陽だまりのねごと

♪~思いつきひらめき直感~ただのねこのねごとでございますにゃごにゃご~♪

みんな花丸同窓会

2007-10-07 00:35:57 | Weblog
人里離れた風景となった駅に降り立ち、
駅近くの駐車場に待つみかん色のちっこい車に乗り換えて自宅へとひた走る。
夜の帳が降りた山道には曼珠沙華の赤がヘッドライトに浮かび上がって続き、
あぁ~田舎へ我が家へ帰って来たと、朝出て来たばかりの道が懐かしい。

久々に新幹線に乗って
地下鉄に乗り替え、人ごみの中をかいくぐって同窓会へ行ってきた。
すでに4年生大学の社会福祉学部の一部として残っているのみで
学校としての形はなくなって久しい。
もともと文系大学キャンパスの端っこに
へばりついている感じの知る人の少ない
100人あまりの小さな短期大学部なのだ。

この小ささが他所にない独特な雰囲気を持っていたように思う。
偏差値とは縁もゆかりもないけれど
ここを卒業したことに
ひそかな誇りを感じているのは私だけでなないと思う。

講義と講義の間には毎日、チャペルタイムがあった。
時々抜け出してケーキモーニングしたけど
いっしょうけんめいキリスト教と向きあった時期ではあった。
結局、信仰を持つことはなかったけれど
多感な青春時代に
生きる意味を模索し宗教に向き合ったことが無駄だったとは思えない。

今回は学内の学食がおしゃれなレストランとなったそこが同窓会の会場だった。
会食の後で改築、新築の建物と
我らが学んだ古びた建物を恩師の案内で見てまわった。
社会人枠の編入の話などちょっと心が動いた。

短大部だった小さな建物は古びて使われ方が変わっていた。
2階の講義室兼チャペルだったところはもうチャペルではなかった。
4階にはスタンドピアノが1台づつ入った小さな部屋が並び
そこから海が臨めたけれど、今はマンションやら立ち並び海は遠かった。

そこで初めて触れたキリスト教。
実習の付属幼稚園には知的障害を伴っている自閉症児も一緒に保育されていた。
当時としては珍しかったと思う。
保母過程、今の保育士の資格を取るためには福祉施設の実習も必須だった。
知的障害児の通園施設、乳児院、養護施設等へ泊まり込みで数日お世話になった。
何もかも初めて知る世界だった。
その経験を通して
『主の前には何人も等しい』と身をもって教えられた様にも思う。

我が子に障害ありと分かった時、幼稚園は迷わずミッションにした。
実習で感じたひとりひとりを大切に思う教育がそこにはありそうな気がした。
果たして、自閉症と診断されていた息子は幼稚園が大好きだった。
夏休みに幼稚園に行くと泣いた。
誰もいなくて先生がうさぎさんに餌をやっているだけなのを見てあきらめた。
その後の公立小学校での扱いとのギャップは…今日は語るまい。

参加者は30うん年ぶりだった前回より少ない22名。
その分個性的な恩師がかくしゃくたるお姿で5人来て下さっていた。
何を習ったか不遜にも覚えがない先生もあり。
現役を退いてなお、
自分が人のために役立つことをされて
ゆったりと過ごされている近況報告は
これから迎える老い指針の講義のようだった。
5人5様。正解はないし、人真似もない。
習っていた当時はクリスチャンではなく
中年期を過ぎて洗礼を受けたと語る先生もあった。


ひと渡り食べてしゃべって
2年半前と同じく、またしても
マイクをもたされて一人づつの近況報告タイムが来た。
2年半前のメンバーだけでなく30余年ぶりの人が居る。
人前で話すのは慣れていないと言いつつ
みんな臆せずよく語り、起承転結、まとまりの良さは年の功か。
50余年生きていれば数分で語り尽くせない事が誰にもある。
いろいろのマイナスなことも
ここでは語っても大丈夫な気がしてしまうのはなぜだろう?
おそらく
このキャンパスでは人を否定する事を学ばなかったのだ。

今日ここへ集えなかった人を案じ
集えたことに感謝し

常日頃、不服ばかりで感謝のない私が素直な気持ちで感謝の念を持ってしまう。
背筋が伸びたような?
自分が浄化されたような?

人の道からずれていることでも容認せよという強要。
心に痛みを感じなければ何てことなくやり過ごせるのに
こつんこつんと胸を苦しめる日常のあんなことこんなこと。
青臭いことと一笑されてしまいそうな私、違ってないわと
多くを語らずとも分かり合える共通の部分を持った仲間たちを感じた。
日々の最悪に埋没して半ば捨て鉢だった自分が再生してくる。

キャンパスで幾人かと別れ、何人かとお茶をして
だんだん小集団となり、最後の新幹線でふたりとなり
やがてその人も違う駅で降り、みんな帰るべき場所へと別れた。

幹事をかって出る奇特な人の気持ちに応えて
次の同窓会にも出来ることなら出席しようと誓う。

だれの人生もみんなみんな花丸なのよね。
迷ったり止まったり引き返したりしたり
何の目にみえる成果も見られないこれまでで、これからだとしても。