「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

スヌーピーのカレンダー

2005年01月31日 22時22分23秒 | 人々
 スヌーピーが好きだ。このおっさん何を言い出すねん。と言われそうだがこればっかりはしょうがない。でも別にコレクターというわけではない。僕は絵を描くのが好きな子供だった。幼稚園のときから小学校5年まで、絵日記を付けていた。そうか僕はその当時からブロガーだったんだ。「絵が上手になりたい。」という気持ちは常にあったわけで、小学校3年ぐらいの時に水森亜土さん(また随分古い人だね)の絵を真似して描いていた覚えがある。尤も記憶の中の映像は横顔ばっかりだけどね。そこからスヌーピーのピーナッツファミリーに行くのにそう時間はかからなかった気がする。小学校6年か、中一のときにはピーナッツブックを読んでいた。英語の本を読んでいるという高級感と妙に紙質の悪いアメリカンコミックタイルがうれしくて結構集めた。母親もこの漫画には文句を言わなかった。そういえば漫画を読むのはいけない事だった。
集めたのは表題に「スヌーピーの…」とついてるものばかり、別にスヌーピーが特集になっているんじゃなかったけど、そういうタイトルだけを集めた。今、僕は小学校3年の娘に自慢げにチャーリーブラウンの絵を描いてあげている。続きは次回。水森亜土さんのHPhttp://www.character.co.jp/ado/ado01.html

七尾藍佳さんに敬意を込めて 祝100ブログ達成記念 

2005年01月30日 22時51分52秒 | 人々
 張り切って書いていたらいつの間にかブログ件数が100になりました。11月の14日から初めて2ヵ月半で100ブログはいいペースだと思う。質はともかく「ハゲてたまるか!」シリーズが始まって、話題がシリーズ化してゆく傾向がありますな。とにかく3日坊主の僕が此処まで継続できたのは、これが単なる日記ではなくてブログであったということで、読者という人とのつながりを感じながら書くことができる点だと実感している。しかも瀬川さんをはじめtubrabellsさんDrunkcat君SETUさん?のあったかいコメントをいただけたことが大きな勇気となっていることはまちがいない。改めて感謝したい。
 で、最終回か、小説のあとがきのようになっているがぜんぜんそんなことはなくて、マラソンの野口選手のように抜いて行くつもりですから、今後ともよろしく。今日はブログという存在を認識したきっかけとなったFM東京「6センス」パーソナリティ七尾藍佳さんの感謝の意を込めて画像を掲示したいと思う。それというのもアドバンスの検索ワード(僕のブログを見つけたきっかけとなった語句)のランキングで多かったのが「七尾藍佳」だったんです。七尾さんありがとうございます。あなたは女神だ!
 で、彼女の所属するFMBIRDのホームページを久しぶりに開いてみると、写真が変わっている。以前と違う。以前は女子アナ名鑑用の左斜め上からの映像だったのに対し、今回は角度がやや下がり、しかも上半身全体が写っている。垢抜けてきたかあ?と成長振りを伺わせる。しかも前のバージョンでは壊れていたプロフィールが再生できる状態になっている!http://www.fmbird.com/profile/index.htmlで確認してください。
 彼女のファンであることには間違いないけど、何の因果か彼女のブログの話題には、僕のような人間だと入り込めない領域があり、無理してコメントすると墓穴を掘ることになる。でも無理したいんだなこれが。あたまの良い女性が好きなのかな?持ってる文化(興味)の領域が違いすぎる。世界を股にかけるという言葉があるが、彼女の好奇心と感性にもボーダーはなく、国家、民族、地域、社会のフィルターを通して見ることのできない僕とは、その目の透明感において決定的な差があると感じ、彼女はわずかな光源を見逃すことはないという印象を僕は持っている。
100ブログ達成の記念の話題にふさわしい人である。

