「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

大原美術館2

2007年11月20日 22時48分21秒 | 紀行
 大原美術館いって、そのことを母に話したら、私も行ったことがあるといってたんですね。母は歯科医に勤めていたんですが、社員旅行で主な観光地は連れて行ってもらってますから、その類だろうなと思ってたんです。当時の歯医者さんって今と違って町に歯医者なんて2軒ぐらいしかなくて随分と大名商売でとおっていましたね。今じゃそうはいかないでしょ。過剰気味で営業時間も長くなったし、土曜日曜もやるところがあるし、大変だなって思います。
 で、ウチの母も従業員としては大変だったようで、よく怒られていましたし、半分家政婦扱いで家の掃除だとかさせられてましたので、ぶつぶつ言ってました。当時は僕も同情してましたが、8時半に出勤で、昼休みが2時間あって、5時半には仕事が上がれて、固定給とボーナスと土日の休みがあるって、結構良い職場だと思うんですよ。それに加えて半年か1年に一度の社員旅行があって、タダで、全く積み立てなしで連れて行ってもらえるでしょ。今じゃあまり聞かない待遇ですよね。
 そういうイメージで考えてましたから、今度もそうかと思ったんですね。でも母の返事は違っていました。
 ”修学旅行で行ったんだよ、中学?いや小笠農校の時だったよ。”ですって。だから少しばかり不意をつかれた感じで、18歳の母があの建物の玄関にセーラー服を着て友達と中に入っていく姿が思い浮かびました。僕の生まれる2年前の、今から五十年ぐらい前のことなんですけどね。昭和三十三年のころかと思います。そのころから「モネの睡蓮」や「受胎告知」の絵があって、当時十八歳の母と、今、四十七歳の僕が時を超えて同じ場所に立ち、同じように「へえ~」とか言ってると考えると不思議で面白い感じがしますね。うまくいえませんが、全くひょんなところで若い母と出会ったしまった感じがします。

おーはら、おーはら、大原美術館

2007年11月18日 17時40分57秒 | 紀行

倉敷行ったら大原美術館は外せないでしょ。でもまあ町の美術館と違って、観光地のど真ん中にある美術館ですから、多少客層に差異を感じましたね。なんて言ったらいいか分からないけれども、いわゆるツアーのコースに組み込まれてしまっていて、本人はそれほど興味があったわけではないし、自分には絵画を、どうにか鑑賞しうるだけの鑑賞眼はないと信じているし、尚かつバスの中で多少ともお酒が入っているしと言うような人たちは残念ながら、団体という多勢に無勢を殊更強調するために、多少大きな声で”こういうのはおいらにゃわかんねえや!!”と場にそぐわないかもしれないというコンプレックスを強引に否定なさるようなことはしなくて良いから、静かにして欲しいのでありますね。

 

 そういうときは500円追加するとしゃべる羊羹みたいなのをかしてくれますから、そいつで絵の説明を聞いていきましょう。結構親切な説明だし、エピソードなんかも紹介してくれますよ。
 下世話ついでに絵のお値段なんかも教えてくれたら、みんな借りるんじゃないかなと思ったりしますが、大原美術館自体が奇跡的な産物なのだから、ここに所蔵されてるという事だけで、もう値段の問題では無いのかもしれませんけれどね。

 でもまあ、今はもうこういう事をする日本人もいなくなってしまったし、大原孫三郎にしても児島虎次郎にしても明治の日本人じゃなきゃしえなかったことでしょ。だからそういう気概というか、明治の日本人像を具体的に知ってもらうためにも、当時の物価換算で値段を教えてくれたらいいなと思いました。

倉敷美観地区

2007年11月15日 22時48分10秒 | 紀行


 岡山城を出たのは午前10時前だったと思います。市電で駅まで帰り、電車にのって行きました。岡山からそんなにかからないんですね、倉敷って。途中、岡山理科大とか川崎医科大学とか倉敷マスカットスタジアムとかを田園風景の向こう側に見ながら、電車はのどかに走っていきます。僕は地図感覚に鈍い男で、要するに方向音痴なんですが、駅のどちら側にいわゆる倉敷が展開するのか知らなくて、倉敷駅に着くと「倉敷チボリ公園」の方に出ようとしてました。反対側に行かなくちゃいけません。駅を降りたらすぐに倉敷美観地区に入るのかと思ったら大間違いで、そこから500mぐらい先だって書いてありました。

