粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

姑には秋茄子カレーを

2014-10-24 18:22:00 | 一般

本日の読売新聞ニュース、少しシリアスな話だが、不謹慎ながらちょっと笑った。

「作ったカレー捨てられ義母を鍋で殴った疑い」

警視庁小金井署は23日、国分寺市北町の主婦の女(33)を殺人未遂容疑で現行犯逮捕した。

発表によると、女は同日午前8時20分頃、自宅で、夕食用に作っていたカレーを義母(73)に捨てられたことに腹を立て、「死んでしまえ」と叫びながら義母の首を両手で絞めたり、カレーを作った鍋で複数回頭を殴ったりした疑い。義母が119番し、駆け付けた同署員が女を取り押さえた。義母は頭に全治10日間の軽傷。

すごく分りやすいニュースでその光景が容易に思い浮かぶ。昔から延々と繰り広げれている姑嫁戦争の一端である。嫁の作ったカレーがまずくて姑が捨てた、これに怒った嫁が姑に殴り掛かった。姑は頭を殴られたり首を絞められたりしたが10日間の軽症だった。嫁は「死んでしまえ」と言いながら、どうもさほど本気ではなかった気もする。だから、わざわざ捨てる姑の方に少し意地悪な感じがして多少は嫁に同情したくもなる。

嫁が33歳、姑が73歳となんと40歳の年の差がある。スマホでママ友とラインで交信する嫁と近所のおばあさんたちと立ち話をする姑との底知れぬ世代ギャップを感じる。二人の冷めて乾き切った人間関係を想像してしまうがこれは酷だろうか。ともかく、たかがカレーされど大事なカレーを巡る悲喜劇というべきだろうが、端から見ると失礼ながら苦笑を禁じ得ない。

ことわざに「秋茄子は嫁に食わすな」というのがある。普通は「憎らしい嫁にはおいしい秋茄子を食べさせるのはもったいない」という意味だ。しかし、他に「秋茄子は体を冷やすから、大事な嫁に食べさせるな」とか「茄子は種が少ないので子種ができなくなるから食べさせるな」といった全く対照的な意味になる。

自分には最初の意味の方が姑嫁戦争のリアリティーが感じられてこちらを採りたい。嫁をいたわるというのは少しわざとらしく取ってつけたような感じがする。これも自分の無責任な解釈だが。

今度は嫁がカレーを作るときはおいしい秋茄子をたっぷり具に使ってはどうか。「私は遠慮してカレーだけ食べます。お義母さんはご存分に!」なんてね。「できた嫁」だと思い直す?そんことないか!デザートには年寄りが好きな甘いおまんじゅうがよい。でも葬式まんじゅうは禁物だ。


川内原発再稼動手続きの背後にあるもの

2014-10-23 21:53:07 | プロ市民煽動家

鹿児島県内の川内原発は原子力規制委員会の安全審査を終えて現在、地元の稼動同意を得る手続きが行なわれいる。今月20日でその同意を巡って市議会と住民集会の2カ所で反原発団体が押し寄せ恫喝や激しいヤジがあり騒然となったことを産経新聞が伝えている。おそらく、朝日新聞などではこんな実態は報道しないだろうが。

まず、川内原発がある薩摩川内市の市議会における第3委員会での話だ。そこで原発再稼動に賛成する陳情の採決が行なわれていたのだが、30人の傍聴席に70人が集まった。抽選に漏れた数人の反原発活動家が、無理矢理中へ入ろうとして部屋の入口にへばりつき執拗にドアを叩き続けたのだ。職員も怖じ気づいたのかその行為を制止しようとせず、放置していた。こうした活動家の口調からして地元民ではなく外部の人間だったという。

もう一つは薩摩川内市に隣接するいちき串木野市の市民センターで行なわれた住民集会でのこと。新たな規制基準と基準に沿った電力会社の対応を県の主催により県内5カ所で住民に説明するものだ。

