「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

「Doctors」 医師たちの肖像 番外編 HCUナース

2006年11月27日 23時23分50秒 | 人々
 父がHCUに入って2日経ちました。相変わらず高血糖と便秘は治りません。しかし父は元気でした。そして珍しく僕に話しかけてくるのです。「ここの看護婦さんたちはみんなすごくいい人たちだよ。」というのです。なんでもここの看護婦さん(男性も二人ほどいる)の人たちはスタッフ全員が毎日声をかけてくれるそうです。そして全ての方が自分の名前を呼んでくれるというのです。父はこれまでにも脳梗塞や糖尿病で入院経験がありますが、いずれの時も今回のような扱われ方をした経験をもちませんでした。僕は「HCUって言えばICUとか、手術に関わる部署だからそれだけ優秀な看護婦さんたちが選抜されてきているんじゃないの。学歴も専門学校とかじゃなくてさ、静岡県立大学とか、県立短大とか出ているんじゃないの。」といい加減な返事をしておきましたが、それでも父は、妙に納得して「そうだろうなああ。」と頷いていました。
 実際に確かめた訳じゃありませんが確かに学歴も多少は関係あるでしょうね。しかしそれだけでないはないでしょう。HCUはどうやら手術の前後のケアをするセクションらしいですから、それなりの人材も派遣されているかと思います。手術前の入念な検査。術後に一般病棟に移るまでのクッションとして機能している場所かと思っています。そして術前でも術後でも最も繊細な扱いを要するのは手術を受ける患者本人の精神状態かと思われますのでその辺りのケアも心得た上でのことでしょう。
 正確な記憶がないのですがベッド12床に対して看護士が常時8人ぐらいいるのですから、一般病棟からすれば随分贅沢な看護といえるでしょう。みんなが父の名前を覚えてくれたのも個室ばかりで担当ベッド数が極端に少ないせいもあるかと思いますが無邪気な父はその辺りには全く気づいていない様子で、ナースの方々を褒めちぎってます。
 僕はその真相を父に話してやろうかと思いました。しかし手術前の不安な心情を考えると、そう信じていてくれたほうが父のためにはずっと良いと考え、HCUナースの方々には、そのまま父の「エンジェル」でいていただくことにしました。
 僕が病院によっている間に、父の手術に関わるナースさんが挨拶にきてくださいました。この方は一言話せばもうその凄さが分かるような方で、何時間もの手術でも冷静かつ迅速かつ的確に手術のサポート役がつとまるだろうなと思わせてくれるような人でした。知性と感情をコントロールする能力と技術そして精神的なタフさがなければ勤まらないのだろうなと現場に望んだ人みて風圧とともに感じることができました。
 父も「すごい人だなあ」と言っていますが、157センチの父と同じくらいの身長で、まだ30手前の可愛らしいお嬢さんを見ての感想なのですから、人間って言うのは見た目だけで断しちゃあいけませんね。
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僕が見た京都1  東寺

2006年11月20日 00時21分22秒 | 紀行


 金曜日に京都に行ってきました。

 でもまあ仕事ですから11時40分に京都駅について4時30分京都駅発の新幹線で家路につきましたから、5時間にも満たない滞在でした。

 でもまあ京都ってところは駅のプラットホームから階段で一つ下の階へ降りるとそこはもう京都なんですな。

 なんでそう思うのか説明しようがないんですけど、そう思っちゃうんですね。これが名古屋だとプラットホームからして名古屋なんですね。その点静岡はね改札口抜けて地下道に入ると静岡なんですね。これも説明になってないんですけどね。

 京都駅のプラットホームから下に降りると修学旅行の中学生が300人ほど体育座りをしてましたね、そういうグループが三校分ぐらいいましてね。同じ中学校なのに学校によって随分雰囲気が違うんですな。いわゆる制服の着こなしなんですけどで随分と雰囲気に差が出るようで、京都に来て楽しんでる様子はやっぱり着こなしにも気を遣っている学校の方が良い感じなのかと思います。個々じゃどうだか分かりませんが、全体の印象としてでの話です。

