「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

スカート短すぎ! ってテニスの選手に言ってもねえ

2005年11月17日 23時59分25秒 | 哲学的に
【ニューデリー17日】女子テニス界のニューアイドル、インドのサニア・ミルザは16日、「競技時のスカートが短過ぎる」という国内のイスラム教聖職者からの批判に対し、服装ではなくプレーの方をよく見てほしいと反論した。この問題でミルザがコメントしたのは初めて。ニューデリーで16日開かれたメディアフォーラムで、19歳のミルザは「わたしが勝っている限り、スカートが6インチか、6フィートかなんてことを気にすべきではないわ」「わたしがどんな服を着るのかはわたし個人の問題です」と主張した。ミルザは今年、ランキングが206位から31位に急上昇。ところが、一部の聖職者から「半裸でテニスをするのは反イスラム的だ」などと非難されている。

 イスラム圏ではテニス自体を禁止しないいけないと思うよ、この際。バレーボールにチームでも女性が黒い布を巻いて出てた国があるけど現実的ではないと思う。

 女性に対しては厳しいねえ。

 僕の職場には日本人ながらイスラム教の信者がいて、この間までラマダン(絶食月)をしていて結構辛かったらしい。
 そのあけの日に話す機会があって、話は自然と宗教の話になった。僕は大学が曹洞宗が作ったものだから、入学式の時、舞台の奥の扉が開いて道元禅師像だのが出てきて、しかも「般若心経をみんなで唱えましょう!」なんてアナウンスがかかる大学だったから、必修に宗教学があった。
 2年次は座禅が必修でこれをしないと単位がもらえない。

 まあそんなことはどうでも良いことなのだけれど、要するに周りから見ると僕はバリバリの曹洞宗派に見られる。
 でも実際はそんな信心は全く持ち合わせておらず、僕は祖先の霊に感謝することと、自分を客観視し反省するする意味で、毎日寝る前に神棚に手を合わせるのと、娘の無事を感謝する祈りを、義父や義母が買ってくれたおひな様に捧げている。
 宗教とはどんなものか旨く説明できないけど、祈るのはこの3つで充分なのではないかと思ったりする。
 世界平和は祈るものではなく実践するものであると思うし、戒律も戒壇も必要ない。
 お世話になりながらこんなことを言うのは失礼だが、今の宗教は組織として集金システムの色彩が濃く、葬式を派手に行って何かにつけランクを付け料金に差が出るようになっている。
 戒名に値札が付いているのはどう見ても解せない。あの世の待遇を、この世での生き様を僧侶へ提出する金額で決めるのは本来の姿ではないのではないかと思う。

 もっと根本的に言えば学究の場所であり、鎮護国家を標榜としていた、そしてその前はおのれ一個の精神を救うためにあった宗教が、葬儀代行業に落ち着いたのは江戸時代になってからで、東大寺などは未だに葬式なぞしていない。

 宗主のピュアな精神は時代が経つと、大衆化され経済システムが構築され、人脈ネットワークが張り巡らされ、やがて政治力を発揮するようになる。
 
 イスラムはその意味では実にピュアなまま残った宗教といえよう。しかし、神と契約し、なるべく神に近づこうとする働きを続ける限り、性別や国教をなり越えなければならないし、それはとても難儀なことではないかと思ったりする。