 500mってすごく微妙な距離で、すぐのような気もするし朝から歩き回って、かなり足にきているおじさんにとってはかなりきついきょりだったりします。でもバスは適当なのが無かったし、タクシーは高くつきそうなので、やはり歩いていくことにしました。

 目的地までの距離感がつかめないまま歩くのってしんどいのですが実際は”あれ?”ってな感じですぐについちゃいますね。皆さん歩いてますし、誰かと一緒におしゃべりしてたらすぐに着きそうな距離です。

 

 美観地区の入り口付近ですね。

 予想通りの展開でした。

 いや、嫌いじゃないんですよ、こういうの。

 と言うよりこうでなくちゃいけないと思いました。

 今回の出張に出てくる際に、僕は義理の母からお小遣いをもらっているんですね。ちょうど義母が泊まりに来ていて、そうなるかなって思ったらそうなってしまったので、どうしても多少値の張る、おしゃれなおみやげを買わなくちゃいけないんですね。
 まあ半返しといったところで納めなくちゃいけません。
 
 結構気を使うでしょ。大変なんだ婿だって。

 で、こういうお店が一つもないとこっちとしても困るわけで、それなりにありきたりのお土産と言うよりも、少しだけ専門店っぽくなってるのが良いんだけどな。何せ1万円ですから。5千円に限りなく近くて決して安っぽくなく尚かつ倉敷色が出てるものって言うのは…難しいでしょ!これ。

 で、トンボ玉とビーズのネックレスなんか良いかなって思ったんですけど、壊れ物は避けた方がいいし、かなり趣味が反映されるから怖いなと思うわけですよ。
 僕のセンスに関しての評価は悪くないんですが、それは廉価で良いものを、と言うよりもそれなりに値段をかけて間違いのないところを選んでいるからであってセンスの問題じゃないところで勝負してるんですね。

 まあこんな事を力説しても始まらないんですけど。

 で、結局ですね。吉備団子とかは買わずに、そういうのを求めてあっちに行ったりこっちに入ったりで散策なんて言うもんじゃありませんでしたね。

 まあどのみち観光客でごった返しているまでは行かなくても、悠長に歩く雰囲気じゃありませんでした。

 ここにくるのなら、明るい朝でお店が開いて無くて観光バスがまだ着かない時間帯にくるべきなんでしょうね。誰もいない道を手をつないで歩いてみたいな、カミさんじゃ無い人と。
 夜なら良いだろうって思うのですが、夜間照明でライトアップしてるみたいだし、泊まるところも多いみたいだから、混むんじゃないかと思います。


 え?何買ったの?

 倉敷ですからね。

 倉にちなんで、酒蔵で使われている発酵したお米を濾すときに使う布で作った小物入れバックにしました。渋い茶色なんですが、味がありますよ。

 喜んでもらえたし。

 実は出かける2,3日前にカミさんに、ママもう少しましなバッグ持ってないのお?買いなさいよ。とかいわれてたのを覚えてたんですね。

 聞き逃してないでしょ。偉いともうよ自分でも。

 話は変わりますが倉敷美観地区は少しだけ路地にはいると、とても静かになるから、そういうところにわざと入り込むのも良いかもしれません。

 
 

岡山城

2007年11月13日 22時57分55秒 | 紀行


 城好きの僕としては外せない箇所でしたね。隣に日本三大名園の後楽園がありながら、そちらには目もくれずにコンクリート再建のお城に行ってしまいました。「烏城(うじょう)」とも呼ばれる岡山城は不等辺五角形の変わった形状のお城ですよ。最も僕らのお城の基本は姫路城とか名古屋城にあるわけで、それが基本となりうるかって言うとそうでも無いんですけどね。
 岡山城はかの安土城に近い形だともいわれているそうで、公園の正面から見ると一層二層がのっぺりして見えますが、違う角度でみると結構かっこいいのです。