 センターの外では「反原発・かごしまネット」代表の向原祥隆氏らが、原発再稼働反対を訴え、チラシを配る。

 …入り口付近では、県職員や警備員と小競り合いを起こす反原発派もいた。主催する県は、混乱を避けるために、参加を事前申し込み者に限定した。この日は定員922人を下回る429人が参加した。

 原子力規制庁安全規制管理官の市村知也氏が1時間にわたり、東京電力・福島第1原発事故を教訓にした津波や地震への対策強化、重大事故が発生した場合の対策について説明した。

 時折、市村氏の発言をかき消すようにヤジが飛ぶ。

 「リスクはゼロではないんだろう」「巨大噴火は予知できないと火山学者が言っているぞ!」

 会場最後部から、大声で叫びながらステージに駆け寄り、制止される参加者もいた。

 質疑応答が始まると、反原発派の罵詈(ばり)雑言は、質問者にさえ向けられた。

 ある男性が、原発停止を補うために稼働する火力発電が、地球温暖化の原因となっているのではないかと質問をした。

 すると客席から絶叫調のヤジが飛ぶ。「九電のまわしもん!」「太陽光があるじゃないか!」「やらせだ!」

 説明会は午後9時ごろに終了した。市内のタクシーの運転手は「私の周りのほとんどは安全な原発は動かすべきと思っているけど、住民説明会には反対派が怖くて行けないよ。彼らは暴れたいだけでしょ」と語った。

 

地元タクシーの運転手がいみじくも語っているように、反原発派活動家は「ただ暴れたい」だけのためにこうした集会に参加しているようだ。それも住民が「怖くて行けない」と感じるくらいだから、とても「普通」の市民団体とはいえない。それこそ恫喝ともいってもよい行為である。産経新聞はこの様子を「政治的に未成熟な社会」と捉えて平成29年の警察白書を引用して、極左暴力集団の存在を示唆している。

「(彼らは)組織の維持・拡大をもくろみ、暴力性・党派性を隠して反原発デモ等の大衆運動や労働運動に取り組んだ」

また公安調査庁も反原発活動に関してある左翼暴力集団を名指して警戒をしている。

公安調査庁が今年1月に公表した「内外情勢の回顧と展望」も「過激派は反原発団体などの集会・デモに参加する中で(中略)自派の機関紙やビラを配布した」と、反原発運動に過激派が大きな役割を果たしていることを指摘した。さらに、「特に中核派は、同派系の『すべての原発いますぐなくそう!全国会議』(NAZEN)を中心に反原発運動」を展開しているとした。

今回の騒動でそんな極左の関与を確認できないが記者が指摘するように「川内原発の再稼動が迫るに連れてますます先鋭すると予想される」といえる。これまでの反原発活動を振り返れば官邸前デモや福島での刑事告発などでしばしばその存在が取沙汰されているからだ。地域住民の民意という表向きの大義名分も一皮むけば、特定の政治的な意図が隠されているとしたらとても看過できない。

彼らは国民が庶民感覚で共感を得やすい課題にまるで一般市民を装って普通に参入していく。平和主義、人権問題、放射能忌避、などで国民感情に直接訴えていつか自分たちの政治運動への展開させていく。集団的自衛権行使反対、沖縄基地反対、原発反対と言った具合だ。今その主戦場が沖縄の辺野古であり、そしてこの川内原発である。


「手抜き除染報道」女性記者のある発言

2014-10-22 15:10:17 | 反原発反日メディア

みなさん疲れが酷くなっていますね。一番の要因は先が見えないということです。1ミリシーベルトに除染すると国が言っていたがそれができなくなった。線量が下がらないまま戻るか戻らないで新しい生活をするかという選択を皆さんが迫られるようになってきています。その生活の見通しが立たないことが疲弊感を強くしています。

