一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

究極の洗練された生き方(妙用(みょうゆう))

2010年04月23日 | Weblog
 唯識で、唯だ心が現れているにすぎないという「唯」とは外界の対象物を否定するためといわれます。

 目に見えているものを否定したということは、それ以外に優先順位一位にしなければならないものがあるというために、目の前のものを否定しているはずです。

 私は日常生活でものをみてカワイイーということはよくあるけれども、日常の仕事をしていてカワイイーレベルの感嘆詞がでることはありません。皿洗いをしていてタノシーなんてことはありえません。だからいかに物に重点をおいて対象にしているかがよくわかります。 

 この問題を考えているあいだ、いろいろなからくりに合わせて動いているからくり人形が思い浮かんだのです。

 空の雲は流れていますが、雲はいろいろな条件下であっちにいったりこっちにいったりして動かされているだけです。

 私たちも宇宙という舞台全体で、これがこう動いたらこちらの此の部分がこう動いてみたいに宇宙ひとつのなかですべてが関係して動くようなからくりのなかで動かされているからくり人形です。

 ただ動かされているだけです。

 私は唯識で唯心が現れているにすぎないといって目の前のものは存在しないと否定したのは、この動かされているだけのなかに真実があるといいたかったのではないでしょうか。

 からくり人形を動かしてる仕組みが真実なのではなく、からくり人形として動いているさなかに感じる妙用(みょうゆう)こそが真実だと思うのです。