「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

今、食べたいものはなんですか? 今週のお題

2005年10月31日 23時29分13秒 | 妄想
カズさんが北海道に旅行にいってらして、それはもう見事な「食い倒れツアー」なんですけども、なかでも気になったのは、「和牛刺身丼」でございまして記事で見た瞬間から食べたくて仕方がない。

 何てったって肉が刺身で食べられるなんて凄いことです。

 知り合いのお店のマスター(居酒屋の主人なのに僕らはそう呼んでいた)に造ってもらった「さんまの刺身」とか「鯖の刺身」とか、義父に食べさせてもらった「鹿の刺身」とかよりも断然迫力がありそうだったりする。

 元々北海道の食べ物は何度行っても裏切られたという感じがしない。

 残念ながら今流行らしい「ジンギスカン」だけはパスするが、他はバッチコイの状態である。

 不思議なのは北海道で食べる「男爵いも」も「銀ダラ」も何故か地元で食べると現地で食べた程の感動を味わえない。

 どうしてでしょうねえ。

 単なる温度差ではなくて、北海道の空気には街でも透明感があるような気がしてならない。

 水も空気も人柄も全てが高い透明度をもっているようで、それが単なるジャガバタを最高に旨いものにしているのではないかと思ったりする。

 来年の春は絶対に行ったる!


 スキーツアーなら2泊3日で36,000円でいけるはずやねん。 

赤焼けの東南海

2005年10月30日 17時52分51秒 | 地震関連
 茨城の地震の時以来、毎日のように筋状の雲が出ていた。

 そして一昨日あたりから、御前崎沖や駿河湾で浅い震源のやや大きめの発震が続いた。

 大きなのがそろそろこの辺でもあるかと思っていたら、今日になってパタッと止んでしまった。

 そして写真の夕焼け現象が見られている。

 見事ですだねえ、と感心すると共に、火星の大接近や半月トリガーやらを考えると、緊張してくる自分を制御できない。

BLOG表現の困難さ6 ドッペルさんへのお返事

2005年10月30日 00時22分22秒 | BLOG論
 前回の久々のブログ論「ブログの寿命 閉鎖するブログ」にドッペルさんがコメントをして下さいまして、返事を書いていたら長くなったので、記事としてアップさせて頂きます。

 ドッペルさんはネット上のトラブル、いわゆる2ch系の荒らし集団の問題については、根元的には人間関係を構築する際のトラブルで、今に始まったことではなく、ネットコミュニケーションは、それらの問題を増幅してハイビジョン大画面で映し出しているのではないかというご指摘だった。

 確かに人と人との繋がりは、人間という種の誕生以前からあったでしょうし、コミュニケーション方法は文化によって様々だろうと思います。

 ネット上は顔の見えないコミュニケーションを前提としてますから、表情や手振り、語調などが言葉を補うことが出来ないと思います。

 日本語では「あなた」「君」「貴様」「おまえ」「てめえ」と使い分けられても、英語では「YOU」と書くしかないもどかしさと同じような感覚が伴いますね。

 そのかわり英語では声、表情、身振り、を豊かにして表現しますね。

 日本人は比較的言葉が豊かですが、その分表情に乏しく、特に現代ではその言葉さえバリエーションを失いがちなのが僕達なのですから、ネット上のトラブルは仕方ないことなのかもしれません。

 そして人間関係に普遍化すれば、「いじめ」の問題も含まざるを得ないわけです。

 攻撃者に徹底的に欠けている、もしくは共通するのは、自分を認めさせようとしながら、他者という存在を認めようとしない点にあるといっても良いのではないでしょうか。

 そして逆に「自分」と「他人」という意識において、「他人」も「自分」と同じくらい尊い存在であることを意識している人は、決してその人を傷つけたりしないと考えています。

 「日本人に犠牲者はなかった模様です」というコメントに違和感を抱く人が増えてきているように、日本人でなければ、外国人であれば、ましてや日本より文明が進んでいない国のひとならば、悲しむことはないのかと憤慨することがある。哀しみの範疇に外国人は入れなくて良いという民族的エゴイズムが見え隠れする。

 これはネット上の攻撃者にも当てはまることで、彼等は自分が傷つくことを極端に怖れ、他者を噛んで吐き捨てるように「断罪」することを好む。そして自分の卑怯な勇気に賛同者を求めようとする。

