カメレオンの独り言

当分は漫ろ言の漫ろ歩き、頭に浮かんだ事柄を挿絵と写真と下手な文で綴ります。色々と間違い多いですがご容赦を。

カメレオンの独り言-1784 『懐かしの大阪堺筋を北から南、思い出しては行ったり来たり迷ったり』

2017年03月23日 | 日記






 『堺筋 1973年(昭和48年)』 2017年3月23日







大阪市堺筋の昔懐かしい写真ってありそうで無いね。南は阿倍野天王寺から霞(かすみ)町、恵美須町、日本橋五丁目、四丁、三丁、二丁、

で日本橋筋一丁目、道頓堀(日本橋)八幡筋、周防町、長堀橋、南久宝寺、内本町、平野町、高麗橋、北浜二丁目、樋之上町、鳴尾町、

南森町、扇町、天神橋筋五丁目、天神橋筋六丁目、七丁目、八丁目で長柄橋、記憶では、そうなってるはずだけど抜けてるかな?





町名が、今では変わってる処がある。霞(かすみ)町は一緒だったかね? 難波橋を北へ渡って樋之上町、今は西天満一丁東となってる。

樋之上町を右に曲がって次の左折れの辺りを鳴尾町って呼ばれてたはずなんだけど、今は、天神橋筋一丁目になってるね?

天神橋筋一丁目には違いないんだけど、当時は、この辺りを鳴尾町って市電の駅名で通ってたよ。勝手に変えてはいかんよ。「知らんがな」













『中之島 手前から二本目の橋が難波橋、左手、証券取引所ビル(白い丸形)右手に渡って樋之上町』 昭和30年頃










『右手、堺筋を難波橋を渡り右に曲がって左に折れて天神橋筋六丁目に向かってる』 大正時代発行の地図だよ










『難波橋』 1959年(昭和34年) 難波橋を南へ堺筋 左上、東横堀川の上は空が見えてるよ、高速道路建設前だね









この堺筋を全般に見るところ、もう、昔(昭和20~60年代)を想い浮かべる街並みなんて皆目見当たらないんじゃないかね? 

大雑把だけど現存してる建物は日本橋筋三丁目の松坂屋(現高島屋別館)と、其の並びのヤマギワは、まだ在ったかねえ?

日本橋筋一丁目南東角の住友銀行、其の向かい南西角の鎌田特許ビル。黒門市場は、大阪の台所、ごちゃごちゃ邪魔すんな。「それはどういうことや?」













『日本橋筋一丁目の交差点、向こうに鎌田特許のレンガ造りのビルが見えてる その向こうに千日デパート』 オレ、この写真、大好き。








北へ上がって平野町の小西六の屋敷のような建物、生駒時計店ビル、高麗橋野村ビルと其の向かいの三井住友銀行の建物が古いね。

今橋交差点を北へ二つ目の新井ビル「綿業会館」も古いまま、其の斜め北側、北浜二丁目の証券取引所ビルが変わらずに在る。

1970年(昭和45年)市内のほぼ中央を東西に通る幹線道路13号東大阪線の下に船場センタービルが出来た。記憶の中間だね。













『北浜二丁目交差点 難波橋に向かってる』 1966年(昭和41年)










『北浜二丁目交差点 堺筋に交差する側の市電』 1968年(昭和43年)










『本町船場センタービル』 上を13号東大阪線、下に船場センタービル工事中 1969年(昭和44年)








もう、そんなもんじゃないのかねえ? 平野町のイトーキビルのように装いがコロッと変わって見た目じゃ解らない。

駿河屋総本家もなくなった。平野町東に入った化粧品販売のお店もない。ポーラの美しい店員さんは何処へ行ったのかね? 

高麗橋の三越も無くなってしまったしね。平野町の北西角に八千代証券が在った。持ちビルかどうかは解らないけど消えたね。














『感動の写真だよ、本町二丁目の南西角の第一銀行のビル、つい最近まで在ったんだけどね、消えちゃったよ』1966年(昭和41年)








