていたか知りませんが大きな人数だったと思います。

 一口に川渡しといっても、五人~十人の小規模事業でなく、静岡の駅前にいるタクシー並の事業展開があったのだろうと思うと、当時の日本の経済力も侮れませんね。

 大井川の川渡し人足はそのまま川から牧ノ原台地にまで上がって、浜岡の丸尾氏の指導の元、茶園を始めてますが、安倍川の人たちは橋の工事の後どうなったのでしょうか。僕には知る手段がありません。

 ちなみに渡し場は、この間「あおいくん」さんにご提供頂いた資料によると、東海道はよこち鳥獣店の手前で大きく右にカーブし、今の安倍川橋のすこし下流で渡していたらしいことが想像できます。

 渡し場に関所みたいなものがあったんですかね。それとももっと別のものがあったのかもしれませんが、想像したくなります。