 直接関係ないものなら、どうなっても責任はとらなくて良い、見つからない、逃れられる、傷つけられない。

 しかし、あなたがそうであるように、他の人にもその人のことを愛し、心配し、行く末を祈った人達がいて、2時間おきにミルクを飲ませたり、おしめを替えた人が必ずいて、その人が傷つくとその人以上に心を痛める人が、あなたと同じようにいるはずだと、容赦ない攻撃者に意識してもらいたいと願っています。

 その人は、あなたにとって無関係の人かも知れないし、その人が例えこの世から消えても、あなたの生活には何の影響もないのがネット上の出来事です。

 けれどもそういう風に人を追い込んだあなたの心は、たとえあなたが、大勢の中の一人でしかなかったとしても、変形を来すのです。

 それをしてしまった、経験をした人は、しない人や思いとどまったあなたと違う次元の人生を送らなければならないことを覚悟すべきです。

 そしてそれはあなたの周りの人間関係において、少なからず影響を与え続けるのだと思って下さい。
  



 攻撃者にたいして一番有効なのは、「冷静に無視」することである。

 アップされるたびに冷静に駆除する。

 一切の感情の起伏を見せないこと。

 見せる必要がない。

 ある高校教師がいったセリフにこんなのがある。

 邪魔な、そして辞めさせたい生徒は無視し続ければいい。

 徹底的な特別待遇という無視を続ければいい。

 他の生徒は叱っても、その生徒は許す、なにもいわず許す。

 特別待遇と名を変えた「差別」半年もすれば不登校か、何らかの犯罪の発覚にいたり、そのチャンスを逃さず退学させればよい。

 というものだった。

 その手段方法の是非や、その教師の倫理に関する話がこの稿の主旨ではないので、ここまでにするが、教師にあるまじき態度であるのは確かである。

 その人をいないことにしてしまうこと。

 誰にも認めてもらえない。

 おまえはここにいないのが当たり前なんだといわれるのが、攻撃者にとって一番辛い仕打ちなのではなかろうか。
 

 ただ攻撃者の言葉遣いを見てると、ある種のルールが存在していることに気付く。

 氏ね! 

 DQN

 ワロタ 
 
 逝ってよし
 
 アボーン

 名無しさん

 とう言葉遣いが非常に限定され、表現にバリエーションがない。

 関西弁のケンカ言葉、「喉から手え、突っ込んで奥歯ぁガタガタ言わしたろかあ!」とかの方が余程リズムが良いし、ペーソスがある表現だと思う。

 とにかく対象者を、もしくはサイトなりブログなりを潰そうとするならば、ありとあらゆる攻撃的な創作罵倒分を考え出して芸術性を高めていけば、絶対に文化として生き残っていけるはずである。

 

 …。


 中年の説教じみてきたので話を戻す。

 言葉は誤解されやすい、気持ちというものは瞬間、瞬間変化しているものだから、それを切り取って、「悲しい」とかに置き換えても、その悲しさには。その原因となるものによる悲しさなので、千差万別なのである。

 離婚で傷ついても、1度目と2度目では同じではないかと思われる。

 その哀しみは本人にしか捉えられないし、モラトリアム的に「悲しい」と使っているだけで、それに「胸がえぐられるように悲しい」というが、胸をえぐられた人は滅多にいないわけですし、他人には分からないのです。

 ただ個々に差はありさえすれ、「胸がえぐられる」と表現されると、他の人も共感できるから言葉として存在できるわけです。

 ここで「太宰治の単一表現について」に触れたいのですがそれはまた次の機会にしましょう。

 ちょい疲れた。
 

結婚と離婚と仕事とSEX Ⅶ  ダスティンホフマンには…13

2005年10月28日 21時58分03秒 | 結婚観
 その日、僕は朝から風邪気味でした。
 
 かといって鼻水が出たりクシャミをしたりするわけではなかったのです。

 全身が鉛のように重く、頭がズキズキ痛むといった風でした。

 これは熱が出るな…。


 経験上、僕はそう予感しました。


 でも仕事を休むわけにはいきません。

 僕は当時仕事を休むという頭がありませんでした。

 上司に皮肉を言われるのが嫌だったのは確かですが、自分がいない職場はあり得ないと思っていました。

 午後になって体が熱っぽくなってきたのは分かったのですが、体温計で熱を測ることはしませんでした。

 熱があるのを数字で示されると、気力で支えてる部分が崩れるような気がしていました。

 そして今日は1週間ぶりの彼女とのデートでした。

 負けるわけにはいかない!