 岡山駅から桃太郎市電にのって二駅目の城下で下車しました。100円でしたね。ホッとする料金です。そこから川沿いに出て歩いて行かなくちゃいけません。
この川沿いの道が良いですね。

 僕はこの川の風景がとても気に入ってしまって、しばらくたたずんでいましたね。


 お城もこの角度でみると結構繊細な感じがして良いでしょ。鉄橋が見えますが、それは岡山城から後楽園への渡り廊下みたいなものになっていますね。









 お城の御門のすぐ手前にある私邸の玄関先です。お着物を召したご婦人が車から降りてきて瀟洒なお庭の松を剪定なさっている親方に声を掛けていらっしゃいました。
 この土手沿いの道はNHK連続テレビ小説「あぐり」の撮影現場になったそうですが、そういった時代の雰囲気を少しだけ嗅ぐことができたような気がしてとてもうれしかったですね。

 

 朝日に映える岡山城でございます。



 秋に行ったという証拠も見せておかねばいけませんね。

 

「赤穂浪士」なんかだと浅野内匠頭の異変をいち早く知らせる武士役の人が袴を高腿に引き上げて全速力で駆け上がっていくシーンなんかでみたような気がします。

  

 城内に入ってきました。従業員のおばさまたちがモップで丁寧にお掃除されていましたよ。昭和四〇年に鉄筋コンクリートで再建されたお城ですから、中身に期待はしてませんでした。昭和三十年代から五十年代に掛けてのお城の再建は観光を狙って博物館を兼ねた作りになっていますが、歴史ブームがかなりマニアックになってくるとともに、お城にも本物志向があるようで、あんまり鉄筋再建のお城には人気が出ていませんね。でもこのお城のメインテナンスの仕方は結構気に入っていまして、岡山県人の律儀さとか誠実さみたいなものが出てるようで好感が持てましたね。

 備中と岡山の城主と言えば宇喜多直家でありまして、お家再興のために謀略の限りを尽くして、主家の乗っ取り、毒殺、だまし討ち、で一国の主にのし上がった人なんですよ。およそ今の岡山県人のイメージとはかけ離れていますね。むしろその息子さんで豊臣秀吉に愛され、関ヶ原の戦いで最も激しく、純粋に闘った宇喜多秀家の方に岡山人をみたいような気がしてますね。 


 

東京紀行2 年の瀬の準備 湯島天神

2006年12月29日 00時38分24秒 | 紀行

 湯島天神は学問の神様である菅原道真公を祀っておりますね。菅原道真公は政権争いに巻き込まれる形で太宰府に左遷された人なんですね。
 で、ついに京都に戻ることなしに太宰府で亡くなってしまう。随分と恨んだでしょうね。という考え方が京都の人達の察する心情でした。だって京都以外の土地って太宰府なんぞネバーランドぐらいに想像の地でしかなかったでしょうからね。
 で、道真公が亡くなったその年は結構異常気象が続いたんで、これは道真公が祟っているんじゃないかってな話になってしまうんですね。
 そういうのって日本人というのはとても苦手なんですね。闇を極端に嫌う傾向がある。森の中とか避ける傾向がありますよね。光と闇のコントラストが錯綜する自然を持っているせいでしょうかね。
 まあとにかくそうすると日本人はどうしちゃうかっていると、道真公を神様にしてみんなでお祀りしますから大人しくしてくださいってなだめようとしちゃうんですね。
 日本人の神様感覚は西洋の神様の思いとは全然違っていますよね。西洋だと唯一絶対神が一人いて、その神様が何でもしちゃって、信徒は神様に近づけるように知恵と勇気を与えるかわりに、服従を強いるでしょ。
 日本の場合は神様が八百万(やおろず)の神と言って何にでも神様がいるわけでしょ。
 そうすると木にも水にもテレビにもいるわけだから、これは神様というより精霊に近い存在なのかもしれませんね。
 だから人間が神様になっても全然構わないわけで、このあたりは他の宗教とは全く違って寛容性がとてつもない広さを持っているわけです。
 だから人間を神様にしても全く気にする必要がない。。
 
