カメレオンの独り言

当分は漫ろ言の漫ろ歩き、頭に浮かんだ事柄を挿絵と写真と下手な文で綴ります。色々と間違い多いですがご容赦を。

カメレオンの独り言-1469 『見るとこで雰囲気変わるガスタンク』

2015年08月27日 | 日記






 2015年8月27日






今日は、やたらとお客さんが来られて、お相手してたら知らぬ間に就業時間になってたよ。ああ~口が疲れたあ~。

台風15号がえらい遠回りして上がってきて、沖縄、九州で暴れて日本海に抜けたね。

ダブル台風がどうたらこうたら前宣伝ばかりが大仰だね。16号なんか太平洋でカーブ切りすぎて、どっかへ行っちゃったよ。





15号の右半球は風が猛烈なんて云うから天気図見てたら大阪ヤバイって思わせるんだけど北へ抜けちゃったよ。脅して遊んどんかえ?

「来ないことは幸いじゃないか」 まあ、そうだけどね、バチが当たるね。朝から、其れらしい風は吹いてはいたけどね。

北朝鮮と韓国が一触即発、チャンワン、チョンヤン話し合いで危険回避したね。「怒られるぞ、なにがチャンワン、チョンヤンや?」 聞いた感じだよ。





同胞同士が憎しみあって、チョーグアンコンチョロマンチョロ、スオーロモンテンヤッなんて、こき下ろして因果な国だね。「それは、なんやねん?」

今日はね、話題がないんだよ。仕事の接客で喋くりまわしたから気合が抜けてしまったよ。

今日も、思い出話しで逃げようか? 映画を観たいんだけど時間が無い。観たら、なんなと感想がてら話も湧くだろうけど、そんなのしてたら朝になる。













『1961年(昭和36年) 大阪中之島』








晴れてんだけども雲ってるような空なんだね。モヤ~とした幕のかかったような空気感ってのかね? 辺りが黄がかったてんだね。

暑苦しくて鬱陶しくて立ち止まり、そんな空を見上げて首筋の汗を拭いてる。神崎川の堤防を歩いてたのは覚えてる。

阪急宝塚線の三国駅で降りて、ずっと神崎川の堤防を西に向って歩いて来たのかね? 





ふつうなら、今、立ち止まってる此処は、阪急神戸線の神崎川駅で降りれば近いんだけど神崎川駅ってのに全く記憶がない。

三国駅は、しばしば利用して馴染みがあるんだね。どうやら慣れた三国駅で降りて健脚頼りに歩いて来たと思うんだけどね?

川沿いの工場の煙突の煙がモヤモヤと上がって、お世辞にもいい環境とは思えない。角の取れてない砂利の土手道はギラギラと日差しを跳ねてるよ。





記憶の端っこの、いつも出て来る光景なんだね。黒い川を右に見て左の土手下は黒やら茶色、錆びてんかね? ブリキ屋根の工場が熱を噴いてる。

ボヤア~とした空気の向こうに日差しを影にドス黒いガスタンクが聳えてる。こいつなんだよね、こいつをいつも思い出す。

記憶を寄せ集めて神崎川の土手沿いにあるガスタンクって思い込んでる。三津屋の辺りだろうかね? 神崎川には間違いがないの。





其のガスタンク前を歩いてんだね。こいつが爆発したら、オレは消えちゃうねなんて思いながら汗を拭き拭き歩いてんだね。

なんか辺りは変な臭いがするんだね。鉄の焦げたような匂いかな? そのうち、北へ橋を渡った記憶があるんだけど、何処のどの橋か全く記憶に無い。

親父の仕事の配達、おふくろが風呂敷に包んでくれてる。品物をくるくると巻いて両端交えて交差して巻いた部分をひと巻きして縛る。





こうすると手首に通して持つことが出来るんだね。工場地帯だね、そんな中に商店街のような町並みが在って、その並びに配達先が在った。

ほっとするよ。此の部分は記憶の映像に残ってる。空気が澱んで辺り一面変な臭いがして、道路は、やけに埃っぽいんだね。未舗装だったよ。

其の頃、住んでた市内の南区の日本橋筋一丁目は、いいところだなあって、改めて思うんだよ。環境的には雲泥の差だったね。





高度成長時代の工場地帯だったのかなあ? 神崎川の水は真っ黒けだったような気がする。どぶ川だったね。黄色い空に黒いガスタンク、異様な雰囲気だったね。













『神崎川三津屋のガスタンクと思われる 昭和60年代まで在ったようだね 此の写真は、其の頃(60年代)の風景だね』







「昭和何年頃の思い出や?」 36~42年頃だったかねえ。淀川河口の酉島(とりしま)にも大きなガスタンクが並んでたよ。此処とダブってんのかなって、

思ったりするんだけど川は神崎川だったのは確かだね。昔の神崎川沿いにガスタンクが在ったのかどうか、グーグルで検索して調べたら

「三津屋の北西隅当りに大きなガスタンクが有ったことを思い出しました」なんて、同じような昔の風景を語られてる記事が出てたよ。





オレの記憶では、ガスタンクは、土手から、然程、離れてないんだね。その人の云うガスタンクと一緒かは定かじゃないけどね。大阪ガスの敷地になるね。

ひとつの記憶が、まばらな記憶の点と繋がり線になる、其の中に違う点が入り込むと、おかしな具合な線になるんだね。ごちゃ混ぜだよ。

確かなのは、そのおかしいかも知れない点の中にも、当時のオレが生きて居たことには間違いがないよ。





オレは、このとき尼崎の戸の内に渡ったのかも知れないね。土手沿いに大阪ガスの広い敷地が今も在るね。南に十三筋が走ってて三津屋南の北になる。

歩いたからねえ、自転車で走りまくり、徒歩で歩きまくってた頃だよ。今地図を見ると、此処は自転車の方が楽だったね。

迷わぬ道を教えて貰ったかね? 昔は、今じゃないから、この辺りの夜は、真っ暗なんてもんじゃない、暗黒だよ。





どす黒い川を渡る橋なんかタヌキも狐も化け放題って感じだよ。変われば変わるもんだね。













『昔、大阪 神崎川沿いの三津屋のガスタンクの位置(今は無い)』 歩いた土手は、今じゃ舗装の道になって車が走ってるよ。








上の地図、黄色の枠が大阪ガスの敷地だね。川沿いだね。歩いたのは黄色の点線、効率の悪いルートを辿ってるね。脚を鍛えるにはいい運動だよ。

話のネタが浮いて来ないから思い出語って字数を稼ぐ。当時の神崎川沿いの夜は、今の人には想像もつかないほど、一面、真っ黒けだったよ。

当時は、梅田からバスで2号線の神崎川停留所に着いたら日は落ちて、辺りは、なんも見えないとこだったからね。子供のオレは、ホンマ、怖かったよ。





人は、生きようと思えば、どんなところでも生きれるもんだよ。外は暗黒でも、家ん中は裸電球が明かるく灯りちゃぶ台囲んで家族の心が通じてたよ。




























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