 バカみたいに気合いが入っていました。

 頭痛薬(ナロンエース)を2時間おきに飲んで耐えました。

 上司は僕の体の状態を察するような人ではありませんでしたから、僕が不機嫌そうに仕事をしてると思って、僕を叱りました。

 それでも僕は謝って耐えて仕事をこなしました。

 その日飲んだ頭痛薬は合計6錠になりました。

 頭がホワンとしてきまして、少し目が回るような気分でしたが、何とか仕事を終えました。

 退社して薬局へ行き、風邪薬を買って飲み、栄養剤としてユンケル黄帝液を飲みました。

 仕事で疲れて飲むのは1,000円前後のものでしたが、その日は奮発して2,500円のものを買って飲みました。

 凄いですよ!2,500円のって

 飲んだ瞬間に全身から汗が出て、力とか炎みたいなものがしたからわき上がってくる感じになりました。

 よっしゃ!

 と気合いを入れ直して待ち合わせの場所に行きました。

 

阪神負けちゃったねえ 

2005年10月27日 23時27分07秒 | 日記
 全く良いところ無しでした。

 このところ静かだった巨人ファンやアンチ巨人ファンが、少し元気になって、

 あんなゲームしてセリーグの恥だ!


 とかほざいているが…。


 こちとらそんなセリフ18年間聞き続けてきて慣れとんじゃあ!

 と言い返したくなる。

 阪神っていう球団は「強きをくじき弱きをたすく」の精神でやってきた球団だから、相手がロッテと聞いただけで、気合いが入らなかったのではないだろうか。

 これがソフトバンクだったり、西武だったらもう少し違った展開になっていたんじゃないかなあ。

 なにせ31年ぶりなんて聞くと身につまされて、「よう来たな、ワレ、こてんぱんにいてこましたろやないかあ!」

 などとは間違っても言えない。

 5年前でいいや、だれが想像しましたか?

 この日本シリーズを。


 阪神とロッテだよ。

 ずーっとずーっと、弱くてアホな球団の代表みたいにいわれて、みんなに足蹴にされてきた球団だよ。

 溌剌としてたなあ、ロッテの選手達は
 

 まぶしかったなあ、ロッテの応援団は、ホント健気な人達だと思うよ。

 声と拍手だけの応援で、みんなで声揃えて、帰りにはゴミ拾って行くんでしょ。


 ある意味阪神とは両極にある応援団じゃなかろうか。

 選手や監督や他球団に最強を謳われながら、同時に全球団の中でサイテーなマナーで蔑まれることもある応援団ですからね。

 僕も何度か何でこんな人達と一緒に応援しなきゃいけないんだろうって思ったものなあ。


 でもさあ、今回の日本シリーズ最終戦は紳士だったねえ。

 千葉で酔っぱらって器物損壊で捕まったのがいたでしょ。これ以上は勘弁してくれって思ったけど、外野でロッテに対し「来年も甲子園に来てね。」っていうボード掲げていたし、ロッテ選手に拍手したし、結構通い合うものもあったのではと思いたいんだけどね。

ブログの寿命 閉鎖するブログ

2005年10月25日 00時20分00秒 | BLOG論
 gooのブロガーが30万を超えて40万に近づこうとしている。

 そして毎日のようにブログが誕生しつつけている。

 これらのブログの平均寿命は約1ヶ月なんだそうです。

 ブロガーの平均寿命

 それによれば平均寿命は38.5日だそうですよ。

 僕はブログの世界でも高齢者になっていたのかあ。トホホ。

 平均投稿間隔: 3.6日

 さらに三日坊主率: 47%

 さらにさらに60日を超えたブログは25%です。


 なんか僕は自信が出ちゃったような気になっているんですけどね。

 続いているブログの多くは日記という形式とは性質が違い、備忘録であったり、ツールの置き場だったりするようです。(あとでまとまった記事や小説にするためのデーターベースの役目を負っていると言う意味で)

 そういえば、カズさんのブログの映画観察のカテゴリーはカズさんの映画評の倉庫になっている一面をもっているといえますね。

 そうすると長く続く。

 考えてみれば自分もそうでしたね。

 ある目的に即した記事をあげていけば自分の思索の深まりとともに自分にとってディープな資料となること間違いなしなのではないかなと思う。

 だからホントの意味で、勉強していかないと書けないし、好きなものこそ勉強できてブログに残せるので、ブログの寿命としては長くなるのでしょうね。

 そうすると共感する人しか来ないので、穏やかなブロガー人生を送ることになる…かな?