 そういう学生さん達を掻き分けるようにして八条口から京都駅に南に出ましたよ。この改札だけがJR東海の管轄下にあるようで意外と不便な場合もあります。

 で、東寺まで行ったんですけど、こちとら田舎者で地理不案内ですからバスか電車で行くことにしたんです。ホントは歩いて一五分ぐらいなんでしょうけどね。
 以前、タクシーを頼んだら乗車拒否された覚えがあるんです。
 で、結局近鉄電車に乗って行きました。普通も準急も止まる「東寺駅」ですから間違いないだろうと思ったのです。

 僕は電車のホームから出ると方向音痴になる傾向があります。ですから今回も電車の中から自分の全身をレーダーかソナーにしてるつもりで慎重に事を運びましたが特に間違いなく済みました。というより駅から東寺の五重の塔見えてましたから全く心配する必要もなかったのです。

 駅から真っ直ぐ電車の進行方向右に曲がっていけば直ぐに着きますね。電車料金は一五〇円ですから、タクシー乗るよりはずっと得ですね。それから「東寺駅」は京都駅から一駅目だということで降りるときやや恥ずかしい思いをするかと思ったのですが、これも全然心配いりませんね。結構多いですよ一駅目で降りる人。

 五重塔の見えた方向に歩いていくと白くて斜めに塗られた塀が見えてきます。東寺の寺域に入ることが出来ます。有料になっている宝物殿や五重塔に用がなければ、寺内を散策するだけでも気分が良いのではないかと思う。
 僕が境内に入ると、何処からか笛の音が聞こえてきます、なんだろうと思って音の方向に耳を曲げると、篠笛を練習しておられる方がいらっしゃいました。
 

 京都だなあと思いました。

 最高に歓迎されているような気分で境内を歩きました。

 ただそれだけなんですけどね。
 
 東寺界隈はそれほど観光客はいなくて静かなものですよ。

 あんまり人気がないのはどうしてでしょうかね。

 東寺って感じが結構重くありませんか。

 あの五重塔を見ると自分の重心が下がるような気がしてならないんですね。世界遺産になっているそうですが、まあそれに相応しい重厚感は持ってるわけですね。他の寺っていうのはそこまでの戦闘意識は持ち合わせていないに違いない。京都の平地に立ってる立ってる寺って何でこうも城塞的なんだろうとおもったことのある人ありませんかね。
 そういえば真言宗のお寺は時代に浄土真宗の本願寺みたいに反骨精神を持ってたことあるのかな。弘法大師さんはそういう人ではなかったはずだし官立の寺ですから、今で言うところの筑波大学みたいなものでしょ。寺の精神自体には戦闘意欲はより少ないと見た方が良いかもしれない。
 まあ京都という戦災の激しい街では戦闘的と言うより防御姿勢の表れと言った方が良いかもしれません。
 で、名前が「東寺」っていうことは「西寺」ってのもあっていいわけで、実際にあったんだけれど、今は無いそうですね。もしあったら京都の景観ももう少し変わるでしょうね。何ていうか京都自身のバランスが南の方に傾いているかもしれませんね。
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「Doctors」  医師達の肖像 心臓外科担当医2 エキスパートナース