 この問題はまた書きます。

 今日は寝ます…。

 お休みなさい。

敬語のマニュアル化って

2005年02月06日 23時13分14秒 | 哲学的に
 敬語なんてマニュアル化できるのか?というのが正直な感想。敬語の正しさというのを誰が保障してくれるのだろう。敬語の発生は何処にあるのか。自分より立場の上の人に対して使うのが敬語でしょ。原始社会では神に対して使ったのが最初じゃないのかな。で、神のお告げを代弁してくれるシャーマン=卑弥呼みたいな巫女さんや今の皇室のご先祖様たちに使い出したんじゃないのだろうか。そうすると今度は皇族の親戚達である貴族使わなくちゃいけない。この辺りから権力や身分を表現する方法ととして、ピラミッド型の秩序を固めるために細かな敬語法が編み出された。で、権力が武士に移って500年ぐらいそのまんまでしょ。
 だからお侍さんが沢山いるところには敬語も色濃く残っている。いわゆる城下町ってのは街から人まできちんとした秩序があるよね。一番は江戸でしょ。今の標準語って基本は江戸山の手の武士の奥方が話していた言葉らしい。
 でも田舎や商業都市は違う。身分を意識することは日常生活の中じゃ殆どないから、敬語も育たない。男女の格差さえないところがある。「おらあ、そっただことはんずかすい」に男も女もない。
 だから若い人たちの言葉がなってないと怒っている人たちの中でどれだけ敬語を付きこなせる人がいるのか疑問だし、問題の本質は異世代間のコミュニケーション不足からくる意識訓練の不足であって小さいころから近所大人とちゃんとコミュニケーション取れてる子供は、フォーマルとインフォーマルの使い分けをきちんと体験し、ほおっておいても敬語は身に付くもんだと思うのである。

国が敬語マニュアルを作成

2005年02月05日 16時41分09秒 | 哲学的に
若者を中心に、誤った敬語が氾濫(はんらん)している実態を受け、文部科学相の諮問機関・文化審議会国語分科会(阿刀田高会長)は、敬語の適切な使い方を示した実例集を作ることを決め、2日の文化審議会総会で報告した。
このため、同分科会では、現代の敬語の使用実態を調査したうえで、一定の規範を示すことにした。実例集は、相手との関係や運用場面も設定し、文の形で示す。ある程度まとまった段階で公表し、国民の意見も取り入れる方針だ。

 場面によって人によって言葉を使い分けること。敬語教育の基本は、そういう意識を持たせることガ大事だと思う。切実に思うのははバイトか仕事についたときなんだろうけど、それじゃ遅い。素の自分じゃ世間に通用しないって本気で思うときじゃいけませんよ。
 習得はやっぱり小学校が一番なのではないだろうか。そもそも、これは日常生活における躾の範囲。学校とは先生とはそういう存在なんだというコトを家庭も協力してやって行くべきなんだろうな。先生自体も敬語の必要な世界じゃ生きていない。敬語を使われる存在という認識はあっても使う存在ではないと思っている節がある。というより使う場面が少ないんでしょうな。家庭訪問のときなぞ、異様に緊張した面持ちになっているのは使い慣れない敬語のせいかとも思ったりする。これでは敬語教育はできない。生徒に敬語を使えるようでなくてはいけない。この問題は中学校の先生のほうが深刻だと思う。敬語のない方言で生徒とフレンドリーに話している。コミュニケーションが大事な世代なのは分かるけど敬語は他に使う機会がありませんから、使わなければ衰えますし、精神的弛緩を招きますのでご注意を。
 言葉自体は尊敬、謙譲、丁寧の3種類しかないからそう難しい問題ではない。
 敬語を難しくしているのは、相手との心の距離感の問題であると考えている。遠近の距離だけでなく上下の距離感も含んでの問題だ。
 ニュースバラエティを含むロケ番組でリーポーターやキャスターが現地の人に「おばあちゃんいくつ?」だの「おじいちゃんげんきだねえ」とか言っている場面をよく見る。僕はこれに以前から違和感を抱き続けている。硬いことを言うようであるが「おじいちゃん」なり「おばあちゃん」といった言葉は丁寧の接頭語「お」がついてはいるものの本来は身内で使用すべき代物であり、(事前の打ち合わせはあったとしても、設定上は)初対面の人間に「おじいちゃん」「おばあちゃん」はおかしいのである。言われているほうもへっちゃらな顔をしているので、どうってことない問題なのだが本来の距離感ではないのである。
 以前、テレビ局のアナウンサーに、この問題について聞いてみたところ、「向こうはテレビを通じて充分な親近感を持っていますからかしこまると、かえっておかしくなるんです。番組の雰囲気にも影響しますし…。」とのこと。なかなかうまいことを言う。でも本来はちゃんと苗字なり名前なりを呼ぶべきでしょうね。
 また、水商売を筆頭とするサービス業ではもっと微妙な調整が必要になる。モノや技術を媒体とする職業ならマニュアル的な敬語で間にあうだろが、パブ、スナックといった接客を主とし、くつろげる空間を提供しようとする場合、敬語はむしろ堅苦しさの象徴となり、上客であればあるほど嫌う傾向にある。かといって敬語を全く使わないわけにはいかない。僕はその筋の人ではないのでどうやって調整をはかっているのか知らないが、きっと経験上習得した読みや勘がするどいお姉さま方がマニュアル化できないノウハウをお持ちなのだろう。逆にキャバクラ系のノリや期待を誘発するのがウリの空間ではむしろ客のほうが従業員達に対し敬語を使うという珍現象が見られるそうだ。(あくまでも伝聞)
 結局、古典に登場する貴族の方々ならまだしも、現代に生きる私達は相手に対してどれだけ配慮するか、意識を振り分けられるか、それも自分のサイズでというところが敬語の正しい使い方に通じているような気がするのだ。

