「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

海野光弘さんの絵について

2013年06月09日 23時53分58秒 | 回想?

 海野光弘さんって知ってますか?静岡市出身で、昭和14年生まれです。僕の母親と同じ年齢でなんだけれども、39歳で無くなってしまった、版画家です。島田の博物館の分館というのがあって、前の前の市長さんや議員さん達が、海野さんの奥さんにお願いして、作品や版木を寄贈してもらって、民家を海野さんの美術館にしてしまった経緯があります。 企画展とかで、個人の版画家を取り上げるのはありますけど、常設展で設置されるのは珍しいですね。


 僕は20年前、静岡で開催された版画展のチラシを見て、絶対見に行くと言って、今は無き、静岡県民テレビの1階、ギャラリー青葉で、見たのが最初でした。ものすごく気に入って、絶対欲しいって思って、値段見たら、当時の僕にはとても手が出せない値段で、それでも無理すれば買えたかも知れないけど、諦めたんですね。


僕は海野さんの版画は手に入らないモノと諦めて、それでもヤフーオークションとか、古道具やとか、ないかなあって思ってました。でね、今日はとりあえず、海野さんの作品がどんなものか紹介しますね。紅光さんという海野さんのご実家の目の前にあった、果物屋さんが開設したブログです。僕がチラシで引き込まれたのは「縁通し」という最初に出ている作品です。

このことについてはまた書いていきます。


スカイ・クロラ wiiになる!!

2008年09月21日 23時21分20秒 | 回想?
スカイ・クロラ イノセン・テイセス

バンダイ

このアイテムの詳細を見る


 スカイ・クロラがwiiになりますね。映画も観てないのに、なんだかこのゲームが欲しくてなりません。
 テレビでゲーム画面を見てたら思い出したことがあるんです。

 多分、その影響なんでしょうね。

 僕が小学校5年生の時ですから、大阪万博の熱が冷めやらない時期だったと思うのです。東名菊川インターチェンジの正面には「菊川ボウル」というボーリング場がありました。ボーリング場にはゲームセンターがつきものです。といってもゲーム機が数台あっただけだと思うのですが、その中の一つに後にインベーダーゲームを開発する人が作った空中戦のゲーム機があったんです。照準器があって、その中心部分に敵の戦闘爆撃機3機を、緩慢にしか反応しない操縦桿を操作して、入れて、撃つと撃墜できて、成績が良いとゲーム時間が延長されるといったのものでした。いやあ1ゲーム50円だったと思うけど、結構つぎ込んだ記憶がある。
 今度のゲームにはそういう雰囲気が多分に含まれているので、つい欲しくなってしまうんだよねえ。でもそういう幼年期の映像って多分に今の感覚に味付けされていたりして無闇に掘り起こさない方が良い場合があるのを知っている僕は、それなりに年を取った、もしくは経験を経てきたんだろうなと変に落ち込んだりしているのさ。

国文科の憂鬱 田中先生登場

2005年06月21日 23時40分50秒 | 回想?
 大学も4年生の1月になると、みんなそれぞれに人生経験を積んできているようで、就職先はすでに決定し、卒論はすでに提出して身軽になって、学生という身分も残り僅かであることが身を引き締めたりします。
 僕らは誰も彼もが、このキャンパスを巣立とうとしている時期になって、一体自分は何をしてきたのか、自問自答の答えが出せずに、何か実感に近い、自分の存在を掴もうと、毎日のように誰かと会っていたような気がしています。

 僕らは玉川酒盛り会は、熱心な宗教活動に走ってしまったTと袂を分かったRが合流し、3年次ぐらいから毎週火曜日の1時限目に出るべく、月曜日の夜にSの下宿に集合し、パンツ一丁で女子校の近くの酒屋に酒を調達に行き、当然夜中まで飲んで、安い酒に酔い、吐き、当然のごとく、次の日の1時限目には間に合わないという反省のない日々を送っていました。

 クラブ(部活)と付き合っている女と酒と、文学の話題だけでずーと酒が飲めたのが不思議でした。尤も文学の話はかなり少ない割合でしたが…、とにかく全く生産性のない人たちでした。
 