2006年11月08日 23時33分13秒 | 人々
 HCUの病室にはいるとすぐに看護師さんが挨拶に来ました。男の人でした。父の様態を聞いていきました。父はこの病院に移る前からずっと便秘が続いています。下剤を一日に3回飲んでかなりの時間踏ん張って少しだけ出たという状態でこの病院に移ってきました。そしてこのことは前の病院で看護師や医師を通じて相談したのですが一向に改善されなかったのです。
 父は看護師さんに聞かれるままに正直にそのことを訴えました。看護師さんは「わかりました。担当医に伝えておきます。何か変わったことがあったら何でも言ってください。」と言って部屋を出て行きました。
 僕が何か感想めいたものを父と話そうとすると別の看護師さんが入ってきてやはら父の病状を聞いていきました。そして次から次へと色々な看護師さんが入ってきては父と話していきました。
 何だろうここは?と思いました。
 話を聞いているとそれぞれの看護師さんが少しずつ違う役割を持っているようです。そしてどうやらシフトの交代時間の前後に病室に来てしまったらしくナースセンターの多くの人と顔見せをすることになっているようです。
 奇異だったのはすべての看護師さんが「何でも言ってください」と言っているので何でも言うとナースの領分を越えている場合があると直ぐにはできないようで、やんわり断られたりします。
 例えば父の場合、入院直後の食事が糖尿病に対応してなかったせいもあって血糖値が異常に高めでした。その後食事のカロリー量を減らしたのですが血糖値は一向に安定しません。300を超える危険な状態になったことこともあります。
 カロリー消費するための運動は制限されていますし、90%閉塞している血管を何とか保たせるためにのんでいる血液サラサラ薬の影響もあるかもしれません。そしてそのことを看護師さんに言っても、この場合は主治医である心臓外科医師から内分泌科の医師を連絡してもらってそれからでないと対応できないとのことでした。食事のカロリー量(単位というそうです)を減らすだけでもどうにも気の遠くなる話になってきました。
 夕方一段落ついてやや落ち着いた父に僕は「エキスパートナース」について話をしました。
 「エキスパートナース」というのは看護師でありながら時には医師の判断を越えて個々の患者に最善の治療方法を提供できる看護師のことです。個人の病気に関する病院での治療はその病院が大きければ大きいほど細分化され専門化されています。医師はその分、自分の分野で特化することができますから、患者にとってもより厚い信頼性が生まれることになります。田舎の病院よりも大きな病院のあの先生に診てもらいたいという欲求が存在する理由もここにあると思います。しかし現実の人間の病気に関してはそう人間の都合の良いように特化して病に罹るわけではありません。老人の殆どが色々な既往症を抱えてその病院を訪れます。
 そうすると一面的に正解の治療法であっても他の病気に分野からみれば非常にリスキーな治療方法になることもあるかと思います。
 僕の父の場合、前の病院での食事は「心臓食」といわれるものでした。一般食ではありませんから、父の心臓に負担をかけず尚かつ一定以上のカロリーを摂取出来るように工夫されたメニューだったのでしょう。しかし父は糖尿病でしかも高血圧でした。その情報を入れてなかったために父の血糖値と血圧は混乱に次ぐ混乱を生んだのです。
 エキスパートナースはそうした父の状態を個々の病気でなく父個人の体として総合的に診る役割の人で、今どういう治療方針を採ったらいいかを医師、薬剤師、麻酔しなどに適切な情報を与える人だと認識しています。
 日本にはまだ数少ないんだと聞いています。
 しかし日本のエキスパートナースの認識に統一した基準はないようで、実務経験8年以上で尚かつ試験に合格したものという選抜の仕方や、就任2年目からエキスパートナースのチームにはいるとかいった不徹底さが窺えます。
 社団法人日本看護協会が認定すれば良いのかなとも思いますが何処かで僕のイメージとずれがあるようです。日本式エキスパートナースはある病気や特殊な状況下(余命宣言後の家族ケア等)での高度な看護を提供できる人と言ったイメージが強いようです。
 それも確かに凄いのですが…。

 とにかく父の血糖値と血圧と便秘t座骨神経痛を総合的に見てくれる人がいないと父はとてもじゃないが手術にすっきり向かえないといった状態でした。

 そういう話をしていると父の主治医が現れました。

 
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「Doctors」  医師達の肖像 心臓外科担当医2 HCUへ