 僕は近々仕事までの行き帰りに「富士山の写真」を掲載しようと思っている。無論撮影者は僕だし、場所も遠いのでろくな写真にはなるまいと思われる。

 でもやってみたいな。

 以前やっていた「今日のチェジウさん」よりはましでしょ。


 で、このところまた長寿のブロガーが店をたたむケースが増えてきている。

 原因は心ないコメントに対抗できないがために心やめてしまうケースである。

 この時期やめてしまうケースのもう一つの共通点としてブロガーのプライベートの扱いの甘さにも原因があるように感じている。


 自分の顔写真を公開している。

 自分を中心とした仲間関係について個人を特定できる情報を漏らしてしまうケース。

 独りよがりな意見を書きすぎたもの。

 旬な話題に挑んでアクセスが急増し、同時に招かざる客も招いたケース。

 色々ある。

 ブログ界がブロガーだけで構成されるなら良いのですけどね。

 たとえブロガーとしては蜻蛉のような命であっても、閲覧者としては生き残っている可能性は高いのではないかと思います。

 「ダメダメ教員」、「はあちゅう&さきっちょ」等が書籍化され、ブログの市民権が確立されつつある現在では、今までと全く違った環境が現出してるというしか無いのではないでしょうか。

 僕は以前この「ブログ論」の稿で、ブログはいわゆる2chのような、荒涼とした世界を作らないのではないかと書いたことがある。

 その予想は見事に外れた。

 僕の予想が外れたのは、ブログ界を行き来する人はすべてブロガーであるという前提に於いて成り立っていた。

 人によってはブログで自分を表現することは、自分の裸像を公道に立たせるほどの勇気を要する。

 つまりそれだけのリスクを負うことを承知でブログに手を出している人達であるといえる。

 ただし、自分のブログ界は当初、非常に小さい。

 村民は一人の公道で展覧会をするのに似ている。

 やがて少しずつ展覧会に来る人が増えてくる。

 だがそれも余程のことがないかぎり、爆発的に増えることはない。

 また増えたとしても、その訪問者が同じように近隣の村で展覧会を開いている人であれば、ある程度の価値観を共有し、それがやがてブロガーのマナーとして暗黙の諒解のもとにお互いが傷つけあうこと無しに村落共同体を形成していくのである。

 その意味で、ブロガーがブロガーを攻撃するのは余程のことになってからだと思っていた。


 ところが人が沢山あつまる人気ブログ、いわゆる都市部のブログでは、そうもいかない状態が訪れた。

 僕のブログの「沈黙の観衆」シリーズでは、ブログを、ただ黙って閲覧だけしている人を「沈黙の観衆」と命名し、その功罪について説いた。

 本来ブログを書かない人、もしくはかつて書いていたが今は書かない人達は、僕らのような表現者をどのように見ているのだろうか。

 嘲笑している。

 尊敬している。

 愉しんでいる。

 批判している。

 どれであってもおかしくない。


 ただし彼等は、その沈黙をもって、表現者への最低限のマナーを守っているとも言えなく無いだろうか。

 僕はそう思いたい。

 表現はそのまま、創造である。

 それは、すこしく才能であり、勇気であると思っても差し支えないかと思われる。

 
 攻撃者たちの表現には一様にして形式化されており、オリジナリティーに乏しい。

 
 そこには参加したことの安心感や、虫をさわって反射運動があったことを喜ぶ感覚が垣間見える。


 以前僕は他のブログのコメントとして、そういう攻撃者をキャベツにつく青虫に例えた。

 農薬たっぷりのあざといキャベツに虫は付かない。

 おいしいキャベツにだけつく。

 だから、虫をおいしさの裏返しとして、こまめに駆除してく、もしくはそういう精神で攻撃者に望むしか対処のしようがないのではないかと書いた。

 その後しばらく反応がよかったことを考えると共感者が少なからずいたということになるのではないか。

 ここはその意味ではかなり辺境のブログですから、プライベートビーチにでも着たつもりで遊んでいって下さい。  



 