 ただ、それぞれのクラブでは、それなりの役目をこなしている人達でしたから、世慣れた部分はあったのです。
 バイトも国文科にしては職歴が豊かでしたから、って勉強してない証拠です。

 そういうわけで僕たちは国文科の中でも、とりわけ不真面目な人たちでした。

 でも最後のコンパの話が持ち上がったとき、誰が幹事をするのかっていう話があがると、すぐに僕らの名前が出てきました。

 出席率は格段によかったように覚えています。みんな寂しかったんですね。男も女もそれぞれが優しい大人になっていました。それぞれにそれなりに恋をして、傷ついて傷つけて、慰めたり、それを求めたり、理屈や正義や道徳で割り切れない思いをいっぱいして、そういう東京から離れて行かなくてはならない。それぞれの地元にどんな生活が待っているか分からないけど、確実に言えることはもう此処に戻ることはないってことで、それは取りも直さず東京は僕らの場所じゃないって認めなくちゃ行けないことでした。

 で、3次会までみんなで行って、12時を過ぎて誰もいなくなった渋谷のセンター街をみんなで校歌を歌いながら、歩きました。

 渋谷はまだそんな街だったんです。

 渋谷から桜新町まで行って、(歩いて!?)僕の汚い4畳半の下宿に6人が雑魚寝して、僕は一緒に幹事をした女の子の隣に寝転がりました。

 朝方彼女が突然泣き出し、ぼくは何も言わずに彼女の肩を抱いていました。むくっと起きた奴が一人いたけど僕らの方を見るとあわてて寝たふりをしていました。

 今思うと、おやおやと思うくらい純だった。今の人たちが聞いたら笑っちゃうだろうなと思う。

 でもそれなりにそのときは精一杯であった訳ですから恥ずかしいも何もなかったようです




 で、僕は2月の中頃になってやっと卒業を決定し、一安心してSの下宿に戻って来たんです。そこへRが血相変えて飛び込んできました。

 「おい!俺らで謝恩会することになったからな。」といきなり言いました。

 Rは侠気のある男ですが、やたらと説教好きな面もありまして、そういう部分が活きたのでしょうか、教育実習で教員を自分の天職と感じ、採用試験を受けましたが、到底受からずくさっておりました。

 ただ、卒論担当教授が実習を見に来た際、とても良い授業ができたそうで、えらく見込まれ、色々と世話を焼いてもらっているようです。

 
 そこへ近所の女子校の非常勤講師の話が持ち込まれました。

 そう僕らがパンツ一丁で校門前をうろちょろしていたあの学校です。

 でもゼミ生でもないRに非常勤講師の口をタダで紹介するわけがありません。そこで先のお話になります。

 つまり内実はこうです。

 毎年、卒業式の後、国文科では教授陣を招いて謝恩会なるものを催すらしいのです。開催の主体となるのは各教授のもっているゼミの長が寄り合って段取りをするそうですが、その年に限り、ゼミ長がほとんど帰郷していまい、教授陣が怒り心頭に達しているそうです。

 で、Rにおまえの就職先を斡旋する代わりに謝恩会を段取りせよ、人選は任せるという話になったのです。

 ですからRは僕と福島に帰郷することになっていたSと修士に進むゼミ所属のAとゼミ連会長のMとなぜか茨城に帰らないNを仲間に引きこみ、自分の就職のためという実に個人的な理由から、あと10日に迫った謝恩会を成功させるべく、詳しい事情を聞きに246号線沿い、用賀のロイヤルホストに向かったのです。
 そこで司会担当として参加した僕の前に立っていたのが、田中先生(当時助手)だったのです。


 僕は目が合った途端逃げようと思いました。

  

