粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

モーツアルト「夕べの想い」

2014-04-16 15:09:45 | 音楽

縁起でもない話だが、自分の葬儀でこの曲「夕べの想い」を流して欲しいと思っている。モーツアルトが31歳の晩年?(享年35年)に作曲された歌曲でピアノの伴奏とともにソロで歌われるシンプルな曲だ。自分のブログのタイトルに借用するくらい大好きな曲であるが、モーツアルトの歌曲の中ではゲーテの詩による「すみれ」とともに最高傑作といってよい。

テーマは、自分の葬儀に集まった友人への旅立ちのメーセージであり、日本の歌でいえば「千の風になって」に近いといえるかもしれない。(歌詞の字幕付きの動画がある)事実、曲の中で「おお友よ、私も姿を現し天上の香りをきみに伝えよう」といった、風を連想する歌詞が出てくる。

そして、最後は「一粒の涙を捧げておくれ。そしてああ、決して恥ずかしがることなく、涙を流して欲しいのだ。おお、君の涙は私の身を飾る物の中で最も美しい真珠となるのだから」と、切々と友の胸中に訴えかけるものになっている。

やはり、「夕べの想い」もモーツアルトの曲に象徴される世俗を離れた天上の澄み切った響きで満ちている。この曲を世界的に有名なクラシックの男女の歌手が歌っているが、女性歌手の美しい歌唱が安心して聴ける。多くの女性歌手が美人だ、特にモーツアルトの場合はそうだといったら明らかに贔屓が過ぎるだろうが。

最初CDで聴いたのは日本のメゾソプラノ歌手白井光子のもので、ずっと自分にとってこの曲がベストだと思っていた。しかし、最近これをしのぐかもしれない歌手に出会った。今は本当に便利な時代で、ネットで検索すればいくらでも「夕べの想い」を歌う世界的な本格派歌手の動画を鑑賞することが出来る。

その中で自分にとって二人の女性歌手がベストだと思っている。アーリーン・オジェー(1938~1993)とバーバラ・ボニー(1956~)だ。共にアメリカの歌手だが、年代的には18年の開きがあり、既にオジョーは故人だ。

オジェーは、控え目ながら心を込めて切々と歌っている。母性で包み込むような暖かみと優しさに満ちている。一方、ボニーは透明感があって色彩が鮮明で明快な響きがある。しかし冷たさはなくセーブされた情熱がストレートに伝わってくる。いかにも現代的な響きでオジョーとの世代の違いを感じる。

この「夕べの想い」は、父親の死の直後に書かれている。神童といわれるモーツアルトだが、父親のレオポルトは、幼児の内から息子の天才性を見抜き、その才能を開花させるために自分の人生を捧げてきた。いつか息子が成長するにつれて音楽での生き方に対立が生まれて父子は決別していった。しかし、モーツアルトからは音楽の師、人生の師である父親が脳裏から離れなかった。そんな父親への鎮魂歌がこの「夕べの想い」だとされている。

しかし、この作曲を終えてそれを振り切るかのようにあの明るい名曲が誕生する。モーツアルト好きいやクラシックファンでなくても、日本人ならいや世界中で親しまれる代表曲だ。セレナード「アイネ・クライネ・ナハトムジーク(小さな夜曲)」である。名前は知らなくても聴けばなるほどというあの曲だ。鎮魂の世界からの新たな生の飛翔、二つの名曲に非常にドラマチックな変遷を感じる。

話は余談になるが、モーツアルト家の有名な肖像画がある。姉とピアノの連弾をするモーツアルト、側で父親がその演奏を聴いている。壁には数年前に他界した母親の肖像画が掛けられている。ここでかつての人気アニメを思い出す。梶原一騎の「巨人の星」だ。姉弟の父子家庭、息子への時に厳しい英才教育、父と息子の決別…。巨人の星のモデルはモーツアルト一家ではないかと密かに推測している。

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