 で、恐くて強い人には神性を感じてしまうんですね。それがたとえ国家という社会では悪者でもね。

 で道真公はぜんぜん悪くないですし、しかも学問の家柄だったものだから学問の神様にされてしまったんでしょうね。
 まあそれで名を千年に残したんだから大したものだと思いますよ。
 湯島の門をくぐるとテキ屋さんというか屋台の人達が準備してますね。本殿もまわりも工事の人達が入って、初詣に備えていますね。
 

 

 巫女さん達も忙しそうにお神籤を補充してました。



 絵馬には沢山の人達の願い事が書いてるんですが、正月を前に撤去されて絵馬掛けはすっきりしてしまいます。 

 裏に回ってみるとそれなりに工事していて邪魔しちゃう感じなんで早々に引き上げたんですが、この界隈はあいかわずラブホテルの多い地域で拝んで少し目線をあげると

 

 こういう景色が目に入ってしまう。

 他の国じゃまず考えられないことでしょうね。都市の景観美という点に置いては。

 

東京紀行2 聖橋から

2006年12月27日 23時58分38秒 | 紀行
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 この東京紀行を書くのも2度目になりますね。昨日5時30分に東京スターホテルのロビーで待ち合わせをして、直ぐ近くの居酒屋さんで大学時代の友人達と呑んでましたよ。この時期の恒例行事なんです。今年はなんだかんだで夏に福島、秋に京都、冬にLAと移動が多かったせいもあってカミさんと娘さんにやっかまれてますね。パパはお出かけばっかししてるって言われます。

 でもこれは年中行事の一つですからご勘弁を。


 しっかし凄い雨でしたね。ジーパンもスニーカーもジュコジュコいってましたよ。
 呑んでる最中にニューズZEROが始まりまして、七尾藍佳さんが新宿駅の東口にいるって分かったときは少し興奮しましたね。

 でもまあ呑んでましたけど。

 で、今朝は全くの自由行動。といっても僕はいつも同じ行動をしてます。それはお茶の水で降りて湯島天神に行き、嬬恋神社によって神田明神に参拝するコース。これを毎年欠かさずしてるんですね。
だから紀行って言ってもちっとも変わり映えしませんからそこのところを割り引いて読んでください。

 で、昨日の雨の余韻があって朝からスニーカーにドライヤーをあてて乾かしていました。

 9時近かったかな、いやあ普通はもっと早い時間なんですけどホテルを出て御茶ノ水駅まで向かいますよ。


 御茶ノ水駅には「聖橋」があります。

 僕はこの橋の上からの東京が結構好きです。

 東京って都市景観からすれば程度低いじゃないですか。ヨーロッパでもそうですし、この前、空見たロサンジェルスの景観でさえも日本よりは格段に秩序だっていると思うのですよ。高層ビルがあるのはダウンタウンの地域だけで、他はなるべく平屋で建てるようにしている、そういう意図が都市の秩序美として成立してるのがヨーロッパの街並みだと思うし、その点では日本は及びもつかない。
 だから住むところじゃなくなってしまっている。

 大学教授や知的職業で成功した人達が最後に家を求めるのは「鎌倉」でしょ。あそこは変わらないもの。変化がなくてある厳然とした秩序を保っている町の一つだと思うのです。変わらないってのは秩序には欠かせない要素であって、言い換えれば街が停頓しなくちゃいけなくて、それは便利さを犠牲にする場合もあったかともう。