国文科の憂鬱 田中先生のこと  酒と女性には気を付けなさい

2005年06月17日 23時12分21秒 | 回想?
 初めてのクラスコンパには遅れて行きました。僕はそのころもう射撃部に入っていたので、6時半頃まで部活があり、トレーニングの後、急いで新玉川線にのり渋谷に出て、会場になっていた所に行30分遅れぐらいで着きました。
行くとなんだか不思議な空間になっていた。男女が別々に集まっていました。まだまだウブな時代だったんだね。
 ぼくが入るとみんなが歓迎してくれたはいいのですが、すぐに隅っこに呼ばれて、「あのブロックに行って盛り上げてくれ!」と言われました。
 見るとおとなしそうないかにも国文科っぽい女の子達が一つのテーブルを占拠してました。「誰も行かなかったの?」と言うと「2,3人チャレンジしたけど駄目だったんだよ。」と言われました。「そんなとこ行けっかよ」というと「後、オマエしかいないんだよ、頼むよ」って、僕のことどれだけ知っててそんなこと言うのか、知れたもんじゃなかったけど、しょうがないから行ってみました。僕が行くと知ってる顔が来たってんで、そのテーブルも盛り上がったのは良いのだけれど、僕は全然イケメンじゃない(当時そんな言葉はありません)ので、その盛り上がりをキープするためには、馬鹿なことをいいつつ、一気でもやるしかなかったのです。
 で、高校時代は結構真面目だった僕は、まだお酒に慣れてなく、濃~いウイスキーの水割りを、一気で2,3杯飲み干しました。
 とんねるずは僕のいっこ下の人たちですから、「一気!」が流行るのはもう少し後のことだよ。

で、不思議とすんなり飲めました。後で考えて見ると、部活でトレーニングで汗をかいた直後だったので、喉がカラカラで、そのせいもあったと思います。

 酔いが回って来ましたが、僕は高校時代演劇部部長という肩書きを持っていたこともあり、女の子と話すのに抵抗はありませんでしたから、結構調子よく話していたと思います。
 ただしこれは色恋抜きの関係のときで、少しでもそういう気持ちが絡むとテンで駄目になってしまうのもまた僕なのですが…。
 隣の子は、誰だったか忘れましたが、「強いね~」とか言いながら、ドンドン水割りを作ってくれます。どうやらそういうのを義務と感じてる人のようで、話すことよりそっちの方に神経を使っているようでした。
 僕は、世間知らずと自分知らずのノーテンキ小僧でしたから、自分はひょっとしたら凄くお酒に強い体質なのではないかとという自覚を勝手に持ってました。
 後にこの自覚が、駒沢病院の歴史に残る「山田屋旅館事件」を引き起こすことになるのですが、それはまた別のお話。

 酩酊は突然僕を襲いました。

 「ゴメンね。ちょっとトイレに行ってくる」と言うと僕は2度とそこに戻れませんでした。トイレに行くと、2人ほど、便器を挟んで、にらみ合ってました。

 だめだこりゃとと思って振り返ると、頭が急激に重くなって立ってられなくなりました。いかんと思って、店の階段を降り、幹事のひとりのSに「わりい!お先!」とだけ言って、店を出ました。

 気が付くと次の日の昼になっていて自分の下宿にいました。

 自分でどうやって帰ったのか全く記憶がありません。
 
 自分がどうなったのか知りたくて、学校に行きました。

 そしたらもっと悲惨な状態になってる奴が沢山いました。

 Nは自分の下宿でない、別の下宿の玄関先で寝込んでいたそうです。

 AはNのサークルの先輩宅に運び込まれ、新聞紙で厳重に巻かれて、横たえてあったそうです。

 Rは自宅に帰るべく山手線にのり、そのまま3周したそうです。これは僕も後にやりました。

 こうして何人もの犠牲者を出しながら、第1回国文科コンパは終了したのですが、その年の暮れにもう1回やってそれ以来、やらなくなってしまいました。
 女の子言い分としては「おもしろくない」と言うことらしいですし、野郎どもの言い分では「あんな気の使えない女はいない」と言うことでした。当時まだ「自己チュー」なる言語はなく、「勝手なんだよ」という印象をお互いに持ってしまったらしいのです。

