会津藩主 松平容保 明日(4/14)の分です。
武器と云うのは、其の殺傷能力に依って犠牲者の数を引き上げもすれば引き下げもする。銃の発明は、戦争犠牲者の数を圧倒的に増加させたね。
幕末から明治維新の頃、海外のあちら此方、戦火に覆われた国々では、当時の近代銃の影響で犠牲者の数はうなぎ上りに増えた。
日本でも弓矢は銃に取って代わり、より確かに相手を倒す効率が高くなりつつあった。
戦場の武器の主力であった刀を象徴する武家社会が、近代銃を圧倒的に装備した官軍に圧されて崩壊するのは自明の理なる結果だったね。
鳥羽伏見の戦いで刃(やいば)に命を託して、果敢に斬り込む新撰組が官軍の銃火を浴びてコロコロと倒れ往くをもって時代の転換を思い知らされるんだね。
土方歳三、永倉新八、斉藤一の天然理心流も、島田魁の心形刀流も、宝蔵院流の原田左之助も、飛び来る鉛弾には太刀打ちできなかった。
京都守護職だった会津藩士が戦さの習わしで討ち取った相手の生首を腰にぶら下げて戦って居るを見て、永倉新八が「捨てろっ」と恫喝したという。
それは、相手を脅迫する響きがあった。畏怖させねば聞く耳持たぬの武士の意地が邪魔をするんだろうね。
近代銃が相手の戦さに戦国の習わしで相手になれるはずがない。人間の生首を二つも三つもぶら下げれば敏捷な動きなど望めない。
『新撰組血風録』より
早々に武器の近代化を図った長州、薩摩からなる官軍の武力は、各地で幕軍を蹴散らし江戸に向って快進撃を続け江戸城明け渡しで幕府は倒壊。
旗本の彰義隊の上野の奮戦も虚しく破れて江戸は官軍の占領するところとなり新政府が誕生する。
幕府残党は、東北の地に退き会津藩をはじめとする奥羽越(おううえつ)列藩同盟に合流し新政府と対峙した。
新撰組と袂を別った永倉新八、原田左之助は、この上野の彰義隊に参加して奮戦した。原田左之助は、この戦で戦死とあるが一説では負傷したものの、
上野を脱出して新潟・下関・釜山を経て大陸へ渡り馬賊の頭目になったという伝説がある。
後の日清・日露戦争のときに松山で昔語りをする老軍人がいて「私は原田左之助だ」と名乗ったと伝わっている。明治40年に再び満州に渡ったとある。
180センチの巨漢で男前だったらしいね。オレと一緒やね。「どこがやねんっ?」 いや、背丈がだよ。「最初から、そう云えっ紛らわしいっ」
永倉新八は、東北に落ち延び戦い続けた。土方歳三、斉藤一、島田魁も同じく最後まで戦場の人だった。
命というのは解らぬものだね、弾丸、砲弾飛び交う中、刃を交えて戦い続けても死なぬものは死なぬものらしい。
函館、五稜郭の最後の戦場で土方歳三は戦死したが、永倉新八、斉藤一、島田魁らは、明治を生き抜いたんだね。
島田魁は、明治33年73歳で亡くなったが、永倉新八、斉藤一は、ともに大正4年まで生きた。オレの親父が14歳のときだよ。
斉藤一は、明治には、政府軍の抜刀隊に入隊、西南の役でも戦っている。凄い生命力だね。
『明治、西南の役に出動した抜刀隊(?) 向って中列右端が斉藤一らしい』
新政府軍(官軍)が、許せぬ相手は、新撰組であり会津藩であったんだね。「京都の恨み晴らさいでかっ」の思いが根深かったんだろうね。
京都守護職の会津藩の下、新撰組が多くの倒幕勤皇の志を捕縛、惨殺した遺恨は深い。
東北諸藩は、会津藩に同情的で会津藩赦免の嘆願を目的として奥羽越(おううえつ)列藩同盟を結成し結束を強めたものだったんだね。
会津藩赦免の嘆願を新政府に幾度と無く働きかけるが、「会津は実々死謝を以てのほかにこれなく」という基本方針は既に決定していた。
会津藩が、明治新政府の通達に対して罪を認めず謝罪を拒否する回答書を示した事と、
明治新政府の鎮撫使(ちんぶし)である世良修蔵が仙台藩士によって殺害された事件から戦争に傾くことになる。
慶応4年4月20日 / 明治元年6月10日(1868年6月10日)かくして会津戦争は勃発した。
会津藩主・松平容保(かたもり)は、徴兵に乗り出すが、哀しいかな会津藩は、他の諸藩も同様であるが、武士階級のためだけの藩であり、
領民に苛酷な税金を課して苦しめて藩を維持してきた経緯が祟り、徴兵が為らぬばかりか領民たちは、新政府軍を両手を挙げて歓迎したんだね。
松平容保(かたもり)は、日頃の行いの大事さを痛感したんじゃなかろうかねえ、もう、遅いけど。
「こんなさ時だけ竹槍持って誰が兵隊になるん? 一般民を馬鹿にしとんね」 「うんだ、うんだ」 なんて領民は憤ったんだろうね。
「おらたちをなんだと思ってんださ?」 「百姓めらが、おまえ達は考えなくてもいいのだっ」 「馬鹿こけ、百姓も考えるだっ」 「生意気なっ」
『会津婦女子隊と新政府軍との戦い』
白河口の戦い、二本松の戦いを勝利して、新政府軍は、大村益次郎は仙台・米沢の攻撃を主張し板垣退助と伊地知正治は、会津藩の攻撃を主張した。
板垣・伊地知の意見が通り会津藩を攻撃することとなった新政府軍は、脇街道で手薄な母成峠を急襲した。
