カメレオンの独り言

当分は漫ろ言の漫ろ歩き、頭に浮かんだ事柄を挿絵と写真と下手な文で綴ります。色々と間違い多いですがご容赦を。

カメレオンの独り言-1040 『嗚呼、神風特別攻撃隊』

2014年02月05日 | 日記







 明日(2/5)の分です。








神風特別攻撃隊は、今から70年程前、昭和19年(1944)10月20日に最初の攻撃隊が編成され、昭和20年(1945)8月15日の終戦まで続いた。

特攻の父と呼ばれた大西瀧治郎海軍中将が、特攻隊編成直後、涙ながらに語った言葉がある。「特攻は外道である」

「しかし、特攻により敵を追い落とすことが出来れば七分三分の講和が出来る。そのために、特攻を行ってでもフィリピンを最後の戦場にしなければならない」







このとき、日本は、重油・ガソリンが半年も持たぬ程に欠乏しており、軍需資材も底をつく状況に追い込まれて、全ての機能が停止する直前にあった。

幾多の戦いでベテランの操縦士を数多く失い、ようやく単独飛行に達した練度の者が、通常攻撃で戦果を上げることに期待は持てぬ実情から、

250キロ、500キロ爆弾諸共、特攻するしか手段はないとの見方が強まったんだね。







目標は、敵空母。艦載機の離着陸を不能にすることが戦局打開の鍵を握っていた。

特攻やむなしを唱える参謀等の中に一航艦首席参謀猪口力平が、郷里の道場である「神風(しんぷう)流」から名前を取り、特攻隊の名称を「神風特別攻撃隊」と提案し、

同幹部、201空副長・玉井浅一中佐も「神風を起こさなければならない」と同意して大西海軍中将がそれを認めた。故に「しんぷう」とも「かみかぜ」とも云う。





















特攻は、志願が前提とされたが、航空隊には、血気盛んな若者たちも居れば、冷静に戦局を読み取り無謀なる作戦と失望するものも居たろうね。

敵は、南太平洋の島々を駆逐して本土に向っている。大陸方面も穏やかではない。止めなくてはならない。銃後の人々を、国を守らねばならない。

気運は、一矢(いっし)報いて興国の礎(いしずえ)にならんと高まれば、此処に至りて逡巡できぬと「行こう」と挙手する自分が居るんだろうね。







今日は、なんで太平洋戦争(第2次世界大戦)なのか? 何気にネットをウロウロしていて目頭熱くなって、ホロリと落涙させられた動画を見たよ。

神風特攻隊員 大石清伍長「妹への手紙」の遺書なんだね。

飛行学校を卒業した大阪府出身の大石清伍長は、昭和20年3月13、14日の大阪大空襲で父を失い、重病だった母も亡くした。







肉親は、小学生の妹一人、大石静江という。兄の清が駐屯地に赴いたあと、叔父の元に引き取られるんだね。

妹思いの兄は、給与のほとんどを妹に送金し手紙を遣り取りするんだね。「静ちゃん、お便りありがとう、なんべんも、なんべんも読みました」

「お送りしたお金、こんなに喜んで貰えるとは思いませんでした」「神棚などに供えなくていいから、必要なものは何でも買って使ってください」







「兄ちゃんの給料は、うんとありますし、隊に居るとお金を使うこともありませんから、此れからも静ちゃんの財布が空っぽにならないよう毎月送ります」

「では、元気で、叔父さん、叔母さんによろしく」

戦況の悪化に依り、鹿児島県の知覧のみであった特別攻撃隊の飛行場は、此の飛行場の補助として造られた万世基地からも、

昭和20年3月29日から終戦まで飛行第66戦隊、飛行第55戦隊から特攻機が出撃し続けた。





















その万世基地に、同年5月20日、大石清伍長が到着、其の数日後、次の遺書を、整備担当であった大野沢威徳に預け出撃、散華した。

「懐かしい静ちゃん、お別れのときがきました。にいちゃんは、いよいよ出撃します。この手紙が届く頃は、沖縄の海に散っています」

「思いがけない父と母の死で、幼い静ちゃんを独り残していくのは、とても悲しいのですが、許してください」







「兄ちゃんの形見として、静ちゃんの名で預けていた郵便通帳とハンコ、これは静ちゃんが、女学校にあがるときに使ってください」

「時計と軍刀も送ります。これも木下の叔父さんに頼んで、売ってお金に換えなさい。兄ちゃんの形見などより、これからの静ちゃんの人生のほうが大事なのです」

「もう、プロペラが回っています。さあ、出撃です。では、にいちゃんは、征(ゆ)きます。泣くなよ静ちゃん、がんばれ」





