 そんな僕たち国文科2組の次のコンパは4年生も押し詰まったころまで待つことになるのです。
 

国文科の憂鬱  田中先生のこと 玉川酒盛り会と清盛会

2005年06月15日 23時32分14秒 | 回想?
 レポートを提出して、友達Sの家に帰った僕は、これでホントに卒業かぁという気持ちで、呆けた気持ちでおりました。
 そこに同じ国文科の悪友達が、3人ぐらいなだれこんできました。




 簡単に悪友とか書いてますが、清廉潔白な我が文学部国文学科の中で僕らはかなり異色の存在でした。
 なにしろ授業にロクに出てなかった僕はたまに出ると「おまえ、大学辞めたって聞いたぞ」とか言われる始末で、成績も下の下でした。

 加山雄三という人がいますが、僕は「可」が山のようにあり、「優」が3つしかないという意味での可山優三でした。

他の連中も似たかよったかでした。ただAだけは後で大学院に行くほど勉強をしてました。

 僕らの大学は世田谷と玉川に校舎がありまして、一年生は教養課程の時に週に一度は玉川校舎に行かなくちゃなりません。

 僕ら国文科は月曜日になると、電車とバスを乗り継いで玉川校舎に行きました。

 そこで英語と宗教学と体育の授業を受けます。
 
 午後が英語の授業でしたので、お昼もそこの校舎にいなきゃなんない。

 ところが、食堂が大混みのうえ、ろくなものがない。

 そのうえ、校舎近辺には喫茶店もない状態。

 仕方がないので、近くの酒屋で食料を買い込み、玉川の河原で食べてました。

 そんなことを繰り返しているうちに、自然とビールを買い込むようになってきまして、酒盛りがはじまってしまいました。

 もちろん午後の授業も出ましたよ。
 
 隣の席の女の子に「お酒臭いよ!」とか言われながら…。

 僕らはNという茨城出身の映画と酒が大好きなN(酒を買おうといいだした奴)という男が命名した「玉川酒盛り会」を称していました。

 ところで僕らとは別のグループがやはり河原で酒を飲んでいました。その連中は僕らの話を聞き、「そんなら俺らは清盛会さ!」といっていました。

 僕ら玉川酒盛り会は清盛会とは一線を画していました。肌があわないってのが、その主な理由でいしたが、考えてみれば僕らのメンバーは静岡の僕と茨城のNと福嶋のSと岐阜のAでしたから完璧地方出身者で、清盛会は葛飾のRと綾瀬のTでしたから完全な都会の子で価値観からファッションまでまるで違ったのです。

 でも僕らは国文科の2組。(学生番号の60番から120番の人。英語の授業のための便宜上のクラス。僕らは勝手に2組と称していた。1組は付属校からの内進生が多くかった。)
 は最も早く学科内コンパを企画しました。

 仕掛け人は僕とSとRでした。場所は土地勘のあると言うより、僕らは渋谷なんかで飲んだことがなかったので任せるしかなかったのでRがしました。
 僕の田舎もの度合いは凄いもので、コンパというものがどういうものか分からず、しばらく知ったかぶりをしていましたし、Rが予約した場所がいわゆる宴会場的畳部屋じゃないのを不思議に思っているくらいでした。
 なんか言ってやろうと思いながら、あのとき言わなくて良かったと胸をなで下ろした経験があります。
 
 で、誰がみんなに声を掛けるんだと言うことになって、「そんなら僕がやるよ」と高校時代に演劇部で場慣れしていた僕が担当することになりました。

 180人が集まる大教場で、授業終了直後に壇上にあがり「学生番号のお!60番からあ!120番までのお!人!ちょっと残ってえ下さーい」と声を張り上げました。
 みんな残ってくれました。みんな地方からが多くて友達もまだそれほどなくて、つながりたかったのかなって思いました。
 
 話はスムーズ過ぎるくらい進み、段取りも決まり、僕は一時的にみんなの中心にいることになりました。だって他の人たちは僕を通して国文科の別の人とつながるしかなかった時期でしたから、僕は何だか不思議な感じでしたが、コンパが終わるまではしょうがないかなって具合に考えてました、それに僕は学科の半分以下しかいない男子の中で大学生なのに学生服を着てましたから、目立っていました。だから声も掛けやすかったのではないかと思います。