慶応4年8月21日(1868年10月6日)、新政府軍は、母成峠の戦いで徳川旧幕府軍を破り40キロ余りを急進して同年8月23日(10月8日)朝に若松城下に突入した。
新政府軍の電撃的な侵攻の前に各方面に守備隊を送っていた会津藩は虚を衝かれ、予備兵力であった白虎隊までも投入するがあえなく敗れた。
このとき、国家老 西郷頼母邸では篭城戦の足手まといとなるのを苦にした母や妻子など一族21人が自刃し、
城下町で発生した火災を若松城の落城と誤認した白虎隊の二番隊の隊士の一部は飯盛山で自刃した。
『白虎隊の二番隊の隊士の一部は飯盛山で自刃した』
会津藩は若松城に篭城して抵抗し、佐川官兵衛、山口二郎(斎藤一)らも城外での遊撃戦で奮戦した。山口二郎こと新撰組の斉藤一だね。
しかし、9月に入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の降伏が相次いだ。孤立した会津藩は明治元年9月22日(11月6日)、新政府軍に降伏した。
同盟諸藩で最後まで抵抗した庄内藩が降伏したのは、その2日後とある。
土方歳三も参戦していたが詳しい記録がないらしい。旧幕府軍の残存兵力は会津を離れ仙台で榎本武揚と合流し蝦夷地(北海道)へ向かった。
『新撰組血風録』より
会津の戦いは悲惨を極めたらしいね。侍はもとより女子供、老若男女総じての悲劇となったらしい。官軍の長州、薩摩にとっては、恨み骨髄の敵だったんだね。
新政府軍は、会津戦争の戦死者・犠牲者の一切に対して埋葬を禁止したため、長期間に渡って放置された老少男女の死体は風雨に晒され、
鳥獣に食い散らかされる悲惨な状況となったんだね。見かねた庄屋の吉田伊惣冶が放置された戦死者を埋葬したため明治政府民政局によって投獄された。
数日後、「今回だけは許す、今後このようなことがあれば直ちに首を刎ねる、村人に知らしめよ。」と釈放された。
半年程経ち、遺体取り片付けの誓願書が多く寄せられ疫病の要因になる等の理由から、ようやく埋葬を許された。
死体の処理には藩士や村人を許さず、被差別民を使い、墓ではなく罪人塚という形で認められた。
彼らは大きな穴を掘り遺体を風呂桶(おけ)、莚(むしろ)などにぎゅうぎゅうに詰めてごみ同然に投げいれたという。
戦後処理のため残された会津藩士二十人は、皆、涙ながらに立ちすくんでいた。
この中には、ごみ同然に捨てられている遺体を丁重に葬るため身分を捨て民になる者もいたという。
『清国、北京にて55日の篭城戦を戦い抜き、各国の救援隊を迎える混成篭城部隊』 明治33年(1900年)
後の西南戦争では、多くの会津人が薩摩の巨魁(きょかい)である西郷隆盛への恨みを晴らす為に政府軍に志願したといわれる。恨み深しだね。
また、会津藩出身の軍人・柴五郎などは、西郷や大久保利通など薩摩藩出身政治家の非業の死に対して「当然の帰結であり、断じて喜べり」と語っている。
この柴五郎は、明治33年(1900年)5月の義和団事件を映画化した 「北京の55日」 の柴陸軍中佐(伊丹十三)だね。
歴史が好きなのは此れだね。「どれやねん?」 点と線が繋がるんだね。思わぬ経緯や人が絡んでいたりするね、其処が発見で面白いんだね。
『義和団と連合軍の戦い』 明治33年(1900年)
この人は、会津戦争で祖母・母・兄嫁・姉妹が自刃した悲劇の生き残り。
昭和20年(1945年)の敗戦後、身辺を整理し9月15日に自決を図る。老齢のため果たせなかったが、同年12月13日、その怪我がもとで病死する。
生粋の軍人人生を生きた人で、清国(中国)義和団事件の折の功績は、日本人として初めて世界に其の名を知らしめた人だね。
『紫禁城に攻め込む義和団と連合軍の戦い』 『柴五郎陸軍中佐』 明治33年(1900年)
長州(現、山口県)薩摩(現、九州鹿児島県)と会津(現、福島県)との禍根は、現代でも脈々と引き継がれている。
2007年(平成19年)山口県の選挙区選出の安倍晋三内閣総理大臣は、会津若松市を訪問したときに
「先輩が、ご迷惑をかけたことをお詫びしなければならない」と語ったと云うから、其の根は、今も、尚、深々と息衝いているようだね。
歴史とは脈絡、脈絡には思いが付随する。生まれ合わせば背負わねばならず、相互理解で氷解するには、長い時を要するもんなんだね。
「なんだかんだと云うても、口ば入るもん作るもんがおっての話じゃ」 なんか云うとるで。「田吾作のおっさんやな」
「綺麗ごとで米や野菜はできんのじゃ。ウンコにまみれてなんぼのもんじゃ、アホラシイッ」 えらい、イキッとおるでえ。
「与作も与平も権兵衛爺も、朝の早くから働いて真っ黒焦げんになって作った米を、持って行きよるわ、蹴りよるわ、刀で脅しよるわ、なんやねんっ」
「斬られよが、突かれよが、首飛ぼおが、知ったこっちゃないわ。また、ババ撒こかあ~」 歴史に於いての彼らは、どういう位置にあるのかねえ?
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