2006年11月07日 23時32分20秒 | 人々
 転院先の病院に着いたのは午前11時でした。正面入り口で父と母を降ろし僕は駐車場に車を停めに行きました。戻ってくると二人とも入り口の奥で待っていました。そのまま前の病院からもらった書類と紹介状を総合案内で提出しました。実はその時僕はかなり緊張していました。
 病院には匂いがあるようです。そしてその匂い公立の病院であればだいたい同じようなものになるはずなのです。消毒液とも違うある種の甘さを持った匂いです。僕はその匂いとともに義父の記憶を甦らせていました。そしてその動揺を父や母に悟られまいと緊張していたのです。もとよりそんなことに気付くはずはないのですが。
 書類を提出しながら今日こちらに転院する予定になっていること。すでにベッドを空けてあるとの連絡をもらっているということなどを告げました。受付の方は自分の手元の書類を見ながらとまどった表情を見せました。
 聞くと父の入院予定時刻は午後1時30分になっているとのことでした。しかし僕らは前の病院の先生にそのまま出向く旨を伝えられていましたから、明らかな連携不足と言わざるを得ません。僕は最初からの躓きに少し昂揚した気分になりました。この躓きを最小限に止めなくてはならないという悲壮感を伴う意欲に駆られました。でなければ父はこの一般外来の待合室であと3時間近くを過ごさなければなりません。ここは何としても病室を用意してもらわなければならないと思いました。
 しかし病院側の対応は迅速でした。すぐに担当部署が動き出し、父は一般外来の受付に行かされました。そこで待つこと15分。担当医からの指示により当初から用意された病室へ移動することができました。
 父にとってこの15分ほどがどんな風に感じられたかは僕には分かりません。しかし転院時起こった小さなアクシデントは父の手術にまつわる出来事の序章のようにアクセントを付けています。

 でもまあ大きな病院でありながら機動力を感じさせるという点ではある種の信頼を寄せても良いと思える出来事でした。

 父の病室は5階でした。エレベーターの扉が開くと正面に「ICU」の文字が目に入ってきました。

 唾を飲み込むようにしてエレベーターを降りて左に誘導されていきます。そしてそこにも扉があり、これから父が入る場所が一種の隔離された病棟であることを知らせていました。
 扉には「HCU」と「CCU」と書いてあります。
 先ほどの「ICU」はご存じの通り「集中治療室」と言われている場所です。
intensive(集中的な) care(保護・世話) unit(設備・部署)という単語から成り立っています。そうすると父が入った「HCU」の「H」は何の略なんでしょうか、僕はhigh care unit (高度看護室)と自分勝手に納得してました。でも「CCU」の方は分からずじまいでした。
 しかしながら今こうして振り返ってみると、手術の前の準備段階の人と手術後の経過が良くなった人のための病室で一般病棟とICUの中間的な存在であることがわかりました。
 病室はその機能から考えれば当然個室です。父は病院の建物の北東側いわゆる「鬼門」にあたる角部屋の個室でした。北と東に窓があり、駿府公園の松の緑が病院であることを忘れさせてくれるほどの良い景色です。
 「なかなか言い部屋じゃない。」と僕が言うと父は「そうだな」と小さい声で答えました、でも決して部屋に不満があるのではなくこの半日の移動で少し疲れたようです。
 「すこし横になったらいい」と言ったのですが状況は全く許さない状況がしばらく続きました。
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「Doctors」  医師達の肖像 心臓外科担当医1 転院