画像の威力 チェジウさんに感謝。

2005年01月30日 12時23分16秒 | 人々
 このブログのアクセス数が1日20件位から1日100件になったのは、チェジウさんの画像をあげてからだ。画像といっても自分の家に貼ってあるカレンダーを携帯で写しただけなのだから、たいしたものではない。連続して4枚貼った。でもそれ以降チェジウさんは登場していない。アクセス数が一気に激減するかと思われたがそうでもない。しかし「一度読めば僕の文章の魅力に取り付かれるのさ」などとは間違っても言えない。(←言ってるじゃねえか)。なんでだろ~。(古いね)と思っているのだが、ひょっとするとまだ画像期待があるのではないかということ。これはやばい。なんとかしなくちゃ。で、画像を上げたわけじゃないんです。画像の期待に応えることの保障はできません。ってのが正直なところ。チェジウさん追っかけサイトではなく、人間と魅力のある人を取り上げて行きたい。そう思ったら上げていくだけですので誰がどうと言うことはないのです。ただ、多くの人につながって行く機会をチェジウさんが与えてくれたことには正直に感謝したいと思っている。で、チャン・ツィイさんの画像にどんな意味があるのかというとさして意味はなく、色っぽいなーと思ってあげてしまっただけなのです。寝ぼけてます。

本間武夫の版画

2005年01月30日 11時50分40秒 | 人々
 そんなに高い絵じゃないです。A3サイズぐらいで額に入って3万9千円くらいですから。この絵と出会ったのは戸田書店でのギャラリーだったかと思います。そのときは「へえ~」くらいの印象しかなかったんですが、2回目のときは衝撃的でした。なんせ北海道旅行して満喫して千歳空港で見ちゃったんですから。搭乗まで時間があったんで空港内をブラブラしてたときに、3階のギャラリーに飾ってありました。よっぽど買っちまおうと思ったんです。ないわけじゃなかったですから。でもカミサンの顔がちらついてだめでした。いや、怒られるんじゃなくて、むしろ逆でそういうものはどんどん買いなさいって言う人ですから、いいんですけど。そういわれると逆に自分でりリミッターを付けてしまうんですね。「これは一生モンか?」っていう慎重さが出てきてしまう。結局優柔不断なだけですけどね。http://www.hangahokkaido.com/honma.htmlにいっぱいありますからごらんになってください。北海道に行ったことがある人なら分かると思います。この版画もやっぱり風を感じられる絵なんじゃないかと思っています。

梶井基次郎と宮崎駿と必殺仕事人

2005年01月29日 23時47分41秒 | 妄想
 梶井基次郎の「城のある町にて」を改めて読んでみると、ああ、この人は光と闇と色彩の作家なのだなと思う。国語の教科書にも載っている「檸檬」を始め、「闇の絵巻」にしても闇に切り取られた光の空間がわれわれを楽しませてくれる。というより光を脇役とし、闇を描きたかったのかとも思う。「檸檬」では夜の京都の闇に浮かぶ八百屋で檸檬を発見し、書店丸善の画書コーナーで画集を重ねて色のオブジェを作り、「檸檬」という爆弾を据えて、店を出てくる。「城のある町にて」では妹の死の実感を、光満ち溢れる風景の中に感じ取ってる。そしてタイトルどおりの「闇の絵巻」では、伊豆湯ヶ島での実体験を基にして、光と闇のコントラストから人間存在の無常さを描こうとしている。
 光と闇のコントラストに「青」という色彩を添えて、時代劇の一時代を築いたのが「必殺仕事人」である。仕事人たちは一人一殺(いちにんいっさつ)主義で、仕事をこなす。彼らは「暗殺者」ではない。むしろ「テロリスト」に近い。闇から登場し必要な時間だけ「青」の世界に姿を現し、仕事をして再び闇へと去るのが基本だ。この場合の「青」は「黄昏時・逢魔が時」に相当し、標的をあの世とこの世の境界線に引きずり込む役目を担っていたのではないか。
 「仕事人」が「青」ならば。宮崎駿は「緑」である。風景を描くのにあれだけの緑を描き分けしようとする作家はほかにいない。そしてその「緑」に光と闇を与える。
 僕は以前からジブリ作品の「風」の表現に注目している。「風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」「紅の豚」「天空の城ラピュタ」宮崎アニメでは「風」を感じる場面が多い、そして実にリアルだ。このリアルさは何処から来るのだろうと思っていた。コミックでは風は擬音と線で描かれる。実写映画では風は自然を待つか、巨大な扇風機で起こすのどちらかである。僕は常々特殊効果としての「風」に違和感を覚えている。理由はうまく説明できない。だけど宮崎アニメの風はリアルだ。「風」は気圧の高低差によって生ずる。そこには雲がある。雲によってさえぎられた光が「風」を作り出すと言ってもいい。そして宮崎アニメでは風は必ず緑や雲を通して表現される。雲と緑と空を素材に光と闇を与えて「風」を起こす。効果音に頼ることはしていない。五分と五部の勝負をしている。結論としてはコト「風」に関しては実写版よりも本物に近い感覚を与えてくれているのではないだろうか。