 この改札を抜けて左手に折れれば直ぐに渡ることが出来ます。そうすると新宿から来た僕にとって何より嬉しいのは、空が広くなるってことですね。



今日はここまで

乾燥大陸アメリカ

2006年12月07日 03時52分54秒 | 紀行

 アメリカはとにかく乾燥している。飛行機の席が窓際だったので、ロスアンゼルス空港に着陸する少し前から陸地の上を飛んでいた。これがアメリカなんだとえらく感動した。とにかく放っておくしかないような圧倒的な乾燥大陸なのが西海岸なのだと思った。草木のまったく生えない。もしくは土ぼこりまるけの潅木が生えるだけの山。日本の国土の25倍もありながら人口は日本の3倍もない。
 土地に価値を見出す日本的感覚は生まれないんだろうなと思う。少なくとも山林地主みたいなものはありえないとしか言いようがない。
 山襞を縫うようにして水のない川が流れている。そういったところに思い出したように町や農地が見える。
 この国では土地が農地であるかなしは大きな問題なのだろうと思う。戦争映画で、老兵や戦争に倦んだ兵士が、「この戦争が終わったら農業をやろうと思う。カルフォルニヤに畑が50エーカーほどあるんだ。」などいうせりふを聞くことがある、そういう兵士は退役直前で死んでしまうのが映画のの中のドラマだったりするんだけど。
 土地があるだけじゃ意味がなくて、そこにちゃんと灌漑施設があって恒常的に水が確保できて初めて土地としての価値が生まれるんだという感覚は僕ら日本人にはなかなか捉えにくい感覚なのではないかと思う。
 サンディエゴ郊外のオーシャンサイドというヨットハーバーに行ったときに僕はホテルの少なさを疑問に思い聞いたところ、現地コーディネーターがいうのは、「この辺りは、このての海岸が果てしなく続くので、どこをを拠点にしたらいいのかわからないんだろうと思います。」とのことでした。

 恐れ入りました。

僕が見た京都1  東寺

2006年11月20日 00時21分22秒 | 紀行


 金曜日に京都に行ってきました。

 でもまあ仕事ですから11時40分に京都駅について4時30分京都駅発の新幹線で家路につきましたから、5時間にも満たない滞在でした。

 でもまあ京都ってところは駅のプラットホームから階段で一つ下の階へ降りるとそこはもう京都なんですな。

 なんでそう思うのか説明しようがないんですけど、そう思っちゃうんですね。これが名古屋だとプラットホームからして名古屋なんですね。その点静岡はね改札口抜けて地下道に入ると静岡なんですね。これも説明になってないんですけどね。

 京都駅のプラットホームから下に降りると修学旅行の中学生が300人ほど体育座りをしてましたね、そういうグループが三校分ぐらいいましてね。同じ中学校なのに学校によって随分雰囲気が違うんですな。いわゆる制服の着こなしなんですけどで随分と雰囲気に差が出るようで、京都に来て楽しんでる様子はやっぱり着こなしにも気を遣っている学校の方が良い感じなのかと思います。個々じゃどうだか分かりませんが、全体の印象としてでの話です。

 そういう学生さん達を掻き分けるようにして八条口から京都駅に南に出ましたよ。この改札だけがJR東海の管轄下にあるようで意外と不便な場合もあります。

 で、東寺まで行ったんですけど、こちとら田舎者で地理不案内ですからバスか電車で行くことにしたんです。ホントは歩いて一五分ぐらいなんでしょうけどね。
 以前、タクシーを頼んだら乗車拒否された覚えがあるんです。
 で、結局近鉄電車に乗って行きました。普通も準急も止まる「東寺駅」ですから間違いないだろうと思ったのです。

 僕は電車のホームから出ると方向音痴になる傾向があります。ですから今回も電車の中から自分の全身をレーダーかソナーにしてるつもりで慎重に事を運びましたが特に間違いなく済みました。というより駅から東寺の五重の塔見えてましたから全く心配する必要もなかったのです。

 駅から真っ直ぐ電車の進行方向右に曲がっていけば直ぐに着きますね。電車料金は一五〇円ですから、タクシー乗るよりはずっと得ですね。それから「東寺駅」は京都駅から一駅目だということで降りるときやや恥ずかしい思いをするかと思ったのですが、これも全然心配いりませんね。結構多いですよ一駅目で降りる人。

 五重塔の見えた方向に歩いていくと白くて斜めに塗られた塀が見えてきます。東寺の寺域に入ることが出来ます。有料になっている宝物殿や五重塔に用がなければ、寺内を散策するだけでも気分が良いのではないかと思う。
 僕が境内に入ると、何処からか笛の音が聞こえてきます、なんだろうと思って音の方向に耳を曲げると、篠笛を練習しておられる方がいらっしゃいました。
 