2006年11月07日 00時35分44秒 | 人々
 半ば覚悟を決めた様子の父に根拠のない励ましをしていることに痛切さを感じながらも、生きていて欲しいという、ただ一点の真実を頼りに説得を続け手術をうけることを承知させ、転院の手続きをしたのは9月4日のことです。
 転院先は静岡の病院です。僕の仕事が藤枝であったことから連絡が取りやすいと考えたのと母が通う際にも行きやすいと考えたからです。でもそれは決定的な要因ではありませんでした。当初僕はこの病院を避けたかったのです。それは僕の義父が2年前にこの病院で亡くなっているからです。義父は癌でした。4月に当時開催中の「花博」の帰りに僕の家によってみんなでそば屋に行ったときに、僕は義父の妙な痩せ方が気になりました。それとなくカミさんに言ったのですが、義母はまさか癌だとは思いもせずにそのままにしていました。そして6月の人間ドックで異常が発見されたときには既に手遅れの状態でした。胃上部に繋がっている血管部分の癌でした。それから半年間の間でしたが本人に事実の一部を、それは”助からない”という最も重要な真実を隠して投薬治療を続けてきました。義父がその死の3週間前まで僕の家と自分の家の間、50キロの道のりを平気で車で来たことを考えると多少モルヒネ等のクスリが入っていたとも思われます。
 そして義父は入院して2週間、個室に移って4日間で旅立ちました。僕ら家族と義母にはその時の映像が鮮明に残ってます。
 僕はためらいました。しかしインターネットでその病院を調べてみると心臓バイパス手術においては全国でも指折りの病院として名が上がっていて県内では県立子供病院とその病院の名前だけが挙がっていました。

 父の手術の成功に僕らの感傷は必要ない。

 そう思いました。

 そして地元で担当してくださった先生がその病院での勤務経験があり、通常だと一ヶ月半待ちの手術を「準緊急」で入れてくださるとのことですから、父にとってこれほど有り難いことはないのです。

 病院に父を迎えに行き、そのまま静岡に向かうつもりでした。しかし母が忘れ物をして一旦自宅に寄ることになりました。母はわざとそうしたのかもしれないと思いました。
 今生の見納めになるかもしれないとは口が裂けてもいえません。でも言わなくても家によればそう受け取られかねないと思いました。

 でもいつもとぼけたことを言って父に怒られる母のすることならば仕方のないことで済むのです。

 家の庭に車を停車している最中、父は車から降りず黙って、本当に黙って自分の家を、孫と一緒に耕した畑を、そしてようやく伸びてきた幾鉢もの菊を眺めていました。

 そして僕らは東名に乗って静岡に向かいました。その日9月なのに空は澄んでいました。そして富士が、まだ雪は被っていませんでしたが、大きくはっきりとした稜線をみせていました。

 「珍しいね、この時期に富士山が見えるよ。」

 というと

 「そうだな、綺麗だな」と言いました。

 「富士山も父さんのこと応援しているんだよ。」というと

 「そうだな。」と答えてくれました。

 
 
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「Doctors」  医師達の肖像 心臓専門医7  説得 

2006年11月05日 23時11分53秒 | 人々
 診断の結果は最悪の手前の状態でした。大動脈から心臓動かすために必要な血液を送り込む血管が90%閉塞状態で殆ど血液が流れておらず、その先の血管に殆ど血液が流れていないこと。一部心臓の筋肉が壊疽(えそ・細胞が死んでしまうこと)になっていること。風船治療をした場合10秒ほど血流が停止して僕の父の場合そのプレッシャーに心臓が耐えられそうにないことなどを説明してくださいました。しかもその血管の詰まりはその部位だけでなく心臓付近だけでも4カ所、もしくは5カ所あるということでした。そして転院して大きな病院で心臓バイパス手術を受ける必要がある、しかもかなり緊急性を伴っているので「準緊急」扱いで手術の予定を入れてもらわないといけないそうです。
 最後に先生は「ホントの緊急の場合は、ここから救急車で搬送して即手術の場合も考えられますが、今回の場合は容体がある程度安定しているのでリスクを避けるために必要な検査はしておくゆとりはあるかと思います。必ず今より良くなりますから頑張りましょう。」と締め括ったのです。
 しかし父は軽くため息をついてこう言いました。
「先生、僕はもう74歳だ、38歳で糖尿病になって36年間この病気と付き合ってきた。もう良しにしたいと思うんだけどね。」
 それはつまり手術をせずに投薬だけでいけるところまでいってその近い先に「死」を覚悟したいという主旨だと思いました。
 僕と先生は即座に否定しました。そうするのが息子として医師として当然のことだと思います。ただそのニュアンスは僕と医師とではだいぶ違っていたかと思います。医師は手術による回復に統計や経験から来る確信を持っていたと思います。ところが僕にはそんなものはありません。だいたい心臓バイパス手術というのがどの程度の難易度でどの程度行われている手術であるのかも知らなかったのです。僕はただひたすら父に生きていて欲しいという想いで父を説得に掛かりました。
 ただ僕は父の半生を見ています。
 酒飲みで酔っぱらって帰ってきてタバコも家の中で吸い、週末は徹夜で麻雀をしていた幼い頃の記憶から、食事制限をしてタバコから酒と徐々に制限していき、教頭試験をあきらめ早期退職して健康と血糖値と血圧に常に注意しながら生きてきたにも拘わらずインシュリン注射を打つようになり、糖尿病の影響の出血で右目が殆ど見えなくなり、脳梗塞で右側が想うように動かなくなってきました。それでもいろんなことを我慢して長生きに努めきたあげくが自分の胸を開くような手術を受けなくてはいけないのですから、僕が傍から「がんばって」などと言う言葉が迂闊に言えないのは当然のことのです。