これは昨年1月、福島の除染作業で手抜きがおこなれていることをスクープした朝日新聞の女性記者がその2ヶ月後関東のラジオ番組に出演したときの発言だ。最近になって週刊新潮がその報道には「やらせ」の疑いがあると報じて問題になっている。新潮の記事に登場する「A記者」とはおそらくこの女性記者のことを指すのだろう。

自分のブログでも書いたが、彼女は当時除染作業に従事していた作業員をつかって「内部告発」させている。無理矢理現場監督に近づかせ「手抜き」を唆せてその様子を彼女が提供したICレコーダーで録音させている。あるいは作業員の証言も彼女が予め用意した解答集に沿った形に誘導させた疑いが掛けられている。

そんな彼女がラジオ局で福島県民特に避難民の現在の心境を自分の印象で語ったのが冒頭の発言である。(動画の冒頭約1分)ともかく福島県民は「疲れている」と悲観的な見方だ。そして、その理由に国の除染政策をあげて、批判している。除染の基準が年間1ミリシーベルトとしたのだが、実際はこれが徹底されず自民党政権になっても変わっていないと彼女は考えている。その矛盾として端的に現れているのがこうした手抜き除染だと彼女は言いたいようだ。

こうした除染作業を停滞させたままに国は避難民の帰還を一方的に推している。帰還が既定の事実と見なされて無理矢理帰還するかどうか彼らは選択を迫られている。これでは避難民不在であり、「疲労感」に苛まされているのが実情だ。これが女性記者の問題意識である。

結局、彼女は年間1ミリシーベルトが原発事故収拾のための重要な条件と考えているのだ。いわゆる反原発派に共通する認識でこれを金科玉条のような崇め立てている。まるで「1ミリシーベルト」教信者のようだ。しかし、この1ミリシーベルトの状態に福島の旧避難区域を完全に戻すことは相当困難だと思う。

またそもそも1ミリシーベルトが適正な除染基準とはとても思えない。自然界では世界的に平日本の平均よりも1ミリ以上高いところは多い。あるいは年間5ミリシーベルトを超えている地域も少なくない。日本政府が設定した1ミリシーベルトは決して妥当はいえず、むしろこの基準を緩める方が先決ではないかと思う。

福島の除染で手抜きしていると批判する以前に、こうした基準の方を問題にすべきであり、本末転倒と思えて仕方がない。彼女の主導による報道は昨年の新聞協会賞を受賞している。あの吉田調書を「スクープ」したスター記者に代わって、今や原発報道のヒロインになっている。再び誤報で社長が謝罪することがないよう祈るばかりである。

 

埴生の宿

2014-10-21 20:56:22 | 音楽

先週NHKの朝ドラ「マッサン」を見ていたら、バックに「埴生の宿」が流れてきた。原語の英語で女性のソプラノ歌手が唱っていたが、とても清らかで美しく聴き惚れてしまった。このドラマからすると原曲はスコットランド民謡かとも思ったが、調べてみるとイングランド民謡であった。

「埴生の宿」は、自分自身には学校で唱われる有名な唱歌の一つという印象しかなかったが、改めて聴いてみると曲の魅力を思い知った。英語ではHome!  Sweet Homeで素敵な我が家という意味になるが、日本語では「埴生の宿」といかにも古い文語調になる。これも訳詞され出版されたのが1889年というから仕方がないのかもしれない。

そのため歌詞は原詩をある程度反映しているが、最初は堅苦しく感じて取っ付きにくいかもしれない。しかし、幾度となく聴き返すと、とても簡潔で分りやすい。それというのも情景が鮮やかに描かれているからだ。

1 埴生(はにふ/はにゅう)の宿も我が宿玉の装ひ羨(うらや)まじ
  長閑也(のどかなり)や春の空花はあるじ鳥は友
  おゝ我が宿よたのしともたのもしや
2 書(ふみ)読む窓も我が窓瑠璃(るり)の床も羨まじ
  清らなりや秋の夜半(よは/よわ)月はあるじむしは友
  おゝ我が窓よたのしともたのもしや