ついついやってしまうことは何ですか。トラックバック練習版

2005年10月23日 17時43分45秒 | 人々
 綺麗ね女性がいると、ぼおーっと見てしまうことですかねえ。

 ほんと自分で気を付けてないといけないことなんですけどね。

 カミさんによく怒られます。


 僕は演劇をしてましたから、視線がはっきりとしていて、仲間や演出の方によく「君の視線は何処見てるかすぐ分かって良い」とか「目で演技してるよね」って言われたんです。

 だから意識して無くても、相手にとっては強い視線を向けられているようで、すぐに「あっ!あの人が私を見てる。」って分かっちゃうみたいなんですね。

 車ですれ違うだけで、対向車の人がこっち見たりしますからね。

 う~ん困ったモンだ


 でもそれはあんたが三白眼なだけですから~残念!


 やはり書いてて古さを感じるなあこのフレーズ。

夢バトン

2005年10月22日 00時32分56秒 | 妄想
 大学生のたつろくんから「夢バトン」なるものが回ってきました。

 たつろくんはゼミ繋がりで回ってきたと言ってます。ゼミは入っていなかったけど、こころなしゼミ繋がりしたくなって受けちゃいました。
  
 Q.小さい頃なりたかったものは何ですか?
 消防自動車の運転手。(たつろくんにちかいね。)

 消防士とは微妙に違った気がする。(火は怖い)

 その後は無線技師になりたかった時期がある。

 Q.願いは叶った?
 全然違う道。後悔はしてないけど。

 Q.現在の夢は?
 ブログ心理研究家になってブログに関するニュースの解説(NHKで)をすること。

 Q.宝くじが3億円当たったら?
 日本全国お祭り巡りシリーズに書いてますが、全国の有名どころのお祭りを全て特等席で見ることです。

 それから東静岡駅近くの高層マンションのペントハウスを買って、毎日富士山を眺めて暮らし、気が向いたら新幹線のグリーン車で東京に遊びに行く生活を送る。

 Q.あなたにとって夢のような世界とは?

 クエートかアラブ首長国連邦の王族の一人となり、50人くらいの女性からなる大奥(ハーレムではない)を形成すること。

 Q.昨晩見た夢は?

 最近夢を見なくなりましたな。昨日も見てるはずだけど想い出せない…。

 Q.この夢の話、聞いてみたいと思う人2人は?人数変えた)

 どなたか拾って下さいな。




3億円があったら… 日本全国お祭り巡り6

2005年10月20日 22時11分05秒 | 文化論
青森ねぶた殺人事件

文藝春秋

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 この稿は3億円あったら日本全国特等席で見たいお祭りを見ようっていう趣向で書いてます。トラックバック練習版のお題としては、とうの昔に過ぎ去っていますが勝手に書いています。

 8月に入りますね。

 いきなり青森、弘前でねぶたが始まりますね。

 行ってみたいですね。とかいいながら実は「ねぶた」のことって何にも知らないんですね。

 だいたい青森のねぶたと弘前のねぶたってどう違うんでしょう?

 地元の人にとっては凄く失礼な話なんですけれどもね。

 調べてみたら大きな違いがありました。

 かけ声も違うんですね。

 ってこれも失礼か。

 ねぶたの作りも立体的なのが青森で、平面的なのが弘前と言うことになっているらしい、何せ見たこと無いものだから…。

 で、今気になっているのが五所川原の立ちねぶたってもので、これは立体的と言うよりも、タワーだね。

 なにせビルの5階相当になるっていうんだから、ゆうに20メートルはあろうという代物、明治に一度滅びたものが、電線の地下埋設工事によって、復活させたってんだから、こういうのが政治だよっていいたいな。

 ワイドショーも暴走族が祭りの衣装を着た、カラスハネトばっかり取り上げてないで色んなねぶたの紹介をして欲しいものです。

 ちなみにカラスハネトとは

 カラスハネトの問題が社会問題となっている

カラスハネトとはねぶた祭りで傍若無人な振る舞いをする集団である。彼らは、ねぶた祭りの正式衣装ではなく黒装束の衣装でねぶたに参加していた。それがカラスのように見えると言うことでカラスハネトといわれるるようになった。