なんだか、こんなこと書くつもりじゃなかったのに話が広がって来てますので個人情報保護法を発令し今日から個人名を避け(遅いよ!)イニシャルで書かせて頂きます。

でも分かる人には分かってしまうんでしょうね。
 

国文学科の憂鬱 田中先生のこと

2005年06月15日 00時03分35秒 | 回想?
 以前に駒沢大学の田中先生と話す機会がありまして、この方は僕の大学卒業後の恩師とも先輩とも言える人で僕とは因縁の深い人です。
 いまは東京大学で教鞭をとっておられる。ん?もう戻られたかな。

 まだ先生が国文科の助手だった頃からのお付き合いで、最初の出会いは僕の卒業間際の頃でした。僕は当時、静岡の広告会社のコピーライターとして入社が決まっていました。五次試験まであったかな。採用になったってんでかなり喜んでました。それで会社の方から三月の頭から研修のつもりでバイトをせよって指示があって行くことになりました。配属は新聞科でした。ここは凄いところで、いくと小学生が使うような木の小さな机が3つ並んでまして、三人ほど新入社員がいました。座ってると、いきなり課長といわれている人に「おまえらどういうつもりでここにいるんだ!」と怒鳴られました。何も答えられずにいると、「黙ってたってなにもでねえぞ!」とかいわれて「今年はだめだな」とかいわれてました。「いいか!おまえら何にも分からないだから、偉そうにしてるな、お客さんじゃねえんだ!分かってることなんか一つもねえんだ!だったら先輩に聞けよ!教えて下さいって、頼むんだよ!」とか言われてました。もっともなことなんですがこういう手法を使わなくても伝わるだろうにと思ってました。
 三〇分ほど説教くらって先輩について飛び込みのセールスに行きました。自分がどういう商品を売っているのか全然知らされないまま、風俗店やあやしい印鑑セールスの事務所やヤクザやさんの事務所などに挨拶回りしてきました。
 要は求人広告をだして欲しいと言うことでした。
 僕の部署は新聞の夕刊に求人広告を載せる仕事をしていたのです。その日その日一日が勝負の部署です。紙面が埋まらないと課長に酷い目に遭わされるらしいのです。外回りで取れなかった分については締め切りぎりぎりまで顧客リストを洗って電話しまくります。名簿が重複していて「てめえのところは一日に何回電話すれば済むんだ!って怒鳴られることもしばしばあります。
 そういう一日を過ごしました。その先輩は移動の最中、ずっと「こんな仕事をしてちゃいけない。おれも来月辞めるよ。今までに何人辞めたかわからねえよ、おまえも悪いこと言わんと辞めときな」とずっとずっと言い続けてました。「給料はいいんでしょ。」というと「課長はな」と言ってました。
 で一日で辞めました。
 会社の記録保持者になってました。
 過去形になってるのは、数時間で脱走した奴の話を聞いたからです。

 で、その当時僕は卒業に必要な演習のテストが悪くて、「レポートを出さなきゃ卒業させてやんない!」って教授に言われてましたので、先日送別会までしてもらった東京の世田谷に3日で舞い戻って来たのです。
 東京に残っていた友人の下宿に転がり込み、居候をしながら大学へ行き、レポートを仕上げて締め切りすんでのところで、国文科の事務局に行って提出しました。そのとき僕の拙いレポートを教授の代わりに受け取ってくれたのが田中先生だったのです。
 僕は大学時代、体育会の射撃部に属していて校内を長ランを着て歩いてましたので、勉強だの教授だの研究棟だのに全く縁がなく、そのときも田中先生にひとくさりされてそそくさと退出してきました。
 研究棟を出たとき止めてた息を吐き出すようにため息をついたのを覚えています。

 でもぞの数時間後僕はもう一度田中先生と世田谷のロイヤルホストで出会うことになるのです。