粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

日本が取れて中国・韓国がノーベル賞を取れない理由

2014-10-20 11:01:05 | 一般

ノーベル賞の科学部門では今年は3人の日本人が物理学賞を受賞したが、何かと日本人を貶めることの好きな隣国の中国と韓国は相変わらず賞には無縁だ。この違いはどこにあるのか。数学者の藤原正彦氏が週刊新潮今週号でその理由を解き明かしている。(以下記事引用)

 

<中国籍、韓国籍を持つ自然科学分野でノーベル賞受賞者はいない。ばぜ日本ばかりがノーベル賞を取るのか。>

ノーベル賞の受賞者が輩出する国には2つの条件があります。

第一に、幼少期から成長していく過程で、身近に美しいものがなければなりません。豊かな自然や優れた芸術、文学に触れて美的感受性を養うことが必要です。数学や物理学などサイエンスにとって、美的感受性は知能指数や偏差値よりも大事なのです。

日本は緑の山々、繊細な四季の移り変わりがあります。それ自体が世界的にも大変珍しい。加えて素晴らしい文学、絵画、彫刻も多数存在し、美に触れる機会に恵まれています。

第二に、精神性を尊ぶ風土も不可欠です。要するに金儲けや実用性だけを追求せず、役に立たないと思われても精神性の高いものには敬意を払う土壌が肝要といえます。「万葉集」にしても、日本では1400年も前から一般庶民が腹のたしにもならない歌を詠んでいる、そこに価値を見出すことが何より大切なのです。

多くの科学分野では、100年後に芽が出るか、100年後に実用化するか分らないlことも研究しています。それを単なる無駄と考えてしまったら人類の進歩がないですよね。

中学や韓国にも有能な人材はたくさんいますが、残念ながら彼らの多くは金融関係や弁護士、医者といった「金になる」仕事に就いたり、海外へと流出していく。利益だけを優先すると「無駄」な科学に人材が向わなくなるわけです。

<また、日本人受賞者には「国産」が多い。>

日本は「外国留学しなくてもノーベル賞が取れる」という珍しい国です。こんな国は世界でも米英独仏露び6カ国ぐらいではないでしょうか。

2008年にノーベル物理学賞を受賞した益川敏英さんは、初めての海外旅行がストックホルムでの授賞式でした。少なくとも理工系では、小学校から博士号取得まで日本で研鑽を積んでもノーベル賞をと取れてします。実際、19人の自然科学での受賞者のほとんどはそういう人です。日本にはそれほど優れた教員、研究施設、資料中専門書が揃っているのです。

日本が世界一の「翻訳大国」であるという事実もそれを支えています。明治時代以来、日本人は文学から科学まで、海外の最先端の専門書を次々と翻訳してきました。そこで重要なびが「カタカナ」ノ存在。文献を翻訳する際、日本人は漢字に変えるべき言葉と、カタカナに置き換えるべき言葉を分別して、易々と訳書をつくってしまう。大学院などで、どの分野でも最先端のテーマを日本語で講義できるのです。そうした礎の上にノーベル賞はあります。

<だが、日本が今後もノーベル賞を受賞し続けられるかは未知数だ。藤原教授も懸念を示す。>

そもそも、日本の高等教育予算のGNP比はOECD加盟国の中でダントツに低い。その上、日本の科学研究の8割以上を担ってきた国立大学は、国立大学法人に移行しyrから毎年、予算を削減されています。大学の教員ポストと研究費が削減され、地方大学などは息も絶え絶えです。血の滲むような努力の末に博士号を取得した優秀な学生の就職口もなくなります。これが続けば、科学を志す少年少女がいなくなってしまいます。

日本が今後ものノーベル賞を取りたいと考えるなら、費用対効果などという下衆な発想は捨てるべきです。

途方もない無駄遣いを許す風土が金の卵を生み、それこそが、「国家の品格」でもある。誰も有望と思われない研究に惜しげもなく資金を出す姿勢が大切です。山中伸弥教授の「iPS細胞」のような世紀の大発見が、そこから生まれます。(引用終了)

 

豊かな自然に育まれた美的感性とすぐに実利的な成果を求めない鷹揚な精神的風土が日本人の科学を探求する動機を高めたといえるのだ。科学の法則とか原理や数学の公式というものは破綻があってはならず、確かにその姿は美しくなければならないというのは真実であろう。また弱肉強食のぎすぎすした競争社会では余裕のある精神世界は生まれない。

古来から日本人は自然と神話に根ざしたの悠久の宇宙観によって伝統的な美を育んできた。そして江戸時代に泰平社会が長く続き、日本伝統文化は爛熟期を迎えた。美の感性でいえば、たとえば、季語の入った俳諧はすでに句会という形で庶民レベルで広がり、浮世絵の描かれた包み紙が日常的に使われたのは驚きだ。さらに関孝和の高等数学はすでに世界的レベルであったし、当時の蘭学の発達が明治以降の科学の進展を用意したといえる。

そして明治になってから欧米文化を貪欲に吸収したが、学術の分野で自前の育成に努めてきた。藤原氏が指摘するように日本語による翻訳処理は抜群でまるで自家籠中といってよく、学術の発展に大いに寄与したことはまちがいない。

それに引き換え周辺諸国の状況はどうであろうか。

確かに現在日本以上の経済発展を遂げているが、その実態はお寒い限りだ。中国ではそれこそ金権天国といってよい。習近平が虎も蠅も叩くと宣言しているように行政のトップから末端の小役人にいたるまで汚職体質がはびこり、民間レベルでも社会的地位を悪用した不正が横行している。一方韓国ではセウォル号事故に代表されるように経済利益優先で人命軽視ともいえる事故が相次いでいる。共に目先の利益が優先され、長期的に見据えた視点に欠いているように思える。

またその独創性にも疑問符が付く。今や世界の電機メーカーとなった韓国のサムソンは液晶カラーテレビそして最近のスマホでも世界を制覇したが、新興国との価格競争の波に晒され早くもその輝きを失いつつある。技術の独創性に欠け、日本や欧米の二番煎じの印象は拭えない。とても発光ダイオードのような創造的商品を生む素地にはほど遠い気がする。中国に至ってはコピーの横行が常態化しておりその精神的風土は貧弱に見える。

しかし、最後に藤原氏が警告しているように、今後も日本が国家的に十分学術分野を下支えし保護育成できるかどうかが問題だ。現実的な緊縮財政の犠牲になっては元も子もない。たとえば過去民主党政権が行なったような事業仕分けで安易な対象にされては自殺行為ともいえる。いつまでも「途方もない無駄遣い」を許す風土を育んで欲しいと願わずにはいられない。