月の晩にひらく「アンデルの手帖」

writer みつながかずみ が綴る、今日をもう一度愉しむショートショート!「きょうという奇蹟で一年はできている」

満開のさくらの頃に

2021-05-07 23:25:00 | コロナ禍日記 2021


 

3月31日(水曜日)晴れ

    





 5時半に目が覚めてしまった。布団の中で、ああでもない、こうでもないと考えをめぐらせる。30分後、起きあがって表へ出た。ご近所にも満開の桜があるのだ。

 いつもより、長く、市民体育館のあたりまで50分のコースを歩く。20度くらいの上り坂が続くが、すべて薄ピンクの桜の雲の下を歩けるのだから、幸せの香りに酔いそうになり、みあげながら足を運ぶ。気持ちいい、これだけ歩けるのか。まだまだ、じゃないかという気になる。

 

 ソメイヨシノが主流だが、シロヤマザクラや、紅しだれも数百本ある。住宅街の干し物や庭に散乱したおもちゃに、目が奪われて、飛んでくる鳥の鳴き声にも耳を澄まして歩く。感覚が内から開いていくのがわかる、蕾が眠りから覚めるように。朝の散歩は感性のエンジンをまわす。


 帰宅後。奈良の葛を水に解き、ざらめを少々加えて熱湯をそそぐ。おいし。この「葛湯」を啜りながら小川洋子さんの処女作「揚羽蝶の壊れる時」を読む。ヨガと瞑想をして、仕事をした。




 夕食はカレーライス。仕事のあとのお風呂で、本当は原稿の推敲をするつもりだったが、自分の書いたものがつまらなく思えて、朝読んでいた「揚羽蝶の壊れる時」を読み、そして読み終わった。それで十分に満足してしまい推敲もしないで就寝するところだ。

 この作品。ストーリーの展開に起伏も少なく、登場人物は3人+1。書きたいもの、なぜそれを描写したかったのか、という作者の強い欲求(願望)があれば、時代を越えていつまでもひきつけられるのだ。独特の不穏の空気に閉じ込められる幸福感がある。正常とそうでない状態の境界をみつめる。

「放っておいたら汚物になるものを食べて生きている」「濡れた果物のような顎からの線」(男性の比喩)

 自分の眼に映ったものを執拗に観察し、なぜ見えたのかを執拗に考え、それら他人の目で解釈する。一文、一文を、石を積み上げるようにして物語にしていける。それは信念だろう。

処女作には、その言葉が示すとおり、編集の担い手のおもわくや、書かねばならない世論的なものはあまり感じない、最も作者の原風景的な匂いに濃く出会えるからすばらしい。といつも思う。 

 

 



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