 京都だなあと思いました。

 最高に歓迎されているような気分で境内を歩きました。

 ただそれだけなんですけどね。
 
 東寺界隈はそれほど観光客はいなくて静かなものですよ。

 あんまり人気がないのはどうしてでしょうかね。

 東寺って感じが結構重くありませんか。

 あの五重塔を見ると自分の重心が下がるような気がしてならないんですね。世界遺産になっているそうですが、まあそれに相応しい重厚感は持ってるわけですね。他の寺っていうのはそこまでの戦闘意識は持ち合わせていないに違いない。京都の平地に立ってる立ってる寺って何でこうも城塞的なんだろうとおもったことのある人ありませんかね。
 そういえば真言宗のお寺は時代に浄土真宗の本願寺みたいに反骨精神を持ってたことあるのかな。弘法大師さんはそういう人ではなかったはずだし官立の寺ですから、今で言うところの筑波大学みたいなものでしょ。寺の精神自体には戦闘意欲はより少ないと見た方が良いかもしれない。
 まあ京都という戦災の激しい街では戦闘的と言うより防御姿勢の表れと言った方が良いかもしれません。
 で、名前が「東寺」っていうことは「西寺」ってのもあっていいわけで、実際にあったんだけれど、今は無いそうですね。もしあったら京都の景観ももう少し変わるでしょうね。何ていうか京都自身のバランスが南の方に傾いているかもしれませんね。

夏草や強者どもが… 横須賀城を訪ねて

2006年08月02日 22時31分03秒 | 紀行
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 横須賀城址に行って参りました。
 
 というより愛宕下羊羹が欲しくて、店を探そうと出かけたのですがお店が休みでした。

 ついでと言うことで横須賀城址寄ってみたわけです。

 城址公園の駐車場に行くと掛川市の森林管理課のトラックが停まっており、近くでおじさん達がお昼の弁当をつかっていました。

 言い回しが古いねどうも、弁当を使うなんて言い方は今はしませんね。僕も歴史小説で知った表現です。

 で、おじさん達はどうやら草刈りにきているようです。

 僕はその間を通り抜ける気になれず、北の丸方面を目指して歩いて行きました。

 

 大きな広場にでました。

 このお城は分類から言うと平山城なので高低差は殆どありません。

 このお城から東北東に位置するところに堅城「高天神」があります。

 ここに築城したのは高天神に備えるためだと言われています。指示したのは徳川家康、その家康を怖れさせたのは甲斐の武田家でした。

 今川家を離れた時から、そしてその今川家が実質的に滅んだときから家康は常に武田家の脅威と闘ってきました。

 織田信長との同盟関係が戦国史上最も長く続いた同盟関係であったことを家康の律儀と称える向きがありますが現実的にみれば織田との同盟を切ることは武田の参加に入ることですが三河、遠州をそのまま領有させてくれるとは思えず、何らかの形で取り上げられ何事かの難癖をつけて排除されると考えたのではないでしょうか。

 その後何をしても武田の思惑通りに動いているような錯覚にとらわれるような恐怖感に苛まれながら家康は長篠の戦い以後も慎重に慎重を重ねつつ腫れ物を触るように武田家の自壊を待ったのです。

 高天神は武田家が遠州に打ち込んだ橋頭堡です。高天神が武田側にある以上、徳川家は喉元に刃物を突きつけられているようなもので、状況が一変すれば地元の豪族達はオセロゲームのように一気に武田になびく可能性だってあるのです。

 高天神を攻略しようとしたとき家康は城の周りに蟻のはい出る隙間のない程厳重に包囲したと言います。

 そして本陣を含む8つの砦(とりで)を築き、更に自分たちの砦の外側にも備えたと言います。
 武田勝頼の来襲に備えたんでしょうね。
 そして自分自身は最も西よりの最も険峻な小笠山に本陣を構えます。そしてこの砦だけが小笠山山塊の尾根づたいに横須賀城の裏手にでることができます。

 

 横須賀城は今でこそ海岸線から2キロほど内陸にありますが、築城当時は海に面した港を備えた城でした。

 

 城址公園にあった立体模型をみるとそうなっているでしょ。

 江戸時代の大地震の地殻変動で一気に海岸線が引いてしまったそうです。

 恐るべし地球の力!

