一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

過去からの自立

2007年07月24日 | Weblog
 野良猫の親子がマンションの庭で遊んでいるのが見えました。冬の日だまりの中で子猫達が親猫のしっぽで遊んだり兄弟どうしでじゃれあったりしていました。本当に楽しそうでした。私はそれを見ていたら涙がでてとまらなくなりました。野良猫なのでこれからのことを考えたらかわいそうで、涙がでたのもありますが、一瞬たりとも不安から解放されて本当の安心のなかでの時間がもてない自分にも涙がでたのです。
 「正法眼蔵 発菩提心」の巻に次のように書かれています。
「もし刹那消滅せずば 前刹那の悪さるべからず。前刹那の悪いまださらざれば 後刹那の善いまだ現正すべからず。」(もしもこの世が生まれては消え生まれては消えしているような瞬間瞬間の存在でないならば前の悪がいつまでたっても消え去ることはできない。そして前の瞬間における悪がまだ立ち去ってない場合には後の瞬間における善が現実の世界に現れていくことができない。)(注1)過去の悪が消え去らなければ今の本当の安心は得られないと言っているのでしょう。
 また、「正法眼蔵 弁道話」の巻に次のように書かれています。
「この坐禅人、確爾として身心脱落し、従来雑穢の知見思量を切断して、天真の仏法に証会し、・・・・・・。」(注2)(この坐禅をしている人は、確実に本当の自分がでてきて、従来もっていた雑多不純の認識や思惟を切断して、自然かつ真実の仏教的宇宙秩序を体験・理解し、・・・・。)(注3)
 坐禅をすることで、過去のいやな経験の記憶、恨み、ねたみ、が消え去って過去に束縛されない‘いま’が現れると言っています。
 これら二つの引用から次のことが言えると思います。前の瞬間における悪が立ち去ってない場合は後の瞬間における善が現実の世界に現れていくことはできないけれども、坐禅をすることによって、この過去の悪の従来雑穢の知見思量を切断することはできる。
 私が坐禅をやり続けてるのも、日だまりの猫になりたいだけなのかも知れません。

注1:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第9巻 6版」金沢文庫202頁・205頁
注2:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第一巻 9版」金沢文庫20頁
注3:西嶋和夫「正法眼蔵を語る 弁道話」金沢文庫91頁参照