ビジネス街の真ん中なんだけど、昔、隣の店長さんが釣り道具買うのに付き合えよって云うから、アイヨって付き合った。

商売の合間だったから近場で間に合わせ。「あのビルん中に釣具屋があるの」って誘うの。場違いな処にあるんだなあって思いつつ

此のビルん中へ入ったね。一階だったと記憶する。「〇〇ちゃんも買えよ」って云うから、生まれて初めて釣り道具を買ったよ。





そん時は、何がなんだか解らんままに子供用のボロ釣り道具を手にしたよ。解らんってことは実に滑稽ではあるけど感動なんだよ。

でも、此の竿で超デカいウナギを釣ったよ。慌てふためいて滑って引っ繰り返ってズボンのケツ破いたよ。播州赤穂の海岸だった。

其れからだね、オレが釣りに目覚めて、もう、女も酒もクソもない、ただ只管(ひたすら)に釣りの世界に没頭したきっかけだったよ。





だから、此のビルの存在は特別なんだよ。まあ、謂わば孤高の釣り師の誕生の地だね。ただ、なんか場違いだったのが印象深いよ。













『本町通り』 1960年(昭和35年)









『本町通り』 1967年(昭和42年)








考えたら、オレって変わってるね。「考えなくても変わってるよ」そうだね、独り愉しんで幸福感に満ててたよ。

苦しいことばかりなのに、其れ如きを 「苦労」なんて嘆くもんじゃないと言い聞かせて生きてたよ。

実際、苦労なんてのは、救いのない状況であってこそ苦労であって、なにかしら救われる恩恵で生き長らえたって感謝の方が大きいよ。





「今は?」 そうだね、稚拙な駄文を一生懸命に書いて自分の世界に浸って愉しいのには変りがない。誰かが笑ってくれてるよ。

釣りの世界で、自分の世界で、自分なりに愉しみ見つけて生きて死ぬ、オレ如きは、それで充分ではないかと思うんだね。

言葉にならぬ思いは、心の疎通を感じ取り胸に畳んで仕舞い込みオレが温めて守ってやればいい。笑って会えるのは、そう遠くはないからね。













『堺筋長堀の丸善石油ビル』  










『堺筋長堀の丸善石油ビル』 船場から見る 1968~9年(昭和43~4年)










『堺筋周防町角の福徳相互銀行』 船場から見る 1968~9年(昭和43~4年)










『堺筋長堀交差点』 1961年(昭和36年)










『堺筋長堀交差点手前』  上の写真と同年頃 








戻って、長堀橋手前の丸善石油も消えた、うん、其の向かい斜めの日産プリンスビルも今は無い。長堀橋が川とともに消えた。

記憶を辿って周防町の北西角に大きな福徳相互銀行が在ったね。其の筋向いに富士銀行も在ったけどともに無くなって久しい。

其の南西角には、タカラのビルが大きくなって現存してる。もう、流石に古風なままの商店なんて影も形もないに等しい。





湊町、上本町六丁目間の約2kmを対象に、現道23mの北側に27m用地を買収して全幅50mに拡幅する計画があった。

日本橋筋一丁目の千日前通りも湊町から上本町六丁目までの北側の街並みは、全て立ち退きになって道路が大幅に拡張され

思い出に残る昔の姿は跡形もない。向かい側の南側街並みには、なんとか昔を偲ばせる建物が所々に残ってはいるね。





ちょっと逸れて、今の日本橋筋一丁目の北側街並み沿いに 「玉製家」っておはぎ屋さんが在る。1970年万博の都市計画で

50m幅に道路を拡張された千日前通りの北側街並み沿いなんだけど、この 「玉製家」のおはぎ屋さん、行列のできるお店になってる。

当時、おはぎを土産に買って帰るのが通例だった。小さな綺麗なお店だったけど、あれから、もう、45年近く経ってる。





お店は、今じゃ年季が入って老舗の風情を醸してる。ネットで拝見すると「玉製家のクチコミ」で人気のほどが伺える。

記憶が定かじゃないけど、この 「玉製家」は、拡張工事前まで千日前交差点の北東角辺りに店を張られていた「君が代」さんだと思う。

創業明治30数年の老舗で静かな昔ながらの佇まいのお店だったと思うんだけどね。立ち退きになって日本橋筋寄りに移転されたと記憶する。













『千日前通り 1959年(昭和34年)』 向かって左側、北側街並み立ち退きで消失したね。手前左の白い車の前辺りに「君が代」







其の記憶の出どころも至って頼りないんだけど、当時は心斎橋筋や道頓堀通り、戎橋筋、千日前筋の散歩帰り、家族でよばれに入った。

顔馴染みさんの客だった。新しいお店になってからは、息子さんだったかね? 映画帰りに覗いては、おはぎを買って帰ったよ。

何度か過去に書いてるけど、いつものようにおはぎを土産に買おうと、何気に日本橋筋の交差点に目をやると、路肩辺りで年配のおじさんが





夜空を見上げて凝視するように動かない。つられてオレも夜空に目を移して、其のおじさんの視点に合わせて吃驚したんだね。

晴れた紺色の夜空に光る一つの星が動いてるんだね。ええっ? スーッと走って止まり、直角に曲がって、またスーッと走るの?