 

 家康は万が一武田本隊が救援にきて、万が一負けてしまった場合、遠州は武田に塗り替えられるから浜松城は放棄し、横須賀城の港から舟で脱出し一気に岡崎まで逃げ帰るつもりだったのではないでしょうか。

 この城が平山城であるせいもあるでしょうが、僕にはどうにも戦闘的な城には見えないのです。

 

 むしろ使い勝手の良さを強調した機能性を感じてならないのです。

 山国武田家の唯一の弱点と言っていい水軍の非充実度をもって脱出の手段としたとしてもあながち間違いとは言えないと思うのですがどうでしょう。

 本丸跡からやや急な階段を下りると先ほどの駐車場に出ました。

 木陰のベンチの周りには夏草がベンチの足を隠すほどに伸びてとても行こうと行った風情ではありません。

 これから城下町の夏祭りがあるのでしょうか。花火が上がるのにベンチが使えないのはいかにも寂しいことでしょうから、急ピッチで整備が行われることでしょう。

 夢多き強者はいなくなりましたが、浴衣を着た善男善女の語り合う姿は見られそうですし住宅団地になりそうだったところを史跡として残そうと立ち上がった人々も、そういう風景を望んだと思うのです。

 人気のない城址から遠い目をしたおじさんがいても結構絵になる城、そういう優しさをもっているのが横須賀城の、もしくは横須賀という街自体の良さなのかもしれないと思い城を後にしました。
 

 

三度目のドギーパーク1

2006年06月05日 22時50分30秒 | 紀行
 で昨日は東名にのって何処へ行ったかというとドギーパークへ行ってきたんですね。

 これで3度目です。

 僕は出発が遅くなったので淡島マリンパークに行くつもりだったんです。

で、沼津で降りようとしたら母娘が「え?」とか声揃えて言ってるものですから、「おいおい山梨まで行くの?」てな感じで言うと「だって早起きしたモン」だって。早起きしたって出かけるのが遅きゃ一緒じゃんっていう理屈はこの二人には通じませんよ。

 で、来ました。


です。

この日は



でコーギーを連れて入ると無料らしく、園内はコーギーで溢れておりました。

 

 でも娘さんはコーギーなんかに目もくれず、レンタル犬のコーナーへ行き早速柴犬を撫でておりました。



 でも彼女は知っています。

 彼等柴犬は、ゲージに近づくと「撫でて!撫でて!」と言わんばかりに背中をゲージにくっつけてきます。そうするとお散歩に連れだしてくれるかもしれないことを経験で知っているんですね。

 しかし僕らは知っています。

 柴犬はゲージの外に出たら僕ら一元のお客さんなんか全然相手にせずに我が物顔でお散歩に出かけていくのを。

 柴犬は忠誠心の強い犬です、でもそれだけ上下関係を見ます。相手が自分より下だと見れば全く言うことを聞きません。

 中型犬でありながら子供が引き綱をもてないようにしているのは、そのためだと思われます。

 で、娘の目的は前回もお世話になったハスキー犬の「レガシイ」君。

 彼は飼うのが難しいとされるハスキー犬でありながら、とても良い子なんです。

 で、レンタルしようと順番待ちしたら、お散歩から帰ってきたばかりで休憩にはいるそうで予約しましたよ。ですから1時間ほど空きが出来てしまいました。

 ということでふれあいコーナーに行きましたよ。



で、ここでも大型犬のコーナーに入っていきましたよ。

 君は世間一般の小学生が好むポメラニアンとかコーギーとかチワワとかの可愛い系じゃなくてハスキーとか秋田犬とかの狼家系の大型犬種が好きらしいね。

 で、お時間までひたすら撫でておりました。だんだん慣れてきたらしく、撫で方も堂に入った様子でハスキー君は気持ちよくて寝てしまいました。

 さあ時間だ!

 レガシイが待ってるよ