 僕は「父さんの命だから、父さんは今までも充分頑張ってきたけれど、いっぱい我慢してきたけれど、それでももうちょっと僕らに付き合って欲しいんだ。父さんがいなくちゃダメなんだ。僕も母さんも妹も、だからまだ辛い目に遭わせちゃうかもしれないけど、それでも元気になる可能性が高いって言う話なんだから手術受けて欲しいんだ。勝手なんだけど、やっぱり生きて欲しいんだ」と言いました。
 「みんながそういうのなら手術は受ける、でもこれが最後にしたい。これ以上は僕自身(の心)が耐えられそうにない。」と言いました。

 先生は「この手術を受ける年齢としては若い方なんですよ。海外旅行もいけますし、そうだなスキューバダイビングだけはやっちゃダメですけどね。他は何しても良いです。」と仰ったのですかさず「ほら、孫が”じいじ直ったらまた温泉旅行に行こうね”って言ってたでしょ。紅葉の季節までに退院して見に行こうよ。」と乗っかりましたが父はうまく乗ってきません。
 手術が成功してもそれは心臓機能が回復するのであって、昔年の恨みの詰まる「糖尿病」の状態はちっとも改善されるわけではないのです。
そして父は自分の死因は勝手に「2度目の脳梗塞」になると踏んでいました。だからそれがいつ起こってもおかしくないと想っていましたし、それが今日でも仕方がないという自覚を持っていました。

 だから想像もつかないような「心臓バイパス手術」などというものに過度な期待どころか回復の可能性さえ棄てて掛かっているといった心境だったといえます。

 僕らは二人がかりで何とか父を説き伏せました。

 そしてなんとか転院に漕ぎ着けたのですが、担当医が浜松にある医科大学と、静岡の市病院でした。

 先生は、静岡の病院にいたせいか、市立病院の心臓外科にはかなり信頼を寄せているようです。

 しかし僕やカミさんにとってはかなり辛い場所になります。僕にとって義父
、つまりカミさんのお父さんがここで2年前になくなっているからです。
 僕は病院に漂う独特の匂いと、病室へ向かうナースセンターと病室の壁の色を思い出しました。




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「Doctors」  医師達の肖像 心臓専門医6 不意打ち 