他の星はジッとしてる、でも、この星は、また、直角に走るんだよ。此れは、見た者にとっては一大事だよ。





3度か4度、鎌田特許ビルの上空を直角に曲がって北の空、道頓堀の方角にスーッと走り出したから、さあ大変、

オレもオジサンの後を追って走ったよ。交差点から一筋目の細い横丁を見上げて上空を一直線に走りゆく星を追ったんだね。

この時は、其れどころではなかったからおはぎのお土産買うのを忘れたよ。何度も話してるからこの話は終わり。UFOは実在するね。





「玉製家」のおはぎは、「君が代」当時から、新しく移転されて営業続けて、其の味は伝家の宝だね、変わらず美味い味の歴史を守られてる。













『新今宮駅、環状線と明記されてる辺りの角地(空き地)が天王寺車庫の跡地になる』










『写真は南方面向き、右手車道が堺筋、天王寺車庫内に市電が見える』 向かって左手がジャンジャン横丁のアーケード、其の隣が動物園







記憶が定かじゃなかったけど浪速区霞(かすみ)町2丁目に在った大阪市電天王寺車庫、オレの記憶では霞町車庫とばかり思ってたよ。

1912年(大正元年)から1967年(昭和42年)1月16日まで此の地に在ったんだね。

市電が廃止になって、其の後、市営バスの操車場に転用されてたらしい。なんか市電車庫がずっと在ったような気がしてたんだけどね。













『天王寺市電車庫(霞町)の跡地』 市営バスの操作場に転用されてたらしい







で、1997年(平成9年)に娯楽、商業施設の都市型立体遊園地「フェスティバルゲート」が開業したらしい。で、ヘボったらしい。

なんか、此処は冴えない遊園地のイメージが残ってるよ。で、早々に消えちゃったんだね。

長く不明の記憶の所在と湧いて出たような遊園地の所在が一致して快便の如しだよ。霞町車庫じゃない市電天王寺車庫の歴史が解ったよ。





親父の仕事の配達で、毎度、あちこち走ってたけど目に付かない処ってあるもんだね。恵美須町辺りでは記憶に留まるものがあった。

まあ、オレは一心不乱で仕事に集中するタイプではあったからね。行かねばならぬっ、これだね。

天王寺への坂道駆け上がる時のしんどいこと。其の代わり帰りは旋風の如き走りのオレではあった。まあ、時代は後先するけどね。













『阿倍野アポロ映画館』 1957年(昭和32年)










『阿倍野 天王寺駅前』  1965~1968年








時代は転じて、今の日本橋筋3丁から5丁目かね、電気街の勢いは遠く昔の話になりそうな按配だね。

東京から大阪梅田にヨドバシカメラが出店してからかね? 町の電気屋さんは牙を抜かれたように勢い失せて廃れ往く一方って感じだよ。

グーグルマップで電気街を走り抜けると沢山在ったはずの大きな赤いジョーシン(セイデン?)の看板が無くなってることに気がついた。













『日本橋筋三丁目 松坂屋前』










『堺筋日本橋筋デンデンタウンを俯瞰』 1990年(平成2年)







大手が撤退すると火が消えたようだよ。シャッターが降りたままのお店がやたらと目立つ。

3丁目の旧松坂屋、今は高島屋別館だけど、其の南へ並びのヤマギワに気づいて見たけれど、もう、無いね。ホテルのビルに変わってる。

時代が、音もなく押し流して往くんだろうかねえ? 其の前の脇通りを覗き見ると松屋町筋、変わらぬのは生玉並びの寺だけだね。





なんで、堺筋かと云うとだね、アッと驚く変わりように声も出ないよ。何処とも変わって往くのは仕方がないんだろうけど、

オレにとっては、この変わりようは人を馬鹿にしておるよ。堺筋を北へ、北浜二丁目の証券取引所ビルを右に見て難波橋を渡る。

もうちと、昔の風情を守れよ。此処どこってくらいの変わりようには、人の思いを足蹴にしてるよなもんだよ。













『難波橋』 1930年代とある 昔ながらの樋之上町が映ってるね まあ、戦前戦後、其れなりに変貌した後ではあるけどね







市電に揺られて橋を渡ると加速度Gの恐怖感に陥れるような猛スピードで急勾配かと感じさせるような走りをもって右コーナーへ突進、

曲がる時の運転手の職人芸、ガアアアーって止まらない。あの樋之上町のコーナーだね。

吊り皮が一斉に右へ左へ踊るように振り回される。ガアアアーって凄まじい走りを見せて次は左コーナーへ加速度Gの値はどれぐらいかね?