例えば1番の最初に「埴生の宿」(土にむしろを敷くようなみすぼらしい家)というタイトルの言葉がでてくる。こんな家でも「玉の装い」(宝石をちりばめたような立派な家)を羨ましく思うこともなく楽しいと唱う。春には家の周りに花が自分の主人のように咲き誇り、鳥が友のように楽しくさえずってくれるから。「埴生の宿、春の空、花、鳥」と春を彩るものが次々描かれ、その様子が「長閑也」という感嘆の言葉になる。

2番はそっくり1番の対句になっていてそのコンストラストが見事だ。すなわち、「書を読む窓、秋の夜半、月、虫」から「清ろなり」となる。そして1番2番とも最後は「たのしともたのもしや」(楽しく心なごむことよ)と我が家への讃歌となる。

ウィキペディアによれば、戦前から国民生活になじんでいたため、戦時中も埴生の宿のレコードは「敵性レコード」として破棄されることもなく、今日でも日本の歌百選の一つになっているという。ネットでこの曲の動画を探すとすぐに日本語「埴生の宿」の独唱とイギリスのグロスター大聖堂での合唱気に入ったものが見つかった。いずれも清らかで美しい、しかもそこはかとなく優しく暖かい。


日本が取れて中国・韓国がノーベル賞を取れない理由

2014-10-20 11:01:05 | 一般

ノーベル賞の科学部門では今年は3人の日本人が物理学賞を受賞したが、何かと日本人を貶めることの好きな隣国の中国と韓国は相変わらず賞には無縁だ。この違いはどこにあるのか。数学者の藤原正彦氏が週刊新潮今週号でその理由を解き明かしている。(以下記事引用)

 

<中国籍、韓国籍を持つ自然科学分野でノーベル賞受賞者はいない。ばぜ日本ばかりがノーベル賞を取るのか。>

ノーベル賞の受賞者が輩出する国には2つの条件があります。

第一に、幼少期から成長していく過程で、身近に美しいものがなければなりません。豊かな自然や優れた芸術、文学に触れて美的感受性を養うことが必要です。数学や物理学などサイエンスにとって、美的感受性は知能指数や偏差値よりも大事なのです。

日本は緑の山々、繊細な四季の移り変わりがあります。それ自体が世界的にも大変珍しい。加えて素晴らしい文学、絵画、彫刻も多数存在し、美に触れる機会に恵まれています。

第二に、精神性を尊ぶ風土も不可欠です。要するに金儲けや実用性だけを追求せず、役に立たないと思われても精神性の高いものには敬意を払う土壌が肝要といえます。「万葉集」にしても、日本では1400年も前から一般庶民が腹のたしにもならない歌を詠んでいる、そこに価値を見出すことが何より大切なのです。

多くの科学分野では、100年後に芽が出るか、100年後に実用化するか分らないlことも研究しています。それを単なる無駄と考えてしまったら人類の進歩がないですよね。

中学や韓国にも有能な人材はたくさんいますが、残念ながら彼らの多くは金融関係や弁護士、医者といった「金になる」仕事に就いたり、海外へと流出していく。利益だけを優先すると「無駄」な科学に人材が向わなくなるわけです。

<また、日本人受賞者には「国産」が多い。>

日本は「外国留学しなくてもノーベル賞が取れる」という珍しい国です。こんな国は世界でも米英独仏露び6カ国ぐらいではないでしょうか。

2008年にノーベル物理学賞を受賞した益川敏英さんは、初めての海外旅行がストックホルムでの授賞式でした。少なくとも理工系では、小学校から博士号取得まで日本で研鑽を積んでもノーベル賞をと取れてします。実際、19人の自然科学での受賞者のほとんどはそういう人です。日本にはそれほど優れた教員、研究施設、資料中専門書が揃っているのです。