2006年11月05日 00時02分14秒 | 人々
 8月31日午後2時30分。カテーテル検査が始まりました。前にもお話ししましたが検査の結果は時間の長さでおおよそ推測できることになっています。まず最良と最悪の結果の場合が一番短くて20分程で終了します。つまり投薬だけで治療が済む場合と殆ど外科的治療ができなくて投薬で延命治療に近い状態になるケースだそうで担当医から説明を受けていました。で、僕の父の場合、それまでの症状からすると最善のケースはあり得ないのだそうですから20分程度で終わる場合は最悪と言っていいケースになります。
 で、今度の場合、最善になるのは風船による治療というもので詰まり気味の部位で風船を膨らませて血管を一瞬にして広げる方法だそうで、10秒ほど血液が流れなくなるのだそうですが、心臓が持つようでしたらこれがカテーテル検査の延長で出来ることだそうで安全性も良いということでした。さらに拡げたとはいえまた元通りになってしまう可能性もあるので最近では金網みたいなもので補強するするのが流行だそうで、イメージ的にはガスのホースみたいなものを想像してくださればいいかと思います。
 そしてこの両者の中間が心臓バイパス手術になるケースだそうで、この場合この病院では手術が出来ないので、大きな街の病院に転院するというものでした。期間は一ヶ月程度が必要とのことでした。そしてこの場合も治療に入ることは出来ませんから父が検査室に入っている時間は1時間を超えないということでした。
 僕はこういう時の時間の目安というのをかなり疑ってかかる質です。経験上この手に時間は少なめにいっている場合が多く実際は検査の時間だけだとそのくらいになったとしてもその準備や後始末を含めると最低でも30分は必要だろうと踏んでいました。そして父や家族にとって最悪を逃れるためには最低でも1時間が越えないといけないと思いました。検査室の前で妹や母とベンチで待っているとき「早く出てくるなよ。」という気持ちで待っていました。妙な気分でした。早く終わることを願うのならともかく、時間が掛かっている方を願うのですから検査を受けている身になって考えてみると皮肉な祈りという他はありません。

 父はその前日から絶食し、足を板に括り付けられ、T字帯というふんどしみたいなものをつけ、入院時と同様尿道に管を差し込んでいました。後で聞いた話では尿道の内側が腫れて管を入れる際に激痛を伴ったそうです。処置してくれた看護師の女性はまだ学校を降りたばかりのようで上手に出来す、父をさんざん苦しめた後先輩看護師に換わってもらった経緯があります。今回はその時の腫れがひいてないようで、更に苦しませたようです。で、結局今度は医者に頼んだそうで、泣きそうな顔をしていた父が言ってました。ただし父はその看護師さんに対して恨み言を言ったわけではありません。ただ「痛かったよ」という感想を述べたにすぎません。

 でも気分はかなり沈んでいました。検査の結果に期待が持てている様子はありませんでした。むしろ今自分が科せられている苦しみから解放されたいという望みを持っていたようですし、最悪でも風船治療で回復し、この苦しい状態を乗り越えただけの見返りみたいなものを望んでも罰は当たらないだろうと思っているようでもありました。

 父が検査室に入って30分が経過しました。

 これで大凶のクジを引くことだけは逃れたような気分になりました。あと30分を過ぎれば風船治療に入ったことを意味します。


 そして1時間10分を過ぎたのです。

 僕は妹と顔を見交わし「そろそろ大丈夫なんじゃないかな。」と言いました。そして緊張に耐えられなくて風通しの良い場所に移った母を呼ぼうとしました。


 僕の人生上の教訓として「因果応報」というのがあります。自分のしたことは必ず自分に跳ね返ってくるというものです。
 そしてもう一つは「良いことも悪いことも僕が意識してないときに起こるもの」というのがあって期待したり警戒してたとしても殆ど無駄で、後に影響するような出来事は必ず意識してないときに起こるものだといえます。

 だから宝くじなんぞもこれは当たらないだろうなとか、当たるだろうなとか意識してるときはダメで、何にも考えてないときに、ふと当選番号を見ると当たっていたりします。
 じゃあダメじゃんと言われればそれまでなんですが、今日の主題とずれますので悪しからず。

 で、このときも僕は見事に不意打ちを喰らいました。

 突然検査室のドアが開き、先生が出てきてこう言ったのでです。

 「残念ながら心臓付近の大きな血管が90%詰まってました。風船治療をするにはリスクが高すぎます。」

 僕はこの先生のお話の趣旨を聞きたがりました。裁判において「主文」が読まれていないような気持ちになっていました。

 「父はダメなんですか?投薬治療しかないんですか」

と言っていました。

 「残念です。」という言葉の真意を掴み損ねていたと言っても良いでしょう。

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僕らの老い方   コブクロ シングルスベスト  

2006年11月01日 23時16分29秒 | 文化論
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 ご無沙汰しております。みなさんお元気でしょうか。