BLOG上の人格 HN症候群

2005年01月29日 17時17分46秒 | BLOG論
 HNはブログ上で「忌み名」の意味を持つのではないか?僕はそう疑っている。HNの持つ言霊に引きずられることがあるのではないか。先日紹介した「女医ななこのひとりごと」が再開した。奇しくも彼女が自分のブログ名について、示唆的な内容を書いている。彼女はブログ名を変えようかと悩んでいる。理由はブログ名に含まれるイメージだそうである。言葉として「女医」、「ななこ」、そしてHN「nanako」でそれぞれ検索した場合の結果を気にしているのである。大方の男性が想像するとおりアダルトな内容を多く含んでいるものが大半を占める。
 きっとアクセス解析もしたんだろうなと思う。
 先日僕もブログアドバンスを購入した。購入したその日にメインテナンスでブログがアップできず、一番のウリであるアクセス解析も機能しないという最悪のスタートとなった。
 わかったことは、どのブログにたどり着くにしても検索結果から入ってくるのが殆どであること。つまりアクセス増やそうと思えば題名に「旬」なワードを挿入すればよいということになる。でもこれは今日の主題ではないのでまた今度。
 Nanakoさんがどんな実害を蒙ったのか私は知る由もない。しかし言葉の持つ力によって、一人の女性がブログ名を変えようとしている事実がある。
 HNは自分の部屋(ブログ)へいざなうための顔写真である。だから情報量の多い、イメージが先行する名前をつけると逆に名前に操られることになる。
 ブログ管理者の名前が中性化、無生物化する傾向にあるのも、このあたりが原因かもしれない。
 僕は実験として、HNを自分の実像とはかけ離れたものにしたことがある。続きはまた後で…。

