中公文庫の『宝積経』を読んでいたら、〈心とは何か〉を考察する美しい言葉と巧みな比喩に引き込まれていきました。もうすでに紀元1~2世紀頃に心にたいする考察がここまでなされていたというのは、驚き以外のなにものでもありません。
次のように書かれています。
「菩薩はつぎのように心をあまねく観察する。愛欲に染まり、憎悪にふるえ、あるいは愚かしくなるというのは、どこ心なのか。
心は砂でつくった家に似ている。無常なものを常住であるかのように考えるから。心は青蠅に似ている。不浄なものを浄らかであるかのように考えるから。心は魚の釣針に似ている。苦であるものを楽であるかのように考えるから。心は夢に似ている。「わがもの」でないものを「わがもの」であるかのように考えるから。心は(精気を奪う)オージャーハーラという鬼神(夜叉)に似ている。常に攻撃のすきをねらっているから。心は敵に似ている。常に弱点を喜びねらっているから。
親愛になったり、逆に憤怒したりして動揺し、心は常に高慢になったり、卑屈になったりする。心は盗賊に似ている。すべての善根を盗み去るから。心は美しい色を喜び、(火に飛び込む)蛾の眼に似ている。心は音声を喜び、戦場における太鼓(がたえず打ち鳴らされて休むひまがないの)に似ている。心は常に香りを喜び、猪が不浄な汚物(のにおいを喜ぶの)に似ている。心は味覚を喜び、味のよい食事を(たとえ余りものでも)喜ぶに似ている。心は感触を喜び、油の皿に(寄っていく)蠅に似ている。
実に、心は内にもなく外にもなく、この両者以外のところにも存在しない。心は形をもたないもの、見られないもの、抵抗のないもの、あらわれ出ないもの、認知されないもの、基底のないもの、名づけられないものである。心はいかなる仏陀によっても見られなかったし、現在も見られていないし、将来もみられないであろう。
心は幻影のようなものである。真実在でないものを分別し、さまざまなあり方をとって生じる。心は風に似ている。遠く行き、とらえられず、姿もなく動く。心は川の流れに似ている。停止することなく、生じるやいなやすぐ消滅する。」(註1)
私たちが心だと思って、自分のいのちを投げ出しても欲しいと何かにしがみついている心、あるいは殺したいほど誰かを憎んでいる心、は存在しないといわれています。
心が存在しないのならば、私たちはいったいどうなってしまうんだろうと、戸惑ってしまいます。心なしでどうやって生きていけばいいのか。
その答えではないのかと思えるのが、『成唯識論』のなかにありました。
「真如そのものの体相を帯びる」(註2)という言葉です。法相宗では「挟帯(きょうたい)する」と表現して、要は真如と一つになることだそうです。「真如」というのは、サンスクリット語で「TATTOVA」といって、真に存在するもの、法性、涅槃ともいわれます。
また、「帯びる」という言葉を辞書で調べたら、〈①見につける。着用する。携帯する。②ある性質、成分、感じ、様子、色などをその中に含む。〉となっていました。「挟」という字は、〈挟む〉という意味もありますが、〈心にもつ、ほこる。〉という意味があるそうです。
「真如そのものの体相を帯びる」ということは、表面的なかたちではない、漂う空気感を醸しだすということでしょうか。坐禅をしているときの、沈黙がもっている空気感です。
真如という真如の醸しだす空気感が自分の身体に染みついてしまえば、自分の心にふりまわされない、真如の醸しだす空気感だけをたよりに生きていけるということかもしれません。
心がなければ、何もないこと、虚しさ、空っぽ、退屈しか残らないのかと考えてしまい心にしがみついて生きていますが、心をなくすことであらわれてくる真如の醸しだす空気感があることを忘れてはならないと思います。
註1:「大乗仏教9 宝積部教典」中公文庫 78~81頁
註2:竹村牧男「『成唯識論』を読む」春秋社 504頁
次のように書かれています。
「菩薩はつぎのように心をあまねく観察する。愛欲に染まり、憎悪にふるえ、あるいは愚かしくなるというのは、どこ心なのか。
心は砂でつくった家に似ている。無常なものを常住であるかのように考えるから。心は青蠅に似ている。不浄なものを浄らかであるかのように考えるから。心は魚の釣針に似ている。苦であるものを楽であるかのように考えるから。心は夢に似ている。「わがもの」でないものを「わがもの」であるかのように考えるから。心は(精気を奪う)オージャーハーラという鬼神(夜叉)に似ている。常に攻撃のすきをねらっているから。心は敵に似ている。常に弱点を喜びねらっているから。
親愛になったり、逆に憤怒したりして動揺し、心は常に高慢になったり、卑屈になったりする。心は盗賊に似ている。すべての善根を盗み去るから。心は美しい色を喜び、(火に飛び込む)蛾の眼に似ている。心は音声を喜び、戦場における太鼓(がたえず打ち鳴らされて休むひまがないの)に似ている。心は常に香りを喜び、猪が不浄な汚物(のにおいを喜ぶの)に似ている。心は味覚を喜び、味のよい食事を(たとえ余りものでも)喜ぶに似ている。心は感触を喜び、油の皿に(寄っていく)蠅に似ている。
実に、心は内にもなく外にもなく、この両者以外のところにも存在しない。心は形をもたないもの、見られないもの、抵抗のないもの、あらわれ出ないもの、認知されないもの、基底のないもの、名づけられないものである。心はいかなる仏陀によっても見られなかったし、現在も見られていないし、将来もみられないであろう。
心は幻影のようなものである。真実在でないものを分別し、さまざまなあり方をとって生じる。心は風に似ている。遠く行き、とらえられず、姿もなく動く。心は川の流れに似ている。停止することなく、生じるやいなやすぐ消滅する。」(註1)
私たちが心だと思って、自分のいのちを投げ出しても欲しいと何かにしがみついている心、あるいは殺したいほど誰かを憎んでいる心、は存在しないといわれています。
心が存在しないのならば、私たちはいったいどうなってしまうんだろうと、戸惑ってしまいます。心なしでどうやって生きていけばいいのか。
その答えではないのかと思えるのが、『成唯識論』のなかにありました。
「真如そのものの体相を帯びる」(註2)という言葉です。法相宗では「挟帯(きょうたい)する」と表現して、要は真如と一つになることだそうです。「真如」というのは、サンスクリット語で「TATTOVA」といって、真に存在するもの、法性、涅槃ともいわれます。
また、「帯びる」という言葉を辞書で調べたら、〈①見につける。着用する。携帯する。②ある性質、成分、感じ、様子、色などをその中に含む。〉となっていました。「挟」という字は、〈挟む〉という意味もありますが、〈心にもつ、ほこる。〉という意味があるそうです。
「真如そのものの体相を帯びる」ということは、表面的なかたちではない、漂う空気感を醸しだすということでしょうか。坐禅をしているときの、沈黙がもっている空気感です。
真如という真如の醸しだす空気感が自分の身体に染みついてしまえば、自分の心にふりまわされない、真如の醸しだす空気感だけをたよりに生きていけるということかもしれません。
心がなければ、何もないこと、虚しさ、空っぽ、退屈しか残らないのかと考えてしまい心にしがみついて生きていますが、心をなくすことであらわれてくる真如の醸しだす空気感があることを忘れてはならないと思います。
註1:「大乗仏教9 宝積部教典」中公文庫 78~81頁
註2:竹村牧男「『成唯識論』を読む」春秋社 504頁