 この間、近所のレストラン「さわやか」にハンバーグを食べにいった。うちの娘さんはここのハンバーグが異様に食べたくなるときがあるらしい。

 で、待ってる間に、多分有線で流れていたのがコブクロの「さくら」だった。僕が「これってコブクロの曲でしょ良いねえ」って言うとすかさず娘さんが「これって『ナースあおい』で流れていた曲だよ。私もこの曲好きだよ」と返してきた。僕はカミさんに話していたつもりだったので、娘さんが応答したのに少し驚き、尚かつ曲説明の確かさと僕の好悪に共感されたことにかなり驚いたのである。
 僕らが小学校5年生の時、当時僕らが聞いていた曲と大人が聞いていた曲は全くの別世界のものであり交わることはあり得なかった。そして殆ど交わることなく僕らは大人になった気がする。だから僕が娘と同じ曲を好きになったことに対してある種の新鮮さを伴った感慨があったりする。
 だいたい僕らの親たちは子供らと音楽について話そうなどとしただろうか。なんでこんな風に自分の子供と話が出来てしまうのだろうと思う。
 娘が音楽感性が早熟なのだろうか。それとも僕らが大人になりきれていないからなのだろうか。

 そしてそれはどちらも違うのではないかという思いもある。

 僕の家から5キロぐらいのところにヤマハリゾート施設「つま恋」がある。ご存じの通り先日そこで吉田拓郎とかぐや姫がコンサートやっていた。前回のコンサートの時僕は中学2年生だった。ギターを弾き始めた僕にとってかぐや姫は既に解散はしたけどもの凄い影響力を持った人達だった。そして拓郎が東京は大坂といった手の届かない場所でなく、なんなら自転車で行ってしまおうかという距離の場所で12時間という前代未聞のコンサートを決行しようとしていたのだから、僕らは血湧き肉躍ってしまったのも無理はない。
 結局、風紀上の問題で静岡県教育委員会は県内の中学生、高校生の参加を認めずチケットは払い戻しされたのである。

 それから30年以上の月日が流れて3万5千人以上の人を集めてコンサートが行われたけど僕は今度も行けなかった。

 遠くで花火が上がるのを歓声とともに聞いたような錯覚を起こしただけで通り過ぎていった。

 でも今度のこのイベントで分かったことが一つだけある。

 それは僕らは僕らのままでじじいになっていくんだなということで、僕らは60になってもウルトラマンに郷愁を覚え、70になっても仮面ライダーカードに心をときめかせ、80になってもワムのクリスマスソングで彼女を思い出すんだろうなと思う。
 
 若い頃年上の人達は圧倒的に大人だった。たばこを吸い、麻雀をして演歌をがなり声で唄い、ステテコとラクダのシャツを着て風呂上がりにビールを飲み日本酒とウイスキーを愛した人達が大人だった。

 いつかああなる。ああいうのものに良さを感じるようになっていくんだなと思っていた。

 でも実際のところは結婚しても子供が出来ても僕らはまだマンガを見るし、スーパーマリオにも興じたりする。感性はというより精神構造は20を過ぎた頃から全く停滞したままの状態かもしれない。そういう錯覚さえも覚えるのである。

 未熟なんだろうな、脇が甘いものなと思うときもあった。でもあのコンサートの様子をテレビで見たりすると何年経とうが当時と変わらない人達がいて、それが3万五千人集まってるし、NHKの特集番組の視聴率なんかを考えても、僕みたいな大人が随分といるんだなと思わざるを得ない。

 だから僕が娘と音楽で共感しちゃうのも全然「有り」な訳でそれだけ音楽的に恵まれた時代なのかもしれないし、また音楽業界からすれば危機的状態なのかもしれないと思ったりする。
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