日本が世界一の「翻訳大国」であるという事実もそれを支えています。明治時代以来、日本人は文学から科学まで、海外の最先端の専門書を次々と翻訳してきました。そこで重要なびが「カタカナ」ノ存在。文献を翻訳する際、日本人は漢字に変えるべき言葉と、カタカナに置き換えるべき言葉を分別して、易々と訳書をつくってしまう。大学院などで、どの分野でも最先端のテーマを日本語で講義できるのです。そうした礎の上にノーベル賞はあります。

<だが、日本が今後もノーベル賞を受賞し続けられるかは未知数だ。藤原教授も懸念を示す。>

そもそも、日本の高等教育予算のGNP比はOECD加盟国の中でダントツに低い。その上、日本の科学研究の8割以上を担ってきた国立大学は、国立大学法人に移行しyrから毎年、予算を削減されています。大学の教員ポストと研究費が削減され、地方大学などは息も絶え絶えです。血の滲むような努力の末に博士号を取得した優秀な学生の就職口もなくなります。これが続けば、科学を志す少年少女がいなくなってしまいます。

日本が今後ものノーベル賞を取りたいと考えるなら、費用対効果などという下衆な発想は捨てるべきです。

途方もない無駄遣いを許す風土が金の卵を生み、それこそが、「国家の品格」でもある。誰も有望と思われない研究に惜しげもなく資金を出す姿勢が大切です。山中伸弥教授の「iPS細胞」のような世紀の大発見が、そこから生まれます。(引用終了)

 

豊かな自然に育まれた美的感性とすぐに実利的な成果を求めない鷹揚な精神的風土が日本人の科学を探求する動機を高めたといえるのだ。科学の法則とか原理や数学の公式というものは破綻があってはならず、確かにその姿は美しくなければならないというのは真実であろう。また弱肉強食のぎすぎすした競争社会では余裕のある精神世界は生まれない。

古来から日本人は自然と神話に根ざしたの悠久の宇宙観によって伝統的な美を育んできた。そして江戸時代に泰平社会が長く続き、日本伝統文化は爛熟期を迎えた。美の感性でいえば、たとえば、季語の入った俳諧はすでに句会という形で庶民レベルで広がり、浮世絵の描かれた包み紙が日常的に使われたのは驚きだ。さらに関孝和の高等数学はすでに世界的レベルであったし、当時の蘭学の発達が明治以降の科学の進展を用意したといえる。

そして明治になってから欧米文化を貪欲に吸収したが、学術の分野で自前の育成に努めてきた。藤原氏が指摘するように日本語による翻訳処理は抜群でまるで自家籠中といってよく、学術の発展に大いに寄与したことはまちがいない。

それに引き換え周辺諸国の状況はどうであろうか。

確かに現在日本以上の経済発展を遂げているが、その実態はお寒い限りだ。中国ではそれこそ金権天国といってよい。習近平が虎も蠅も叩くと宣言しているように行政のトップから末端の小役人にいたるまで汚職体質がはびこり、民間レベルでも社会的地位を悪用した不正が横行している。一方韓国ではセウォル号事故に代表されるように経済利益優先で人命軽視ともいえる事故が相次いでいる。共に目先の利益が優先され、長期的に見据えた視点に欠いているように思える。

またその独創性にも疑問符が付く。今や世界の電機メーカーとなった韓国のサムソンは液晶カラーテレビそして最近のスマホでも世界を制覇したが、新興国との価格競争の波に晒され早くもその輝きを失いつつある。技術の独創性に欠け、日本や欧米の二番煎じの印象は拭えない。とても発光ダイオードのような創造的商品を生む素地にはほど遠い気がする。中国に至ってはコピーの横行が常態化しておりその精神的風土は貧弱に見える。

しかし、最後に藤原氏が警告しているように、今後も日本が国家的に十分学術分野を下支えし保護育成できるかどうかが問題だ。現実的な緊縮財政の犠牲になっては元も子もない。たとえば過去民主党政権が行なったような事業仕分けで安易な対象にされては自殺行為ともいえる。いつまでも「途方もない無駄遣い」を許す風土を育んで欲しいと願わずにはいられない。