一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

阿羅耶識 執受

2010年05月23日 | Weblog
 唯識の文献で400年頃いっていることと、1900年代に分子生物学がいっていることが同じであることが実に面白いなと思いました。

 阿頼耶識について『唯識三〇頌釈論』に次ぎのような言葉があります。

「此識の行相と所縁とは如何。謂く、不可知の執受と 處と了なり、と。」

 阿羅耶識の働きというのは、執受だというのです。執受というのは私たちの身体を維持保持するということで、維持保持ということは流れです。流れということはそこにエネルギーが発生します。

 また阿羅耶識は 處なりとなってます。 處というのは私たちが置かれている環境世界のことです。

  だから阿羅耶識といういのちの基盤は、私たちの身体と環境世界の交流の流れから発生するエネルギーの蔵と私なりに解釈しています。

 
 上記のを、分子生物学者の福岡伸一氏の言っている言葉と比べて見ます。

「生命現象の本質は、流れである。エネルギーと情報の流れ。生命現象の本質は物質的な基盤にあるのではなく、そこでやりとりされるエネルギーと情報がもたらす効果にこそある。」

 個体が環境とエネルギーや情報を交流する流れのなかにこそ、生命現象の本質はあるといっています。

 このように『唯識三十頌釈論』でいっていることと、分子生物学者の福岡伸一氏のいってることは同じことをいっているように見えます。

 いのちの基盤になっているこころは、感覚器官を含む身体と環境世界の流れから生まれるといわれても、私たちは外の空気を吸って呼吸し、外に排泄し、外から食べ物を補給し、そんなの人間なら当たり前のことで何も仏教でいうほどのことでもないだろうとなります。

 でも真実の自己をいうものを考えたとき、われわれは事実、目をもっているにもかからわず、この目をふさいで「世の中はまっくらだ、まっくらだ」といっています。いま事実、目を開ければた太陽は燦然と輝いています。

 また私たちは世間との関係、世間体、世間的評価のなかで自分を見出しています。そうすれば同僚は「競争相手」、金持ちに対しては「貧乏」、「あんないいもの」に対しては「買えない」、勝者に対しては「敗者」、社会に対しては「無力」等々の規定をもった自分を見出すでしょう。

 もしこのような規定においてばかり、自分というものを意識しているとしたら、これはもう、劣等感によってノイローゼにならないのが不思議だといわなければなりません。

 でも私のこころにもこのような劣等感が根強くあって、太陽の輝きを曇らせてしまっています。

 いのちの固体存在の基盤となる阿羅耶識というものの対象と働きのキーワードが身体・環境世界・流れ=エネルギーという言葉です。

 私たちを動かすエネルギーは、世間との関係でもなく、私をうまい具合におさめる言葉でもなく、私たちが置かれている環境と自分の身体の交流のなかから生まれるエネルギーと言うことになります。

 私たちが置かれている環境と自分の身体の交流から生まれるエネルギーは、小さな自分の思いを越えた無量無辺の大自然的生命であり、くだらない凡夫の思いを越えた仏の力だと思うのです。