粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

ノーベル平和賞を弄ぶ人々

2014-10-11 09:29:30 | プロ市民煽動家

注目されていたノーベル平和賞の発表は結局穏当なものだった。途上国の教育推進のために文字通り体を張って尽力してきたパキスタンの少女とインドの市民活動家の受賞は世界が納得するところだろう。

それに引き換え、「憲法第9条を保持してきた日本国民」という候補は全く意味不明で評価不能なものだった。第一、仮にも受賞したら誰が受賞式にオスロに赴き、また賞金をもらうのか。まさかあの「9条の会」でもあるまい。日本政府が一番妥当かもしれないが、安部首相がそれに同意するとは到底思えない。「日本国民」というのはまさに取ってつけたようなもので、対象者が元々不在ということだ。これほど、ノーベル平和賞を愚弄したものはないと思う。

的中率10%程度のノルウェーの民間機関が憲法9条を最有力と予想したがやはり「ガセネタ」であった。現地の国営放送は早くから憲法9条は圏外だと見ていたいだが、こちらがマトモといってよいだろう。所詮前者は民間機関でしかなく、その信用の低さを露呈させた。

それにしても、憲法9条をノーベル平和賞に受賞させようとする運動そのものがいかがわしいと思えて仕方がない。多少は名のある大学教授らが推薦してはいるが運動の実態が全く不明である。これも結局は世にいうプロ市民の暗躍でしかないだろう。そして彼らが目論むものは憲法改正に向けて邁進している安部内閣への牽制である。しかし国内では安部政権の基盤が盤石すぎてなかなか抵抗が困難である。

そこで彼らが考えるのは外圧である。具体的には世界で権威のある公的機関のお墨付きを得ることだ。これには過去に成功体験があった。慰安婦問題で国連人権委員会であの悪名高き「クマラスワミ報告」が採択されたことである。これが世界中で日本を貶める武器になったことはその後の推移をみれば一目瞭然だ。

今回も憲法9条をともかく存続させるために、ノーベル平和賞という世界的な権威を利用して日本の安部政権を揺さぶろうという意図が見え見えであった。しかし、ノーベル平和賞を運営する側はそんな「不純な動機」に影響されることはなかった。その点では国連人権委員会と比べて遥かに健全であるといえる。

おそらくノーベル平和賞の選考委員たちは、本音では憲法9条の選考自体に大いに疑問を感じていて、最初から問題外と考えていたのではないか。日本国内で憲法改正が国論を二分していて一方の主張に与する評価をするのは適切ではないと考えているはずだ。あるいは選考委員自身、国防軍を有するノルウェーの国民として、丸腰の非武装論は非現実的で、実際の国際政治には無益だということを肌で感じているのではないか。

国連人権委委員会では魑魅魍魎の外部団体のロビー活動が働いていた。しかし、今回はそんな圧力もなく、選考委員たちはしっかり自分たちの判断を下したということだろう。まずは同慶の至りだ。