この遺書を預かった整備担当の大野沢威徳は、次のような手紙を添えている。

「大石静恵ちゃん、突然、見知らぬ者からの手紙で驚かれたと思います。わたしは、大石伍長殿の飛行機係りの兵隊です」

「大石殿は、今日、見事に出撃されました。其のとき、此のお手紙をわたしに預けていかれました。お届けいたします」







「大石殿は、静恵ちゃんの作られたお人形を大変大事にされておられました。いつも、其の小さなお人形を飛行服の背中に吊っておられました」

「他の飛行兵の方は、みんな腰や落下傘の縛帯の胸にぶらさげて居るのですが、伍長殿は、突入する時に人形が怖がると可哀想と云って

おんぶでもするように背中に吊っておられました。飛行機に乗るために走っていかれる時など、その人形がゆらゆらと、すがり付くように揺れて

後ろからでもひと目で、あれが、伍長殿と、すぐに解りました」





















「伍長殿は、いつも静恵ちゃんと一緒に居るつもりだったのでしょう。同行二人、仏さまの言葉で、そう云います」

「苦しいときも、寂しいときも、独りぼっちではない。いつも仏さまが、傍(そば)に居て励ましてくださる」

「伍長殿の仏さまは、きっと、静恵ちゃんだったのでしょう」「けれど、今日からは、伍長殿が、静恵ちゃんの仏さまになって

いつも、見ていてくださることと信じます。伍長殿は、勇敢に、敵の空母に体当たりされました」

「静恵ちゃんも、立派なお兄さんに負けないよう、元気を出して勉強してください。さようなら」





















幼い妹を独り残して逝く大石伍長の悲痛な句が残されている。

「妹のことを叔父に頼み、新宮駅にて訣別。妹泣く、叔父上夫婦も泣く、せめて、あと数日、妹の傍らにおりてやりたし」

終戦まで、あと三ヶ月前の5月20日、特攻出撃。 静恵11歳、兄、清の年齢が定かでないが、航空学校卒業から測って17、8歳とある。







兄の気持ちを推し量れば、涙が溢れて止め処ないね。まだ、少年じゃないか、なんたることかねえ。酷い時代だったんだね。





















大西海軍中将の強引な特攻隊拡大に批判的な幹部もいたが、大西は「今後、作戦指導に対する批判は許さん。反対する者は叩き切る」と指導した。

1944年10月27日、大西によって神風特攻隊の編成方法・命名方法・発表方針などがまとめられ、軍令部・海軍省・航空本部など中央に通達された。

そして、神風特攻隊は1945年8月15日の終戦まで続き約4000名の若者たちが肉弾特攻で散華した。







海軍航空特攻隊員:2531名、陸軍航空特攻隊員:1417名。

特殊潜航艇隊員、回天特攻隊員、震洋特攻隊員、丹羽戦車特攻隊員、陸軍海上挺身隊員ら、

小型潜水艦や戦車らをもって特攻した者を含めば、計14009名を数える。







空中戦を想定して設計された零戦機は、重量を押えて製造されているため250キロ、500キロの爆弾を抱えて目標に突入態勢に入ると

機が浮き上がって進路固定が難しくなるらしい。つまり、あの図体のデカい空母にさえ照準が利き難(にく)いんだね。

そして、敵艦の十字砲火の雨あられの弾幕が行く手を阻んで、目標物に特攻命中の確率は、9分の1と日本海軍の想定だったらしい。





















特攻を、今流のテロと同様に云う馬鹿が居る。戦争だよ。無差別じゃないんだよ。敵の侵攻を止める手立てのない断末魔の戦いだよ。

多くの若者が、純粋に、親や兄弟や妻や子供等を守るために、国を守るために、死に物狂いで戦ったんだよ。

こと此処に至れば、もう、思想云々じゃない。ひたすらに、愛するものを守るための人間の戦いだよ。







終戦後の1945年8月16日、神風特攻隊を創設した大西瀧治郎海軍中将は 「死をもって旧部下の英霊とその遺族に謝すること、

後輩に軽挙は利敵行為と思って自重忍苦し、日本人の矜持も失わないこと、

平時に特攻精神を堅持して日本民族と世界平和に尽くすように希望する」 旨の遺書を残し割腹自決した。










 『大西瀧治郎海軍中将』










それでいいんですよ。これ以上ない責任の処しようですよ。武士道、此処に極まれりだね。靖国の英霊の皆さんに笑って会いに往けますよ。
























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