アクセス稼ぎ

2004年12月11日 00時14分53秒 | 哲学的に
あれ?昨日ここに書いてあった記事が消えている。結構たくさん書いたのに、見てくれた人は、さぞお怒りのことでしょう。詐欺に遭った気がしてる人もいるんじゃないかな。タイトルがタイトルだし、ごめんなさい。内容は大したことないので改めて書きませんが、アクセスが少ないから実験的にどんなのが受けるのか、考察してみたまでのことです。いっそのことアダルティックな内容に踏み込んでやろうかなと思ったりもしたけれど、考えてみればこのブログのこと一部関係者に伝えてあるんだよね。ばっかじゃないの!と自分で思うわけで、ブログなんてものは自分の素性が知れてないから好き放題書けるわけで、素性が知れたらどうにもならないじゃんね。自分で自分の首閉めてるんだから、しょうがない。別の所にあたらしいブログでも立ち上げるかな。でもその関係者見てんのかな?アクセス数を見ると、毎日5名は来てる、新記事マニアなのか、偶然に行き着いた人なのか、それとも固定ファンの人(まずあり得ない)なのか分からない。よくもまあ、こんなブログに来てくれる人があると思う反面、僕は受け入れられないのかという寂しさもある。ランキング上位のブログの内容に文章では負けているつもりはない。しかし、万を超えるアクセスにはそれなりに理由があるわけで、そいつをつかまなければ自分の表現を他人に理解してもらえるとは思えない。ブログは自分を表現しながら、実は自分自身を赤裸々に理解していく過程でもあると考えられ、一種のカウンセリング効果も望めるのではないかと思われる。そしてそれは紙の日記という閉じた空間でなくマジックミラーに映し出した自分のようにある種の社会性を持ちつつあるのではないか。
 ブログは情報交換の場という意味を持つが、見る人の意識にはたぶんに他人の日記を覗くという秘密めいた快感が絶対あるはずで、ライブドアーの9割以上を占めるアダルトブログに見事に引っかかるのもそういった意識が下地にあるからだと思う。覗く快感と、顔だけ隠してヌードな自分をさらし、評価される快感を人は少なからず持っている。自分という人間の存在を世間とか、立場で武装した自分じゃなくて下着を取った素肌をさらし、その皮膚存在をアクセス、コメント、トラックバックという3つの指でさわってもらい感じたいと思っている。多くのブログの主が実に控えめにコメントをもとめる姿は、初めて素肌をさらす少女の恥じらいに通じるところがあり、痛々しいまでに可憐である。とは言え、当方齢40過ぎのおじさんであり、プロフィールに関する限りブログ主としては高齢者であり、アクセス数が伸びるとはとても思えないのである。今度から別方面に進出しよう、関係者の方目をつぶっていてください。