BLOG上の人格 名無し、カオナシ、unknown

2005年01月28日 19時36分39秒 | BLOG論
 モノに名前を付けると怖くなくなる。得体の知れないものは得体のできないうちは怖い。表現としては「~みたいなもの」となる。これだと正体がつかめない。何をするのか、一つ一つの事象に関連ガあるのかさえ分からない。だけど名前を付けるとみんなの共通認識となり、情報が名前に集積され性格が形付けられる。どんな怖いものでも、名前のもとに分析されると対抗できること(それが例え偶然でも)がわかり、恐怖ではなくなり親しみさえも付け加わることになる。そうやって人間は恐怖を克服し、物事を得体してきた。名前にはそれだけ力があるといえる。
 忌み名(いみな)という言葉がある。通常呼ばれる名前とは別に両親と本人しか知らず、本人の魂を操ることのできる名前(千と千尋の「千尋」にあたる)がそれで、人外のものが人か人外かを見分けるために呼んだりするので、絶対に返事をしてはいけないと言われているものである。
言霊思想の典型的な例であるといえるし、日本人はずっと昔の平安時代から庶民レベルで名前を意識していたと考えられる。続きは後でって、今これの3倍ぐらい書いたのにアップしようと思ったら消えてしまった。まただ、今日のは痛い、痛すぎる。10分へこんでまた書き出したとこです。
 えいや!と始めます。
で、「忌み名」の代わりに登場したのが「通り名」というやつで、これはいつでもコロコロ変えられるから正体をつかまれることはない。成長や身分にしたがって変えていけばいい。
 ネットの掲示板では、通り名さえも使わずに「名無しさん」といわれる輩(やから)が虚の空間を、人ととのつながりを求めて彷徨い、偽りの醜さで互いを傷つけあっている。名前もなければ顔も見えない。安全地帯にいるつもりだろうが、PCを前に微笑んでいる姿は『千と千尋の神隠し』に登場する「カオナシ」そのものになっていることに気づいているのだろうか。
 逆にブログの世界では「名無し」さんは殆ど見かけない。コメントタイトルとしての「unknown」は見かけるが、これは僕の勉強不足で「無題」ぐらいの意味じゃないかと推察するほかはない。
 コメントは「通り名」をもって行われる。コメントやTBの重要な役割の一つに自分のブログへの「いざない」というものがある。これはネットの掲示板という舞台、もしくは観客席から大声でものを言うのと違い、自分の部屋に招待する感覚を伴う。それには「名無し」のままではまずい。こういう意識はないだろうか。顔のない人間の招待を受ける人はいない。
 しかし、HNに実に中性的なもしくは無生物的なものが多いのが気になる。これは無法地帯となっているネットに対する防衛本能か、はたまた日本人の民族的特性かは知らないが明治の文豪のようなしゃれの利いた名前に出会ったことはない。 
 しかし、このHNはブロウ上では「忌み名」になるのではないか。次のお話はその辺から。

東京人の確執

2005年01月27日 22時18分12秒 | 人々
 たいした話じゃありません。田舎人が東京の実態の一部を知って驚いたということ。
 僕の友人に東京の小田急線(新宿と小田原を結ぶ私鉄。ロマンスカーが有名。東京人を箱根に連れていって、稼ごうと作られた路線じゃないかな。)の豪徳寺出身がいる。彼は豪徳寺駅前の和菓子屋の次男坊。親戚は埼玉にあるらしいが、生まれも育ちも世田谷区。高校は渋谷の大学にエスカレーターで入れる私立高校。「松蔭神社で産湯を使い~。」じゃないけど、24になるまでライブで蛍を見たことがなく、静岡で初体験して日記に書いてしまったという経歴の持ち主である。
 先日放送の「天声真吾」は「ぷらり、途中下車の旅。」キャイーンや真吾君が。紙で作った電車で月島あたりの商店街をあるく企画だった。月島商店街の名物は「もんじゃやき」商店街には「もんじゃ」のにおいが立ち込めていたようで僕は次の日、友人にそのことを話し、「東京の人と一緒に東京を歩くのも田舎人にとっては一種のステイタスになるんじゃないかというと彼は「皇居の向こう側は人間がちがいますから」と言った。「皇居の向こう側」と言う表現は始めて聞いたので驚いた。僕らが聞きかじっている東京は山の手と下町の違い。でも実際の東京はもっと巨大で東京に住んでいる人のレベル(その土地で代をかさねていくだろう人々のこと)で東京に線を引くと「皇居」で引けるそうだ。端的な例は高校の先輩に上野の人がいて一緒に上野を歩いていると「かばんはしっかり持っておけ」と注意されたそうだ。同じ東京人なのに…。皇居の西側の人にとっては池袋、上野、築地は行くところではないそうで、例えば市場でも築地ではなく多摩川を渡って溝の口に行くそうだ。溝の口って神奈川だよ。逆に怖さはあるけど渋谷、新宿は安心できるそうで、それなりのルールみたいなものがあって、それに関わらなければヘっちゃらんなんだそうだ。
 江戸っ子の規定みたいなものがあって、代を何代重ねないとだめだとかあるそうだけど、高島平もそろそろ3世代を数えるころで、帰省なんかしませんよと言う江戸っ子と呼んでもいいかなと思われる人々がでてくるかと思ったら、住んでる場所で江戸っ子とは呼ばれないそうでなんだかかわいそうな気がしたことを覚えている。とにかく今、宮崎駿の映画の舞台は三多摩であり、東京で尤も生活感があふれている場所であるのだから、そこまで江戸っ子なのではあるまいか。最後はやや強引。