車掌さんの 「鳴尾町ぉぉうー」 駅名案内の声も緊張しておるんではないか? 記憶は定かでないけど、このコーナーから次のコーナーの間、

運転者さんは、のってるねって感じではなかろかね? 誰も文句は云わせないっていう運転技術に酔ってるよ。

「樋之上町に停留所はなかったか?」 そんなもん、運転手に聞けっ。何故か、此の樋之上町から鳴尾町までの市電走行の荒技だけは印象深い。





もう一か所、港町だったか、湊町だったかなあ? 市岡のほうだったかなあ、広い車道を暴れるようにして走る処が在った。

線路から外れるんじゃないかってぐらいの暴走を見せてたね。樋之上町と同じく並び揺れる吊り皮の振りが尋常じゃないんだよ。

まあ、今は樋之上町の話に戻ろう。そのぐらいに印象深いこの地の変わりようはなんなんだよお~。













『当時の市電車内風景』










『難波橋』 戦前の写真 







樋之上町のコーナーには幾本かの脇道が在ったのかねえ? 振り回されてるから辺りの状況が把握されぬままに通過しちゃうんだよ。

二階建ての昔ながらの佇まいが並んでる。漠然とした街並みの姿は、そのままに漠然として記憶に残ってる。

しかし、ようもこんなけ変えたもんだね、西天満一丁東。樋之上町は何処行った? 橋を渡ったら知らん街に変わってる。





なんで、三差路か? 広々と交差点になって四差路、五差路? 好きな方へ行けってなもんだよ。市電の運転手も迷うがな。

ガアアアー、ガリガリガリって操縦桿回して変更したりプッシュ~ってガス抜いたり噴いたり腕の見せ所だよ。向かい合わせの長椅子に腰掛けて、

ぶんぶん振り回される吊り皮見上げつつ、少し不安気な顔して足で踏ん張って振られて転ばぬようリキ入れて客も気合が入っていたよ。





年配のおっさんが欲求不満かなんか知らんけど、昔、駅員さんに偉そうに勝手云う奴なんかおらなんだ。遠い昔の暴走運転手が懐かしいよ。













『霞町 天王寺市電車庫手前にして堺筋を北へ』







オレ流ではあるけども堺筋全般を一気に書き上げるのは、やっぱり、無理があるね。なんでか云うとあちらこちらとコソ泥して写真掻き集めて

どれがいいかなって迷うだけでも大変だよ。一旦、集めたファイルの小さな写真からだから目が疲れる。

選んだら、写真サイズを揃えて汚い写真をなんとか綺麗に生き返らせて、レイアウトを考えるというほどのものではないけれど、





兎に角、或る程度は見栄えよくしてだね、駄文の字数とバランスとって貼っていくのは、意外と疲れてしまうんだね。

好きなことしてるから面白可笑しく書いてるけど話を読み易くしないと見る方も疲れてしまって共倒れしてはいかんから気を使う。

なんでも一気に仕上げるのが好きだから短期決戦で片付けようと意気込むんだけど時間ばかりが先走りしよるから、こらっ待たんかえっ。





もっと、早くから仕上げればいいんだけれど、人間は、何かと用事もあれば、どうでもいいこと考えながら煙草も吸ったりしてボ~ともする。

更新は、隔日の予定で進めてるから気分的にはゆとりは有るにはあるんだけど、考えたら、なんでオレは止まらないのかが不思議だよ。

ここは、はたと考えねばいかんのかも知れん。そんなに急いで何処へ行くの? もうすぐ、6年が経過して7年目に入る日も近い。





ここらで、進め具合を緩めてだね、自分と向き合う時間も大事かも知れん。 「どう、向き合うねん?」 う~ん、

自分を大事にすることではないかいなと思ったりするんだよ。今更だけど、自分を大事にしてこそ人をも大事にできるんじゃないかなってね。

寒さも緩んで春の温もりのなかカメラを持って外に出ようか。


































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