粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

曽野綾子さんのきつい一撃

2012-01-19 00:02:44 | 音楽

昨日(18日)の産經新聞、曽野綾子さんのコラムは読んで痛快の極みだった。後半でも特に最終部分だ。

年末から年始にかけて、我が家では、知人の「どうして、テレビであんな幼稚園児のお遊戯ばかりを見てなきゃならないのよ。うちは孫のお遊戯をほめるだけでたくさん」と言う言葉に笑い転げた。

幼稚園児風のグループでも、今はすぐに有名になり、お金を稼げる。今に日本中のミドルティーンは、町内会ごとに48人ずつのグループを作って、踊って暮らすことになるだろう。かれらは大勢でやっと一人前なのだ。

しかし人生のすべてのまともな仕事は、長い年月の地味な修行の結果、「その人でなくては」と世間が評価する形で独り立ちするものだという原則を、親も教師も、たぶん教えていないのだろう。

例の秋葉原を根城にするあの集団のことだ。何事も「粗製濫造」は好ましからず、かりそめの徒花だ。新曲CDを出すと150万枚の「大ヒット」もファンが複数枚買う水増しヒット。実質50万枚とすると48分の1で一人では1万枚の売上げ?超マイナーアイドルに過ぎない。しかし世間は全体の異常な露出に惑わされて過大評価。なかには成人式で彼女たちの曲を祝辞代わりに熱唱する親父市長が喝采される始末。今や「AKBにあらざればアイドルにあらず」の隆盛ぶり。しかしこれを実力だと「勘違い」しては禁物だ。その増長は人生を狂わす。秋元康サン、齢を重ねても美しく凛々しい女流作家の舌鋒をいかに聞く?

AKB48を中核としたアイドル集団は戦後のアイドルの中では、最も没個性で素人ぽいグループだと思う。たとえば80年代と比較してみるとその差がわかる。当時は、ぶりっ子ながら表現力がすぐれた松田聖子、つっぱりで挑戦的だが歌唱力抜群の中森明菜、コミカルとシリアスを巧みに歌いこなし主張もする小泉今日子など多彩なアイドルが百花繚乱の賑わいだった。彼女たちは当時アイドルの「職責」を充分果し、現在も芸能界で確たる位置を築いている。曽野さんのいう長い年月の地味な修行?の結果といえなくもない。

AKB48に代表される女の子たちはどうして同じ髪型で超ミニの可愛こちゃん姿で歌うのだろう。自分には動く人形にしか見えない。最近の若い女性の価値観は、あまりにも「可愛さ」に集約されすぎているように思う。女性にもいろいろな魅力があるはずだ。セクシーさ、知性、野性味、小悪魔的、可憐…などいといろあるのに。これは秋元氏を頂点としたプロデュ―スする側、いわば大人の責任が大きいと思う。今の若い女性にも磨けば眩しく輝く玉石を秘めている子はたくさんいるはずだ。それをただ「可愛さ」だけの基準で選別されることは「角を矯めて牛を殺す」ことになると思う。