ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。
一点にシューと束ねられていることをあれこれ考えていたら次の言葉に出会いました。
ハイデガーの『存在と時間』に次のように書かれています。
「「存在」は意のままになる概念としてではない。「存在」を問いたずねる場合、問う者であるわれわれが、存在者にほかならない。この存在了解内容は結局は現存在自身の本質機構に属するわけである。」
また道元の『正法眼蔵』(現成公案の巻)に次のように書かれています。
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるというふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」
ハイデガーの「存在」というのは、具体的に私なりに考えてみると、今この瞬間にこころを向けるべきものに関係しているように思われます。また、「仏道をならふ。」というのも、今この瞬間にきちんとこころを向けるべきものに向けれるように修行する、とも理解できるような気がします。
そうした場合、上記でいっていることは、なににこころを向けるかを決めるこころは、ハイデガーならば「現存在自身の本質機構」道元では「自己」のなかにあらかじめ組み込まれているということではないでしょうか。
みるべきものをみているときは、わけもなくこころが落ち着いてあったかな気持ちになります。反対にみるべきものをみていないときは不安でこころが落ち着かなくつめたい気持ちになります。同様に、一緒にいるべき人といるときはあったかな気持ちになり一緒にいるべきでない人といるときはつめたい寂しい気持ちになります。
そういう気持ちになるというのは、上記でいっているように私たちが「存在」の一部であり「万法」の一部であるからみるべきものをみたときは、こころのふるさとに帰ったような安心感を覚えるのかもしれません。
この自分の本質機構であるこころに従ってみるものを束ねていったら潔さとか簡潔に結びつくと思います。カーネーションの花びらが一点にシューッと束ねられているのをみての心地よさは、そういうなににこころを向けるかの潔さも示唆していたのでしょう。
一点にシューと束ねられていることをあれこれ考えていたら次の言葉に出会いました。
ハイデガーの『存在と時間』に次のように書かれています。
「「存在」は意のままになる概念としてではない。「存在」を問いたずねる場合、問う者であるわれわれが、存在者にほかならない。この存在了解内容は結局は現存在自身の本質機構に属するわけである。」
また道元の『正法眼蔵』(現成公案の巻)に次のように書かれています。
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるというふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」
ハイデガーの「存在」というのは、具体的に私なりに考えてみると、今この瞬間にこころを向けるべきものに関係しているように思われます。また、「仏道をならふ。」というのも、今この瞬間にきちんとこころを向けるべきものに向けれるように修行する、とも理解できるような気がします。
そうした場合、上記でいっていることは、なににこころを向けるかを決めるこころは、ハイデガーならば「現存在自身の本質機構」道元では「自己」のなかにあらかじめ組み込まれているということではないでしょうか。
みるべきものをみているときは、わけもなくこころが落ち着いてあったかな気持ちになります。反対にみるべきものをみていないときは不安でこころが落ち着かなくつめたい気持ちになります。同様に、一緒にいるべき人といるときはあったかな気持ちになり一緒にいるべきでない人といるときはつめたい寂しい気持ちになります。
そういう気持ちになるというのは、上記でいっているように私たちが「存在」の一部であり「万法」の一部であるからみるべきものをみたときは、こころのふるさとに帰ったような安心感を覚えるのかもしれません。
この自分の本質機構であるこころに従ってみるものを束ねていったら潔さとか簡潔に結びつくと思います。カーネーションの花びらが一点にシューッと束ねられているのをみての心地よさは、そういうなににこころを向けるかの潔さも示唆していたのでしょう。