沈黙の観衆 コメントと油断の範囲

2005年01月27日 21時44分14秒 | BLOG論
 コメントをしてもらうと、返事を書くのがこの世界の常識らしい。僕は当初、そんなことも知らずに、コメントをもらうと、ただただうれしがっていた。今考えると随分失礼なことをしたものである。そしてある日、勇気を出して他の人のブログにコメントを書き込んだら、次の日リアクションがあった。コメント(2)と書いてあったその場所をクリックするまで、僕と同じようにコメントつけた人がいると思っていた。そしたらそのブログの管理人がお礼を述べていた。そんときの感動はいまでも覚えている。(そりゃそうだよ、3ヶ月前だもの)
 調子に乗って返事を長々と書きまくった。これまた迷惑な男である。そしてそのブログのありとあらゆる記事にコメントを入れようとした。(アブナイおっさんである)その辺まで来てやっと自分のしてることの異常性に気がついた。
 だいたいブログのマナーなんてだれが決めたんだ!?誰も決めてないよね。だからマナーだと思うのだが、これがパソコンの掲示板なんぞに書き込んだことのない人だから、ぜんぜんわからない。それに掲示板とやらを垣間見ると、これはもう無法地帯と言えるわけで誹謗中傷いじめのオンパレードの世界だとみえ、3分もあればムカムカと吐き気を催してくること間違いなしではないか。
 それに比べブログの世界のなんと穏やかなことか。これも100万件を超えるとおかしくなるのか、僕はその点、意外と楽観視している。まあそれはさておき、僕は自分の変態さを誇張するようで変だがコメントに抵抗がない。僕のブログに対するコメント率は今のところ300分の1くらいであるから、それがそのまま適用できるとは思えないけど、1パーセント未満の割合で存在するコメントマンである。10万に何人いるんだ?計算してください。算数苦手!コメントに抵抗がないどころかむしろ積極的に話しかけようとしている。
 「寂しいの?おトーさん。」と変なメールが一杯届きそうであるが、「んなこたあない」とタモリ風にトボケルのみである。ではなく理由はある。それもただ1点。もらってウレシイモノだからあげて喜ばれれば、更にう嬉しいからである。
 ブログのコメントはブロガーなら誰しも嬉しいはずである。こっちの素性なんて関係なし。黙ってみてるだけじゃありませんよ~。PCの向こう側でリアクション取ってるんですよ。教えてあげたい。これって独善的?
 でも、見てるすべてのブログにコメントしてるわけじゃない。慈善事業じゃないからね。そう考えてたら失礼だよね。一度きりでやめてしまうブログもいくつかある。ナゼだろうと考えてみると、管理人の返事に左右されることもあるのではないかと思う。
 続いているのは、結構砕けてくれる人かな。なれないうちはまじめ一本やりの返事でどうも堅苦しい。次にコメントしにくくなる。大上段から振りかぶるように感謝される場合もいただけない。かといって素性を知らないとはいえタメ口聞かれるのもなんだしなあ。とおじさんは結構細かい。
こうなると「お水系」のお姉さまのブログにはかなわないんじゃないかと思う。彼女達の、いやコメントが上手な人たちに共通して言えるのは自分を何処まで油断させるかにも大きなポイントがあるようで、親しさと甘えと相手に与える信頼感と馴れ馴れしさ、冗談と本気の境界線で実に危うく泳いでいる。そしてブログ上の人格を楽しんでいる。ぼくも安心して自分を遊ばせることができる。
 それも悪くない。だけど清楚、誠実、律儀もコメントを引き寄せるものであるし、なんと言っても、同じ価値観を持つ仲間にめぐり合えたという一種の感動を分かち合えた系のコメントほど人をうつものはないようで、これはコメント送受信のどちら側にいても、継続したくなる出来事なのである。