カラスハネトは昭和61年あたりからねぶた祭りに参加しはじめ、平成に入り暴走族などがグループの中心となり、悪質凶悪なものとなっていった。カラスハネトはマスコミなどで取り上げられ、それが逆効果となり逆に全国からカラスを呼び集めることとなった。

傷害事件にまで発生しもはや正常な祭りの運行は不可能という段階に来て青森市は平成8年にひとつの対策を打った。それがカラスハネトを一カ所にまとめてねぶたを運行するというものである。

しかしこの対策はカラスハネトを肯定することとなり、さらに大量のカラスハネトが全国から押し寄せ、逆にカラスを増長させるという結果になった。この危険な集団は平成12年には1万人にも増え、仲間同士の抗争、観客席への暴行と凶行がエスカレートし、もはや正常な祭りとは言えないような状況になった。

そこで平成13年。青森市は断腸の思いで、ねぶたの一斉スタート、一斉終了という作戦を導入した。結果、祭りとしては盛り下がったが、カラス対策には効果があった。また県迷惑行為等防止条例を設置し、事件にならなければ手が出せなかった警察も事件が起きる前に摘発、排除できるようにした。しかし特に以前の祭の盛り上がりを懐かしむ人の間ではこれに反対する声も根強い。

現在ではねぶた祭りの治安はかなりよくなっている。これも、市、警察、ボランティアの人々の努力のたまものである

 のようなものらしいです。

アフターファイブと化粧品売り場

2005年10月19日 23時11分56秒 | 人々
 今日は出張で静岡市に行きました。

 東名高速を使いたいのに今月は金欠病で、カミさんに「お金をちょうだい」って言ったら少し余分にくれて「お母さん(カミさんの実母)にケーキでも買ってきてよ。」と言われたため、専門店の目星がつかない僕はデパートに寄って帰った。

 静岡伊勢丹のケーキ売り場は地下1階。

 5時を回る頃にデパートに入った。

 デパートの1階正面は小さなブティックとカバンや靴などの小物類を売り場がデパートの真ん中を向いて並んでいる。

 そしてデパート1階の香りを代表するのが正面ど真ん中にある化粧品売り場だ。


 以前僕は静岡市内に住んでいたことがあって、そのころの趣味といえば市内を自転車で走り回ることだった。

 で、あるときデパートに5時半過ぎに入ってビックリしたことがある。

 デパートの化粧品売り場といえば、小さなカウンターに綺麗にお化粧した迫力のあるお姉さん達が立っていて、女性がお店に入って来ようものならドンドンアドバイスして化粧品一式買わせちゃうわよ!ってな勢いで待ちかまえている。

 それまで日曜日ぐらいしかデパートに入ったことのない僕にとっては、たまにB・A(ビューティアドバイザー)と話している人がいると勝手ながら「いっぱい買っちゃうんだろうなあ~」と同情していました。

 でもその日は違っていました。売り場には明らかにOLさん達とは違うファッションセンスのお姉さん達が、B・Aさん達と五分に渡り合っていました。

 彼女たちはおそらく夜の歓楽街(静岡では両替町)で働くべく、戦闘準備を整えているのでしょう。

 なんだかとっても感動してしまった経験を持っています。

 夕方近くの伊勢丹のコスメティックを通り過ぎながらそんなことを思い出しました。

 僕は街を見るのが好きです。時間によっては凄くファッショナブルなんだけど、別の時間には全く違う表情を見せる街が好きです。

 人間も同じで、あくせく働きながら一瞬の輝きが見える人や輝いていても、とても人間くさい部分を見つけたりするのが好きです。

 おまえはどうなんだ?

 と言われれば、僕もあくせく働く一人です。

 でも今日のように出張の終わった後だったり散歩代わりに自転車で遊んでいるときなどにそういう光景にぶつかったり発見できたりするととても嬉しくなったりします。

 僕の友人というか後輩にあたる人なのですが、その人は作家になりたくて、人間が好きで、女性が好きで、女性の生き様を勉強したくて、東京渋谷の道玄坂にあるOS劇場(ストリップ)に取材と称して楽屋に入り込み随分踊り子さん達と仲良くなった人がいます。

 僕はそこまではとても出来ませんので、遠くから眺めているだけですが(ストリップじゃありませんよ)人間や誰しもがもっている格好いい部分と生活感を垣間見るのが好きなのに変わりはないと思っています。